夢のような夢モドキ
お越しいただきありがとうございます!以前から書きたかった物語を、なんとか形にしてみました。もう一度読みたいと思えるような出来上がりだと、いいな。
「……ごほっごほっ」
止まらない咳と鼻水。高熱。頭痛。吐き気。明らかに風邪の症状だった。
一人暮らしで病気になった時ほど、面倒なことはない。栄養を摂らなければいけないのに、起き上がるのが億劫すぎて。だからといって、そのまま寝ていても腹が減って眠れなくて。でも如何せん起きるのが怠い。そんなデッドロック状態に陥るばかりだ。
霧がかかったような、ぼんやりとした意識の中、取り留めのないことが頭に浮かんでは消える。遥か昔の黒歴史やあの時の君の言葉。あの時ああしていなければ。あの時こうしていれば。どうして世界はこんなにも。ふざけるな。そんな後悔と怒りばかりが頭を過ぎって、眠りに落ちることを許してくれないのだ。
何時間経ったのだろうか、そうこうしているうちにふと。意識が落ちそうになる。現実と夢が溶け合うような感覚。あぁ、やっと、眠れるのか。
その甘美な誘いに、嬉々として意識を手放そうとした、その時。
ガチャ、と。
家のドアが開く音がした……気が、した。
「あ、起きた?どうせ、何も食べてないんでしょ?ほら、お粥作ったから、温かいうちに食べて」
次に目を覚ますと、彼女の声が耳に届いた。その声につられて横を向けば、微笑む彼女と目が合った。あぁ、さっきの音は彼女が来てくれた音だったのか。こんなこと、なんか前にもあったなぁ。
……えぇ!?いや、そうじゃないだろ!なんで君がここにいるんだ!?君はそもそも……。
そんなことを言いながら起き上がろうとするも、身体は何故か言うことを聞いてくれない。というか、まず出したはずの声が出ていない。……そんなに症状が悪化してしまっていたのだろうか。もしもそうなら、これかなりヤバいだろ。死ぬ一歩手前みたいな症状じゃん、これ。
突然、むくっと身体が起き上がる。今度は別に起き上がろうとしてないのに、だ。
「あ、起き上がらなくていいよ。今そっちに持ってくから」
「……ごめん、ありがと」
口が勝手に動いて話し始めるとか、普通に考えてただのホラーでしかない。なんだ?人格でも乗っ取られたのか?……いや、まぁ、ここまで来れば、わかるけどもね。生憎初めて見たが、これが明晰夢というものなんだろう。いや、でも聞いていた話と違うじゃないか。明晰夢って、自分で動けたり夢の内容を変えることができたりするんじゃないのか?……疑問はあるが、実際動かせないんだからしょうがない。このまま成り行きを見守るとしよう。まぁ、それしか出来ないんだけど。
パタパタと、彼女の足音が近づいてきた。彼女は二つのお碗を持って俺の元にやってきていた。
「はい、お粥。それと、リンゴもおろしといたから、後で食べてね」
「マジで助かる。本当にありがとう」
「どういたしまして。あ、そうだ、氷枕作ってくるね?ちょっと待ってて」
そう言って彼女は洗面台の方にパタパタと走っていく。何から何までしてもらって、申し訳ないと思うが、とにかく今は食事だ。久しぶりの飯に、腹の虫が今にも飛びつかんとしている。それなのに、俺の両腕は全く動こうともしなかった。
おい!なんでだよ!早く食わせろ!そんなことを言っても意味はない。どうやら、この“俺”は、食欲があまり無いようだった。夢でさえ全く上手くいかないとは、ただただ悲しいものである。……いや、彼女がここにいるだけで充分上手くいっているのかもしれない。
「お待たせ〜!はい、ちょっと頭上げてね……うん、もういいよ、ありがと」
「何から何までごめんね、ありがとう」
「いいのいいの!こういうときはお互い様でしょ?」
あぁ、まさに、彼女だなぁ。夢ではあるが、彼女だったらまさにこう言うだろうという、素晴らしい再現率だった。久しぶりの“彼女”を感じて、涙が溢れそうになる。やるじゃん、俺の妄想。でも、氷枕は冷たくないんだね。俺の場合の明晰夢では、温度というものを感じないのか。くっ……俺の妄想力もその程度だったということか……!
