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異世界転生失敗奇譚  作者: 八田弘樹
人魚の哀怨歌
9/14

悲しき音色

 岬から帰路へ着く頃には、太陽は西へと傾きつつあり、大聖堂の背に隠れるように徐々に沈んでいく。つづら折れから見える大聖堂は、鋭い橙の光が後光のように差しており、少し不気味な感じがして、それが妙な胸騒ぎを駆り立てる。

 宿に帰ると時刻は十六時をちょっと過ぎていた。すぐに部屋へ向かい、ベットの前までくると、身体を支えていた心もとない緊張の糸が切れてしまったのか、吊り糸の支えを失った操り人形のごとくベットへ崩れ落ちたのである。

 泥のように眠ったのち、目が覚めると時刻は十八時だった。目が覚めた原因というのは、隣の部屋から物々しい音が聞こえてきたからだ。

 物々しい音の理由だが、隣の部屋にいるリセは、どうやら十九時から行われるミマの帰郷によるパーティーに出席するため、準備をしていたらしい。パーティーについては宿屋の奥さんが伝えに来てくれたそうなのだが、俺は意識の底まで眠っていたため、起こしては悪いと思い、伝えなかったそうだ。そして代わりに起きていたリセへ伝言したのだという。昼間にユーリが、

「先生、これでやっとお聞かせすることができます。私は楽しみです。では、のちほど」

 と、告げた言葉を思い出して、なるほどと思う。

「先生も早く準備してくださいよ? あのユマって女性の事だから、遅れたらとんでもないことになること請け合いですよ」

「はあ、準備って言っても俺の着衣って……」

 俺は昨日からずっと同じ格好なのである。

 灰色のスラックスに真っ白なカッターシャツ、紺色のテーラードジャケットを羽織り、首に巻かれた赤の基調に細いグレーのラインが斜めに入ったネクタイは、だらしなく緩みきっている。

 平素変わらぬ通勤時の服装なのだが、いちおう正装といえば正装なので、これでも問題なさそうに思う。が、あの絢爛な長女のことである。パーティーも一段ときらびやかで豪勢であろうと予想される。服装負けしなければよいのだが。

「先生、ずっとそれですよね。洗濯しないと臭くなっちゃいますよ? 私がしてあげましょうか?」

「え、いや、大丈夫。今からじゃどうせ間に合わないし、今日はこれでいくよ」

「あーあー偉大なお告げ人なのに、中身はこんなズボラだなんて、みんなが知ったら幻滅ですよ?」

「別に威厳を保っていたいわけじゃないから、幻想なら早々に砕けてくれた方が俺としてはありがたいけどな」

 リセの瞳には強い呆れの色が揺らめいている。つまらなさそうに嘆息し、壁に身をもたせて、

「ちなみに場所なのですが、この街の北にある酒場で行われるらしいですよ」

「え? 酒場? 大聖堂とかじゃないの?」

「私もそう思ったんですが、違うんですよね。なんだか意外ですよ、あんな高飛車なお姫様が、街の酒場でパーティーだなんて。ギルドの飲み会じゃあるまいし」

「あっはっは。飲み会かぁ、たしかにな」

 俺もリセの意見に同意する。自分の物持ちの良さと威厳を、限りな傲慢と共にふてぶてしく振りかざしていたのに、なんだってそんな質素な場所なのだろう。

「でもなんだってそんな陳腐な場所で?」

「それにはどうやら理由があるようですよ」

「理由?」

「はい、どうやらあのお姫様、最近はどうも経営逼迫、家計は火の車のようでしてね、お金もとんとなく、贅沢なんてもってのほかなのだとか。それもこれも、あの教皇様というのが仕送りを打ち切ったからだという話らしいですよ」

「え? ちょっ、ちょっと待って? 最初からお願い」

 リセがいうにはこうである。

 長女のミマは、七年前に大陸のある貴族の家に嫁いで行ったのだが、七年前といえば、ちょうど大聖堂と教皇の家が火事に見舞われた年である。火災直後、強硬派早々と貴族の家へ嫁にやったらしいのだ。身内である娘を疑っているという教皇としては、身内でもっとも疑わしきミマをさっさと追い出したかったのだろう。支援金を工面してやるから、出て行けということだ。いわば手切れ金みたいなものだろう。

