「たそがれ」という名前の駅
満月が見えるその日の夜、いわゆる湘南色の塗装を施した115系電車が線路を軽快に走り駆けている。
「もう11時半か」
こんな深夜に電車に乗っている客はそんなに見当たらない。何しろ、自分の指で容易に数えられるぐらいしかいないから。
そんな数少ない乗客の1人が、大学生の田熊和馬である。和馬の手には、学生御用達の『青春18きっぷ』が握りしめられている。もう一方の手には、片手で持ち上げることができるコンパクト収納された寝袋がある。
ホテルにも目をくれずにこの電車に乗っているのも、相棒であるこの寝袋のおかげである。これがあれば、どんな辺鄙なところであっても泊まることができる。
「次はたそがれ、たそがれです。お出口は左側です」
車内アナウンスの声に反応した和馬は、興味がありそうなその駅名に誘われるように車両の出口へ向かうと、暗闇にポツンと浮かぶ目的の駅が見えてきた。
ゆっくりと進みながらその駅のホームに停まると、左側のドアが一斉に開いた。和馬は必要なものを左手に持ちながらホームへ降りた。
周りを見回すと、電車から降りたのは和馬ただ1人である。車内には数える人しかいないことを考えると、ホーム上の人間が1人ぼっちであっても無理はない。
「それにしても暗いなあ。電器が1つもついていないし」
自分が乗った電車がホームから再び離れていくのを見ると、和馬は駅名標を見ようとスマホを取り出した。
「スマホの光で照らし出せば、何とか見えるかも」
駅名標らしきものがある場所へ移動してスマホを向けると、かすかに漢字で『たそがれ』と記されていた。
「多疎枯と書いて、たそがれって……」
和馬は、漢字で書かれた不気味な3文字の地名に身震いを感じずにはいられない。気味の悪い静けさの中、和馬は次第に不安が高まってきた。
「とりあえず、寝袋を広げて寝るとするか」
誰もいない改札口を通って待合室へやってくると、姿が見えないのに何人かの声らしきものが和馬の耳に入ってきた。寝る準備をしていても、和馬が暗闇の中で抱く不安は拭うことができない。
「まさか、本当に幽霊が出るのでは……」
和馬は不安を抱えたまま、寝袋に入って眠りにつくことにした。これから続く長い夜に怯えながら……。
「あれっ、ここはどこなんだ」
和馬が目を開けると、そこは夕暮れ時の駅舎の中である。目をこすりながら見渡すと、これが同じ駅なのかというくらいに雰囲気が異なることに気づいた。
「俺は、いつの時代にいるのだろうか」
戸惑いを感じるのは古い駅名標、縦書きの時刻表だけではない。和馬が座っているのは、清涼飲料水のブランド名が書かれたベンチである。
そこに置かれていたのは、誰かが読んだであろう新聞である。その新聞を手に取った和馬は、1面にある日付をじっと見つめていた。
「昭和53年(1978年)6月1日か……」
和馬がいるのは、今から40年以上前の多疎枯駅の待合室である。何もかもが違うことに困惑しながらも、和馬はその新聞をめくりながら目を通していた。
そこで見つけたのは、『甦れ! 俺の西鉄ライオンズ』と銘打ったレコードが発売されるとの記事である。記事によれば、球団フロントへの怒りや往年の名選手が盛り込まれた歌詞が、熱心なファンの思いが込められていると大いに絶賛している旨が記されている。
「あの栄光をもう一度、ということか」
低迷を続ける球団が昔の栄光にすがったり、フロントなど上層部へ怒りをぶつけたりするのは、40年以上たった現在も変わることはない。
そうするうちに、この駅を利用する高校生らしき生徒が待合室に入ってきた。見た感じでは、男女合わせて3人ぐらいだろうか。
時刻表を見ながら、腕時計の時刻を確かめる生徒たちの姿を和馬は離れたところから眺めている。スマホで時刻を確かめるのが当たり前の現在とはだいぶ様相が異なっているようである。
ここにいるのは、和馬を除けば全員高校生である。容姿が異なる和馬の姿にすぐに気づいてもおかしくないはずである。
けれども、いつまで経っても振り向く様子は見られない。高校生たちは、ずっとベンチに座ったままで動こうとしない。
「一体どうしたんだ」
心配になった和馬は、高校生の様子を見ようと彼らが座っているベンチへ近づいた。そこで顔を合わせた途端、和馬は声を出せないほどの恐ろしさを感じた。
「う、うそだろ……。こんなところにゾンビがいるなんて……」
ベンチの上で座っている高校生らしき者たちは、まるでゾンビのような顔つきで立ち上がってきた。そんな時、後ろから足音が耳に入った和馬は恐る恐ると後ろへ振り向いた。
「う、うわわああああっ!」
ゾンビ姿の女子高生を見て、和馬は慌てた様子で駅の出入口から立ち去ろうと駆け出した。しかし、化け物の鉄則があることを知らない和馬は……。
「うわわああっ! 頼むから、こっちにくるな!」
出入口から次々と入ってきたのは、学生姿のゾンビたちである。それに呼応するかのように、待合室にいるゾンビも和馬を囲むようにして近づいてきた。
「フッフッフッフッ、フ~ッフッフッフッ」
「こっちへくるな! こっちへ……。う、うわあああああああっ!」
ゾンビたちに押しつぶされそうな状況に、和馬は思わず大きな叫び声を上げました。
「わあああああああああっ!」
和馬が悲鳴を出しながら目を開けると、自分が寝袋の中にいることに気づいた。寝袋から出て待合室を見回すと、時刻表は縦書きではなく横書きになっている。
「夢の中のことだったか……。この時代にゾンビなんていないし」
ホッと胸をなで下ろした和馬は、寝袋をコンパクトに収納すると改札口からホームのほうへ向かった。遠くのほうへ行こうと、和馬はホームに停まった普通電車に乗り込むことにした。
和馬を乗せたその電車は、多疎枯駅のホームから離れると次の目的地へ向かって走り出した。それを草むらに隠れながらせせら笑っているのは、和馬の夢の中に登場したゾンビたちである。
「フッフッフッフッ、フ~ッフッフッフッ……」
不気味な笑い声を漂わせるゾンビだが、彼らが人間たちと顔を合わせたかどうかは定かではない。