そんな別にどうでもいいことを考えていると、彼女はお椀を見て、きょとんとした顔を浮かべた。
「……む?全然食べてないじゃん!どうしたの?もしかして食欲無いの?」
「……あぁ、実はそうなんだ」
「ん〜、でも、無理にでも少しは食べないと早く治らないよ?ちょっとだけでもいいから、食べれる?」
「……そうだよな。うん、なんとか食べるよ」
そんな食べたくなさそうな奴より俺に全部食べさせてくれ。ただでさえ腹が減って仕方ないのに、食べれるのが彼女の手料理だぞ?食べないわけないだろうが!いや、食べさせてくださいお願いします!
そんな俺に、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「ん、よかった。それじゃ、あーんしてあげよっか?」
「あぁ。頼むよ」
「……もう!そこは照れるところでしょ!?」
愛おしい。心の底から、ただ単純にそう思った。少し怒ったような顔も、その頬が少し赤みがかっているのも、恥ずかしげな照れた声も。そして何より、慣れないことをしてまで俺を元気付けようとしてくれている、本当に優しい彼女自身も。
どうして俺は、こんな素晴らしい女性を。
後悔したってどうにもならない。過ぎ去った時は、もう戻りなんてしない。そのことは、この一年間で痛いほどに何度も感じていたはずなのに。
まだ少し赤い顔で、目線を合わせないようにしながら彼女はレンゲをこちらに近づける。
あぁ、やっと食べることができる!もう食べることなど出来ないと思っていた、彼女の手料理だ。まるで夢のようだ。……まぁ夢なんだけど。空腹感と幸福感に背中を押されて口を開く。いざ、味わおうと口を閉じたその瞬間。
夕焼けの中、俺は遊園地に立っていた。
……は??
クエスチョンマークが頭の中を埋め尽くす。頭が目の前で起きた現象に全くついてきていない。
あ……ありのまま今起こった事を話(略)
……ふぅ。少々錯乱したが、まぁこれはアレだろ。夢特有の唐突な場面変更だ。夢あるあるだな。
状況はわかったけどさぁ……ふざけんなよ夢ェ……!場面変更は仕方ないにしても、別にあのタイミングじゃなくてよかっただろ!一口だけでも食わせてくれよぉ!せっかくの明晰夢なんだから少しくらい融通利いてもよくない……?もしかして俺の明晰夢って、ただ夢だとわかるだけなのか……?
「お待たせ〜!」
その声に振り返ると、彼女がトイレから出てくるところだった。涼しげな格好をした彼女は笑顔を浮かべながらこちらに駆けてくる。……あぁ、これ彼女のトイレを待ってる状況だったのか。なんでこんな中途半端なところから始まりやがるんだ、この夢は。どうせなら朝の待ち合わせとかからにしてくれよ。それにしても、温度を感じないっていう感覚には慣れないね。どうやら夏っぽいんだけど全然暑くないし、風が吹いても涼しくないし。
「ん。大丈夫。次、どこ行く?」
「うーんとね、あ、観覧車とか、どう?」
「いいね、行こっか」
観覧車か……。過去に見たそれを思い出して、気づく。この遊園地に俺は、来たことが、ある。いや、来たことがあるどころか、ここは俺にとって思い出の場所だ。記憶が鮮明に思い出される。
夏。彼女と二人。デート。夕焼け。観覧車。……うん、間違いない。
ここは、俺が告白をした場所だ。
「いやー、楽しみだなぁ!私、あんまり観覧車って乗ったことないんだよねー」
「あ、そうなんだ?ここのは特に大きいから、楽しめると思うよ」
うわぁ、なんか初々しい!こんな感じだったっけ、この時期って!ずいぶん昔のように感じるけど、甘酸っぱい青春みたいで、こういうのもいいね!でももうなんかね、眩しすぎて見てられないよね。うん。
「……」
「……」
うぉ!?気がついたらなんか二人とも黙っちゃってた!おい、なんか言えよ、俺!……いや、まぁ、この時の俺は告白のことで頭いっぱいで、そういうのを気にする余裕がなかったんだろうな。さっきから口調がカチカチだったし。
それに、そんな俺の様子に、目敏い彼女が気がつかないわけがない。彼女のことだから、俺が告白することに既に気づいていたのかもしれないな。そう考えると、この沈黙はある意味で当然なんだろう。
「な、なんか、緊張するね……」
「……そう、だね」
二人はついに観覧車に乗り込んでいく。まぁよくよく考えなくても、小さな密室に男女二人が閉じ込められるのだ。何となくドキドキしないわけがない。……ま、この場合は、それだけのせいではないだろうが。
デート中とは思えない沈黙の中、観覧車は二人を乗せてゆっくりと動いていく。上っていく二人とは反対に、太陽は遠くに見える山々に足を運ぼうとしていた。西日が木々を朱色に彩っている。一足先に秋が来たような景色だ。黄金色に包まれた彼女が、ただただ綺麗だった。
「あのさ」
俺の言葉が小さな部屋に響く。彼女は何も言わない。再び沈黙が場を支配する。心臓は今にも飛び出しそうなほど激しく脈を刻んでいた。
そもそも、どうしてこのタイミングで告白なんてしようと思ったんだっけ?