 ミマとしても、支援金を定期的にもらえるのならと文句はなかったようで、教皇の条件を飲み、どこかの貴族の家へと嫁いで行ったのだ。だが、昨今になって、とうとつに支援金の一切を打ち切られ、ミマはたいそうご立腹であるらしく、ことにミマ自身も懐妊したとのことで、いよいよより多くの金が必要となってきたわけである。

 ミマの夫については、昔こそ名の知れた有数の名家様だったのだが、ミマを嫁にもらった途端、家運がガクッと地の底に落ち、失速に失速を重ねた今となっては、日の目を見ることなく、落日の一途にあるという。さらに嫁夫両者とも支援金ありきで金遣いも非常に荒かったため貯蓄もないというのだから始末が悪い。なんとも間抜けな話である。

「ここへきたのも、帰郷というより、金の無心が目的のようですね。最悪金品巻き上げて去っていくつもりですよ、あのお姫様」

「なるほどねぇ。でもプライドの高いお嬢様だから、それを知られまいとあんな豪勢な振る舞いをされて……健気だねぇ。でも結局知れわたっちゃってる訳だけど」

「それは仕方ないですよ。こんな小さな島ですもん。噂なんてあっという間ですよ。それはそうと先生、昼間にユーリさんがおっしゃってた意味ってなんですか? やっとお聞かせできます、って」

「ああ、あれね」

 俺はベットからやおら腰をあげて、窓辺までゆっくりと近づいて外を眺める。

 家屋から漏れる薄ぼんやりとしたハロゲンのオレンジ色の光が、薄暗い石畳の道にところどころ散りばめられ、じんわりと暖めているように見える。

 リセは俺の顔をじっと凝視して、話の続きを今か今かと待っている。俺は少し焦らすように、ゆっくりと息を吐いてから、今朝のユーリと出会った経緯を説明した。

「なるほど、ユーリさんの使ってるヴァイオリンがスペアだったから、本領が発揮できてなかったけど、今日本命が帰ってきたから、これでやっと本領発揮できるぜ! ということですね」

「まあ、おおざっぱにいえばそうだね」

 俺はちょっとおかしくなって笑うと、リセもつられて笑顔になり、

「それは楽しみですね。おそらく今日の歓迎会で聞けることでしょう。のちほど、とか言ってましたし」

「だといいけどな。じゃあとりあえずぼちぼちいこか」

 俺はリセを連れ立って階段を降りると、宿屋の主人にたまたま出くわした。そこで今日は遅くなるという旨を伝えると、

「気をつけて行ってらっしゃい」

 と切り口上で答えて、どこかへ行ってしまった。どこかよそよそしい印象を受ける。

 やはり何かに怯えているような気がする。昼間の港での異様な空気もそうだが、この島にはなにかいびつで禍々しいものが漂っているように思えてならない。杞憂であればいいのだが……

 物思いに耽りながら外へ出ると、街の光景に一瞬で現実に引き戻された。思わず感嘆する。

 窓から見るよりもはるかに優しく暖かい光が、ぼんやりと道のあちらこちらに浮かんでいて、これらは全て家屋から漏れる光なのだが、それはまるで川を流れる灯篭のような神秘的な風情があり、趣のある古めかしい石畳の道と相まって、まこと憎い趣を演出している。こう見ると石畳の上を鬼火が漂うているようにも見えて、とても美しい。

 さて、宿屋を出てから最初の十字路を右へ曲がり、ひたすらまっすぐ向かうと、目的地の酒場が見えてくる。酒場は街の北側にあるつづら折りの坂道のちょうど目の前にあり、二階建ての建屋となっている。