シリアスな雰囲気に耐えられなくて、そんなことを考え始める。いや、確かに成功率は高いと思うよ?かなり仲はいいと思うし、こうして二人で遊園地に遊びにも来れている。だから、まぁ告白すること自体はいいとしよう。でも、観覧車の中での告白は……どうなんだ?観覧車で夕陽をバックに告白。シチュエーションはエモいと思うんだけどね?ほら……もしもフラれたときさ。逃げ場、無くない?気まずくない?漫画の見過ぎじゃない?
いやぁ、若さって、いいよね……。リスクを無視してでも、想いを伝えられる。行動に繋げられる。安全策ではなく、出来る限りの最高を求める。その青さはきっと、今の俺には無くなってしまったものだ。
「俺……ずっと前から、君のことが好きだったんだ!」
……うおお!恥ずかしい!なんだこれ!新しい拷問かな?なんで自身の告白をまざまざと聞かされなきゃならないんだ……!こういうのはアレじゃん!そのときのテンションだから言えるんじゃん!やめてくれよぉ!……だが、これで俺の告白は終わらないことを、俺は知っている。まだこの痒みは続くのだ。
「俺の隣で、笑っていてほしい。そしてその君の笑顔を、俺に守らせてほしいんだ。絶対に、君を守ってみせるから」
予想していた通りに、身体中が痒みに襲われる。しかし、予想以上にこの胸を満たしたのは、羞恥でも寒気でもなくーー怒りであった。いや、それは純粋な怒りとは呼べないのかもしれない。やるせなさ、後悔、失望、殺意。様々な感情が織り混ざったーーそれでもやはり、怒りとしか呼べないものだ。しかし、その複雑な怒りの正体は、別段なんてことはない。たった一言に集約されるほどに実は単純であるのだ。即ち。
約束も彼女も、何も守れてねぇじゃねえか、馬鹿野郎。
「だから俺と、付き合って欲しいんだ!」
そんな俺の想いとは裏腹に、少年の言葉は響き渡る。顔の半分だけが紅く照らされている彼女は、眦を輝かせながら幸せそうな笑みを浮かべ、静かに口を開いた。
次の瞬間、俺は街中の歩道を歩いていた。
まぁ、そのタイミングだろうな、とは思っていた。またもや場面変更かよ、長えなこの夢。そろそろ覚めてもらってもいいんだが。
目に映るのは見慣れた街並み。少々騒がしい雑踏の中、俺の足は交差点に向かっていく。
はぁ。
心の中で、ため息を吐く。
また、この夢か。
この一年間で何回この場面の夢を見たことだろう。寝てはこの夢を見て夜中に飛び起きて、目を閉じればまたこの夢を見る。もう、ある意味で慣れたものだ。……嘘だよ。こんな夢、慣れるわけが、ない。しかし今回の夢は妙に現実味がある気がする。都会特有の排気ガスの臭い。すれ違う人々の会話。自動車のエンジン音。自分の舌の感覚。いくら明晰夢とはいえ、これほどリアルなものなのだろうか?先ほどまでの夢ではここまでのリアルさはなかったはずだけどなぁ。ここまでくると、明晰夢というよりもタイムスリップなどと言った方がしっくりくるような気もするが……はは、流石に小説の読みすぎだな。
歩行者用信号は赤。十字路で立ち止まる。視界の端に、向こう側にいる彼女の姿が映った。そう。別にデートをしていたわけでもないし、会う約束をしていたわけでもない。それぞれ別の用事でここに来て、たまたまここで出会った。……ただ、それだけだ。出会ってしまった。それだけが、全ての原因なんだ。
彼女と目が合う。彼女は少しだけ目を見開くと、パッと花が咲くような笑顔を浮かべた。俺の顔がニヤけるのを自覚する。そりゃそうだ。愛しき彼女との、思ってもみない出会いに胸が躍るのは致し方ないことだろう。しかし、この夢を見る度に自覚するんだ。
俺は、ただの愚か者であると。
普通の幸せというものが、どれだけ脆弱であるのかを知らない、羨ましいほどの幸せ者であったと。
信号が変わるまでの時間が刻々と迫る。口の中が乾くのを感じた。
このままで、いいのか?