 酒場は他の建屋と見た目はそれほど変わりないが、強いて違う点を述べるなら、他の家屋よりも少し大きいということだろうか。

 酒場へついた俺たちは、開き戸のノブを引いて中へ入った。

 部屋の広さは十畳ほどで、まず目についたのは、円卓に並べられた豪勢な料理である。これは俺の空腹による料理のアンテナが敏感になっているせいもあるが、とにかく料理が仰山に積み上げられているのだ。円卓は四つで横一列に等間隔で並べられている。卓の真ん中には鳥の唐揚げのようなものや、サラダと思しきものや、少し場違いな刺身の盛り合わせ、あとはスパゲティみたいなものが大仰に中央へ鎮座している。匂いもこれまた格別で、さまざまな香ばしい香りが入り混じり、思わず垂涎を禁ずる事ができなかった。右奥のカウンターを見ると、調理師と思しき人が数人、せっせと料理に勤しんでいる。これほどの料理を揃えるとなると、少し骨が折れるだろう。部屋の左隅には昼間に船で運ばれてきたであろう荷物が山積みになっていて、その傍らで、港で見た町長とリショウさんがなにやら話し込んでいる。

「どうも、こんばんは。リショウさん、町長さん」

「ああ、先生。いらしてくれたのですね」

 そう答えたのはリショウだった。町長との話を中絶し、こちらへ向きなおる。

「教皇様となにやら準備をしていたようで、大変でしたね」

「ええ、まあ」

 リショウは疲労の色を濃くした顔でわずかに頷いてみせたが、しきりに手の甲で汗をぬぐったり、目をしょぼつかせてそわそわしていたりと、なんだか落ち着きがない。

「どうかしたんですか?」

 リショウの様子に見とがめた俺が尋ねると、隣にいた町長が会話を引き取って、

「ああ、リショウさんはね、ミマ様が大の苦手なのですよ」

「え? そうなんですか?」

「ええ、昔からソリが合わないというかなんというか、がっはっは。相性が悪いんですよ」

「町長さん、勘弁してください……そんなこと聞かれたらどうなるかわかったもんじゃない」

 リショウは慌ただしくドアや窓へと目を走らせて、いまいましそうに町長をとがめる。

 町長はリショウの様子を気にかけることなく、豪快に笑い飛ばし、

「そういえば挨拶がまだでしたな、先生。私はこの島で長をしております。リーベルと申します」

 リーベル町長はうやうやしく、立派に盛り上がった肉体を折り曲げて頭を下げた。

「ああ、いえ。こちらこそ、挨拶が遅れまして申し訳ありません。カワグチと申します。こちらの女性は……相方のリセです。以後お見知り置きください」

「よろしくです」

 リセと一緒に頭を下げて挨拶をする。

「ところで町長さん、今日は誰がお集まりになるのですか?」

「ああ」

 リーベル町長は瞳にかっと強い光を宿すと、左の手のひらを右拳で打ち下ろして、

「伝え忘れておったな。いや失敬失敬。本日は、ここにおりますリショウさんと私、あとは先生とリセさん、妹君のユーリお嬢様、教皇様、あと教皇様のところで女中をしておりますリンとセチ、そして主役のミマ様ですね」

「思ったより多くはなさそうですね。いやぁ、助かりました。僕はこう見えて人見知りでして……」

 仰々しくおでこを撫でながらおどけて答えるなか、ふと頭の片隅にかすかな疑問が走る。

 何故、女中さんまでパーティーに参加するのだろう。ああいった人種は階級に強くこだわるタイプであるため、こういった場合、普通なら女中さんには声をかけないはずだが……

 よほど不思議そうな顔をしていたのだろう。はたまた例の頭上に浮かぶアレを見てのことなのか、リーベル町長が意地悪く笑みを浮かべて耳元で、

「あの女中は二人ともね、教皇様の愛人なんですよ」

 と呟いた。

 俺はあっけにとられて大きく目を見張った。

 しかし、ここで大声をあげるのははばかられるので、喉の奥へぐっと声を押し込み、それからゆっくり息を吸って、

「それは本当ですか? 随分ご発展ですねぇ」

 と周りに聞かれぬようにリーベル町長へ耳打ちする。

「これを知っているのはごく限られた人だけです。さすがにこれが露呈しては教皇様としての威厳が損なわれましょうからな、はっは」

 リーベル町長は掠れたような声でそう告げると、耳元から一歩下がって人差し指を口の前に立てて見せて、ニヤリと歯を見せて笑う。

 俺は何も答えず頷いて答える。

 しかし、耳聡いリセにはリーベル町長とのやりとりが筒抜けだったようで、

「ちょっと先生……教皇様、本当に大丈夫なんでしょうか。教えを諭す身でありながら、軽く畜生の道に足突っ込んでますけど——」

「ちょ、ちょ、ちょっと、ちょっと! 声大きいって、静かに」

 慌ててリセの口を押さえて周りを確認する。幸い、リーベル町長とリショウと話の続きを始めており、聞こえていないようだった。胸をせり上がってくる大きな不安を一息に深く吐き出してから、声を潜めて、