そんな声が聞こえたような気がした。……いいんだよ、このままで。というか、このままでいることしか、出来ねぇだろうが。どうせこの夢の中じゃあ、俺は動けねぇ。
耳障りな誰かさんに言い訳がましくそう吐き捨てて、俺は静かに目を閉じた。どうしようもない現実から逃げたくて、あの日のことを思い出す。忘れもしない、今日から465日前……一年とちょうど百日前のことだ。そして、今から俺の目の前で起こることだ。
あの日俺は、彼女の誕生日プレゼントを買いに来ていた。毎年あげているから、別に今更サプライズというわけではないし、彼女と一緒に買いに行ってもよかったのだが……まぁ、そこは雰囲気というやつだ。本当に、余計な真似をしたと思う。素直に二人で行っていればよかったんだ。……まぁ、そんなことを悔やんでも仕方がないのは、わかっている。
……で、なんやかんやで選び終わって、俺は軽食でも取ろうとファストフード店に向かったんだ。そして今の場面に繋がるわけだな。
彼女と目が合った後、俺は人混みを抜けて背後の建物に背中を預けた。彼女がこちらに来るつもりな以上、俺が向こう側に歩いてもしょうがない。横断歩道の真ん中でイチャついても邪魔になるだけだからな。……はぁ。こうやって思い出す度に殺意が湧くね、過去の俺自身に。
信号が青になって、彼女が小走りで俺の方に寄ってきた。そして、まぁ、端的に言えば、彼女は轢かれたんだよ。……どうだ?どこにでもあるような、それこそ物語の中には山ほど溢れているような、アリガチな悲劇さ。よく俺も小説とか漫画とかでそういうシーンは見てたけどさぁ、まさか俺の目の前で、しかも俺の彼女が、とは夢にも思わなかったなぁ。それにさ、なかなか想像してた以上に、キッツいんだわ、ホンモノって。
まずさ、トラックが左折してきたんだよ、彼女の後ろ側から、笑えるくらいの超スピードで。もしや、と思った矢先にさ、案の定突っ込んで来たんだわ、そのトラック。超スピードで来るもんだからさぁ、まぁ当然曲がりきれなくて!俺側に突っ込んできたんだよねぇ!でも、タイミング的に普通なら全員助かるはずだったんだ、その時横断歩道を渡っていた歩行者と俺は。
……普通なら。なんてったって歩行者がちょうど真ん中ですれ違うタイミングで起こった事故だったからね。……でも、その時は例外がいた。そう、小走りで俺の方に向かってきていた彼女だ。彼女は一人だけ横断歩道を渡りきる寸前にいたんだ。そしてそこにトラックは突っ込んだ。曲がって微妙に逸れた故に俺を轢かないで。そのトラックは、他の誰も轢かず、他の誰でもない彼女だけを轢いたんだ。突っ込んだのは大型トラックだ。そんなのにまともに轢かれて無事であるはずがない。何故か無事だったなんて、そんな奇跡は起こらない。……もちろん、即死だったよ。
なんだか長々と話したけれど、結局のところ、彼女は轢かれたんだ。俺のせいで。きっと俺があそこにいなければ、彼女は轢かれることはなかったし死ぬこともなかったんだ。考えれば考えるほどに結論は紛れもなくそれだった。心のどこかでただの自己満足だとはわかっていても、彼女のご両親には謝り続けることしかできなかった。謝っても謝りきれなかった。それどころか、俺の方が慰められる始末だ。本当に情けない。
君が気に病むことはないよ。
君は何も悪くないよ。
そんな言葉を聞く度、より自分を殺したくなった。しかし、彼女を追ったとしても、きっと同じ場所には行けないだろう。そんな半ば諦めに近い絶望に自殺を留められる。鬱々とした日々の中、何度も頭を過ぎる言葉があった。……過去に戻れたら。何度も何度もそんな妄想をして、最後に俺は思いついたんだ。たった一つの、冴えた行動を。
あの時に戻れたなら、俺はーーー
パッと、目を開ける。軽快な合図音が鳴って、信号は青になっていた。彼女が小走りでこちらに向かってくるのが見える。あと数秒で彼女の命は消えるのだ。俺を邪魔そうにしながら周りの人々は歩いて行く。ーーそこで、小さな違和感を感じた。
ーー俺は今、目を開けたのか。
そうだ、そういえば、先程も俺は目を閉じていた。なんで気がつかなかったのか。この夢では、俺は、動くことができるのか!そういえば、おかしなことだらけだ。大体、現実と同じような夢であるならば、俺はこの瞬間後ろの建物に背中を預けていなくてはならないはずだ。それなのに俺は今、横断歩道の端に立っている。つまりこの夢では、現実と同じように動くことが出来るということだ。そんなことならもっと早く気づくべきだった。悠長に回想なんてしてる場合か、アホ!いや、そんなことを言ってもしょうがない、今は、彼女を助けることだ。なぁに、焦ることはない。何回妄想したと思っているんだ。そう、この状況を打破する方法は簡単さ。俺が彼女の方に歩いていけば、それで解決。他の人の邪魔になろうが何だろうが関係ない。それだけで彼女を救えるんだ。さ、もう時間はあまりないからな。さっさと彼女のもとに駆け寄ろう。それで万事解決だ。
右足を前に動かす。ーー動かない。
左足を前に動かす。ーー動かない。
どうして動かないんだ。いや、どうして動かさないんだ、俺は。その問いへの答えは、その理由は、とっくの昔から知っていた。何度考え直しても最後に辿り着く結論。それを認めてはいけないと思っていた。認めたくなくて、ただ見て見ぬ振りをしていただけだったんだ。そう。あの時に戻れたなら、俺はーー
ーー君と一緒に、死にたいんだ。
君のいない世界で生きるのはもう疲れた。それよりも、君と一緒にこの世界から消えてしまいたい。そんな狂ったようなことが酷く美しく思えた。終わってしまった世界の、最高の終わらせ方に思えたんだ。君と二人で生きていくことが、決して届かない夢のようで。どうしてか燻んで見えてしまったんだ。
おかしいのはわかってる。俺の頭はきっとおかしくなってしまったんだろう。でも、これはどうせ夢なんだ。ここで君を救ったって何かが変わるわけでもない。目が覚めれば、いつも通りの色のない世界だ。それならば、別に好きにしたっていいだろう?一緒に死んでしまいたいんだ。夢の中だとしても二人で死ねたなら、俺はそれで全く満足なんだ。それだけできっと俺は明日、旅立つことが出来る。
走り寄ってくる彼女。その左後ろに見えるトラック。あぁ、もう、間に合わないなぁ。顔が思わず歪むのがわかる。今、俺はどんな顔をしているのだろう。自然な笑顔だろうか。狂った笑顔だろうか。それとも。
そのとき、彼女が、きょとんとした間抜けな顔になったのが見えた。どうしたの、とでも次の瞬間に言いそうな顔だ。その顔を見て、彼女との思い出がフラッシュバックする。あるいはこれが走馬灯というものなのかもしれなかった。
彼女と初めて話したときのこと。初めて一緒に帰ったときのこと。観覧車での告白が成功した後のこと。付き合って初めてちゃんとしたデートをしたときのこと。初めてキスをしたときのこと。初めて彼女と繋がったときのこと。
彼女の顔が、彼女の声が、蘇る。今でも鮮明にその声が聞こえてくるようだった。
『どうしたんですか?私の顔に何か付いてます?』『どうしたの?忘れ物でもした?』『どうしたの?あはっ、なんで泣いてるの?』『どうしたの?もしかして、手、繋ぎたいの?』『どうしたの、って、ッ!?』『……どうしたの?……いいよ』
この顔がどれだけ愛おしかっただろうか。この顔にどれだけ俺は救われただろうか。そんな彼女をどうして俺は救えなかったのだろうか。……どうして俺は今、彼女と死のうとしているのだろうか。
パッ、と、視界が開けたような気がした。鬱屈とした闇に一筋の光が射したような感覚。何が、一緒に死にたい、だ。メンヘラか?バッドエンド大好き野郎か?はんっ!笑わせてくれるな!本来、俺が目指していたのはただ一つ。未来を彼女の隣で歩む。たったそれだけの、どこにでもありふれているような、それでいてかけがえのないハッピーエンドだったはずだ!