「それは宗教のあり方にもよるし、今はなんともいえない。とりあえずこの件は他言無用で」

 と、リセの耳を打ってから、リーベル町長がしたように人指し指を屹立させて口に添えてみせると、リセは苦虫をかみつぶしたような憮然とした表情を浮かべつつ、不承不承頷く。

 カウンターの真上にある時計に目をやると、時刻はまもなく十八時半に差し掛かっていた。

 ここで、リショウさんが大聖堂に準備していたものを取りに行くと言い、カウンターにいる店主らしき人物に、猫車を貸して欲しいと申し出てると颯爽と酒場を出て行った。

 リショウが出てしばらくすると、ユーリがやってきた。

 その時分、リーベル町長とリセの三人で談笑をしていたのだが、ユーリが入ってきた瞬間、三人が一斉に彼女に釘付けとなる。

 彼女は例によって例のごとく、青リンドウのような控えめな紺色のドレスを召していて、今朝方つけていたブレスレットの代わりに、首からシルバーチェーンが掛けられていて、チェーンにはあふれんばかりの蒼を誇る大きなアクアマリンがつり下げられている。質素な出で立ちではあるにも関わらず、人を惹きつける美貌の魔力は絶大で、目を奪われずにはいられない。これも天成の美しさのなせるわざなのだろう。

 このあまりの美しさに、リセも思わずまぬけに口を大きく開けている。

「うわぁ、改めて見ると本当に美人ですねぇ。同じ女でも見とれちゃいますよ」

 リセは感嘆の声をもらすと、

「あら、お褒めの言葉どうもありがとう」

 ユーリはリセの方を振り返ってにっこりと笑った。

 リセは不意に顔が燃えあがったかのように真っ赤になり、目を少し伏せる。

「先生も来てくださったのですね。ありがとうございます」

「いえいえ、ヴァイオリンのメインが帰ってきたとなっては、来ないわけにはいかないので。それに約束しましたしね」

「ええ、そうでしたね」

 ユーリはそう答えて、隅に積まれた数多くの船荷の中なら、奥底にあったヴァイオリンのケースを取り出すと、おもむろにケースを開ける。

 早速弾いて聴かせてくれるらしい。

 しかし、俺は彼女の持つヴァイオリンにおや、と思い、

「ユーリお嬢さん、それスペアでは……?」

「ああ、見た目は全く一緒ですが、これはスペアではありません。一般の方は見分けがつかないでしょうが、握り心地や重みなんかが全然違うんですよ。これは私にしかわからないでしょうけど」