もうすぐそこにトラックが迫っている。俺の視界はそれだけを捉えた後、涙でぼやけてしまった。拭っている暇などはない。彼女がどんな顔をしているのか、それさえももうわからなくなってしまったが、俺のするべきことだけはわかっている。これは君が教えてくれたことだ。……また、君に救われてしまったなぁ。今までの借りは全部、将来返すから。もうちょっとだけ待っててくれよ。ごめんな。
右足を踏み込む。もうすでに彼女は手の届く位置にいた。トラックが迫っている。渾身の力で、彼女を突き飛ばす。彼女はどうやらトラックが当たらない位置まで行ってくれたようだ。トラックが迫っている。そのまま俺自身も飛び込む。これで、なんとか!間に合え!これは夢なんだろう!?最後くらい、夢を見させてくれよ!
ーーもしもこれが、小説や漫画であるのなら、ここで俺は助かるのだと思う。二人とも助かって、抱きしめあって。そんなハッピーエンドがあったなら、それはこの上ないほど幸せだろうと思う。しかし、これは。この夢は。
夢のような、現実であった。
あぁ。やっぱり、ダメか。
現実の苦さを噛み締める。
唇からは血の味がした。
唇が、熱い。
ごめんな。
一人にさせて、ごめんな。
なに、やってんだろうな、俺。
……愛してい
衝撃が、身体に走った。
ふと、目を覚ます。
どうも長い間寝ていた気がする。頭がうまく働かない。……いや、頭どころか腕も身体も動きやしない。まだ夢の中なのか、それともそこまで重病だったのか。ぼんやりとした眼で天井を見つめる。そういえば、天井がうちのとは少し違う気がする。それになんだ、この口と鼻を覆っているものは。
突然、視界に何かが入り込んできた。あぁ、彼女だ。紛れもない彼女だ。そうか、それならば、これはまだ夢なのか。あぁ、君が俺の傍にいる。まるで夢のような夢だなぁ。
少し大人びたな、と、彼女を見て思う。髪も前見た時よりも伸びた気がするし、なんだろう、少し、やつれ気味のような気もする。……あぁ、そうだな、ちょうど俺と同じようなやつれ具合だ。まるで、最愛の人でも亡くしたかのようなーーー。
ーーもしも、さっきまで見ていた夢が現実であったなら。そんなことが頭に過ぎった。タイムスリップした俺が、死ぬはずだった彼女を救って未来を変える。はんっ!なんだその、物語によくあるような展開は。現実に起こるわけがないだろう。……考えるだけ無駄だ。優先すべきは目の前の彼女だろう。
やぁ、とでも言ってみようとしたけれど、声が出てくれない。しかし、声が出ないのは彼女も同じなようだった。彼女は泣きそうな、それでいて嬉しそうな、不思議な表情を浮かべている。目に浮かべた涙は今にも溢れてしまいそうで、そんな涙は君に似つかわしくないと思った。
君の涙が俺の頬に落ちる。
あぁ、そうか。ふと、悟る。たいした根拠があるわけではない。ただ、信じてみたくなっただけだ。この、頬から感じる温もりを。君がここに生きているなどという、夢物語を。しかしそれでも、ある種の確信があった。
これは、夢では、ない。これはーー
ーー夢のような現実だ。
それならば、彼女に言ってやらなければならないだろう。今までの借りを少しでも返さないとな。こんな締まらない姿で情けないが、そんな表情に対して言うことは随分と昔から決まっているんだ。だから、君がよくしてくれたように、今度は俺が。息を吐くように静かに言葉を紡ぐ。この言葉を君に言うことが出来る幸せを噛み締めながら。
おいおい、そんな、泣きそうな顔をして、
「どうしたの?」