 ユーリは頰にほんのりと朱を浮かべて、ふふ、と控えめに笑う。

「正式な演奏会とか出ないと滅多に持ち出さないのですが、今日は修理が終わった記念と調整を兼ねて、特別に」

「ほう、そうなんですか。なら今日は運がいいです」

「そう、そうですぞ先生。ユーリお嬢様といえば、その界隈では世界有数と言われているほどの奏者なんですよ。まさに天性の才能というやつですな」

「はあ、なるほどなるほど。それでいて絶世の美女と来たもんだから、天は二物を与えずというのはやはり眉唾物ですね」

「全くですな、がっはっは」

 リーベル町長は腹を揺らして豪快な笑い声をあげる。リセは相変わらずユーリの姿に釘打ちでもされたかのように見惚れている。

「では、さっそく」

 ユーリはヴァイオリンを肩にかけ、弦に弓をそっと置く。

 緊張に似た沈黙が一瞬場を制する。

 そして次の瞬間、唐突に弓が弦の上を滑らかに滑ったかと思うと、一点の曇りのない透明な快い音が、耳の奥底まで浸透していく。

 行きつ戻りつしながら弓が弦の上を華麗に舞い、その度に音の線が雫となって、緩急つけて流れていき、天の川のような煌びやかな旋律を紡いでいくのがわかる。

 小刻みに震える美しいヴァイオリンの旋律が心に一陣の風を巻き起こすが如く、名状しがたい何かが油然と溢れてくる。それと同時に、旋律には一種憂いにも似た物悲しさを帯びていて、心の奥底から孤独感をくすぐられるような切ない気持ちにもなった。まるで悲恋を嘆くような物憂げで綺麗な弦の音と、涙を噛みしめるような、悲しくもあり切なくもあるような、複雑な色を浮かべた艶かしいユーリの表情が相まって、胸に迫るものを感じる。その様子はまるで一人寂しく夜空に向かって慟哭をしているかのようだ。

 それにしてもとても美しい響きである。この色鮮やかな音色を前にして、琴線に触れない者はいないだろう。

 俺はふと美しい旋律から我に返り、周りを見渡してみると、その光景にぎょっとするのである。

 俺とリセを除いた人たちが、みなユーリを見ている。そこまでなら別段、妙なことはないが問題はその表情である。

 誰しもが皆、顔を青くして表情を強張らせ、大きく目を見開いているのだ。ユーリを穴があくほど見つめる皆の視線は一種不気味なおどろおどろしさを催さしめる。奥にいる料理人の方を瞥見すると、手に持っている包丁がするりと落ちるのが見えた。これは明らかに異常である。

 いくらユーリの演奏が呼吸を忘れるほど素晴らしいとしても、この動揺の仕方は異様とも言える。

 やがて今朝方聞いたわななくような弦の延びる音がして、演奏が終了すると、酒場は緊張を孕んだ沈黙が降りかかる。が、しばらくして、盛大な拍手がユーリに浴びせられたのである。俺はホッとしつつ皆に倣って拍手を送る。

「いやあ、ユーリお嬢さん。素晴らしい演奏でしたね」

「ありがとうございます。ヴァイオリンの調子もいいみたいで本当に良かったです。最近は人前で演奏することもなかったので少し緊張しましたけど」

 ユーリはほっぺをほんのり赤くして、小さくお辞儀をする。そして、ヴァイオリンをケースへしまい、再び船荷の山の奥底へと戻した。

 おや、どうしたことだろう。せっかくメインのヴァイオリンが帰ってきたのに、持って帰らないのだろうか。

 俺はユーリの動作を疑問に思っていると、ユーリが俺の不可解な面持ちに気づいたのか穏やかに微笑みながら、演奏で気がついた細かな修正や最終調整やらで、また大陸の専門店の方へ発送するのだ、と述べた。

 世界的に有名な奏者ともなれば、こだわりも人一倍強いのだろう。俺にはちっともわからない世界だ。

 ヴァイオリンの演奏中、ユーリの頭上に浮かぶ数多のスキルの数を思い出して少し嫉妬もしたのである。

 そんな俺たちのやり取りを眺めていたリーベル町長が、だしぬけに、

「ユーリお嬢様、先ほどの曲は……」

 リーベル町長の表情がひどくやつれているように見えた。

「ええ、そうですとも。いまこの街に一番必要なものですわ」

 ユーリの言葉に、リーベル町長が驚愕の色が濃くなっていく。リーベル町長のただならぬ様子に見かねた俺は俄かに興奮して身を乗り出し、

「この曲はなんというのですか?」

「……セイレーンの鎮魂歌、ですよ。先生」

俺は驚きのあまり、これ以上にないほどに目を見張る。

「セイレーンの鎮魂歌……」

 ユーリの言葉を反芻し、ついおうむ返しにもらす。

 ヴァイオリンの奏でる慟哭にも似た悲しく切ない旋律の意味、それは凄惨な運命の憂き目にあったセイレーンの悲哀を鎮めるためものだったのか。

 その瞬間、突然、凍るような冷たい戦慄が背中をまっすぐ貫いた。

 その後、教皇がこの酒場にやってきたのは、演奏からきっかり二十分後である。

 そこでようやく飯にありつけた訳なのだが、実はここからなのである。

 この事件の奔流が俺たちを目まぐるしくかき回した挙句、飲み込んでいったのは。

 そして、彼女がなぜこの時、この曲を選んだのか。その理由の答えもその先にある。


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