絢爛たる長女
俺がようやく食事にありつけたのは、太陽もすっかり地平線へと溶けて、宵の口がいよいよ本格的な夜にならんとした頃おいであった。
時刻にして十九時前後だろうか。日本の季節ではちょうど秋ぐらいに相当するようで、夜がじりじりと昼を詰めよって領分を横取りしているのか、夜の訪れが早くなっているようだ。
さて、俺たちが奥さんの呼びかけに応じて押っ取り刀で宿を出た時分が、ちょうど十二時で港に駆けつけた時には、時刻は十二時二十分を過ぎていた。しきりに町長たる方が、腕時計を確認しているのを盗み見たので、何となく覚えている。
港はかなりの人数でごった返しており、まるで鍋で煮込まれている筑前煮のようであった。有象無象のほとんどがブロンドの髪色をしているせいか、港一帯は一種日照りで輝く砂漠の地肌のようになっている。なんとも不思議な光景である。奥を望見すれば蒼茫な海がたたえていて、かたや港一辺は砂漠の黄砂に埋もれているのだ。
「本当にミマ様はやってくるのか?」
「間違いない、今日に帰ると届けがあった」
喧騒にうごめく人々のなか、ひときわ目立つのがこの町長である。
見た目は六十そこそこであろう老体なのだが、体躯は非常に恵まれており、老いによる衰えを全く感じさせない。その健康体もさることながら、顔に刻まれたいくつもの皺から、長い人生を歩んだ中で得た知見や経験の数が豊富であることが窺え、それが他とは違う貫禄を感じられる。誰が見ても彼が町長であることを疑うものはいないだろう。
しかし、その威厳に満ちた町長の顔も、その時はすっかりなりを潜め、微かな怯えと焦りが漂っていたのである。
「ああ、帰ってくるのか。あのお姫様が」
「そうらしいな。大丈夫だろうか」
「そういえば、教皇様は?」
「どうやらリショウさんとなにやら用事があるとかで、夕方まで顔が出せないそうだ。大方歓迎会の準備でもしてるんだろうよ」
「はぁ、呑気なこって」
街人の喧々囂々とした声が海の潮騒と混じり、一種ノイズに似た不快な音となって耳の中を響きわたる。
「先生、これは一体どういう騒ぎなんでしょう」
「どうもこうもリセちゃん、ミマ様という方が帰郷なさるんでしょうよ」
「はあ、そのわりにはみなさん非常に怯えているように見えますけど」
さっと港一帯の砂漠を見渡せば一目瞭然、皆が皆おもてを曇らせ、薄気味悪い不穏がその場にべっとりと張り付いている。そしてそれが、人々の熱気で暖められた生温かい熱気と、夏の湿気に似た嫌にじっとりした空気に緊張を走らせていたのである。
俺たちは一時、有象無象に混じって様子を探っていたものの、蒸し蒸しとする人々の熱気に堪えかねて、堤防の階段まで避難したのだった。
宿の主人や奥さんも同様のようで、俺たちより少し下の段で左見右見して様子を探っている。
やがて、一隻の船が地平線か浮かび上がった。誰かがそれを発見し、指を差すと人々の緊張はじりじりと高まっていく。緊張と怯えにこわばった皆の気が、空気を伝って身を焦がすような焦燥感にも似た緊迫感を生んでいる。
立派な船が一隻、港へ停泊した時いよいよ緊張が佳境を迎えた。
皆がじっと息を潜めて、終焉へ向かう舞台の行く末を見守るかのように、船をじっと見つめている。
そのうち、一人の淑女が船を降りてきた。
その瞬間、わっと悲鳴に似たような歓声が沸き起こり、港一帯を揺らした。
ミマ、と呼ばれる女性が露出の激しい真っ赤なフリルドレスを着用しており、なるほど、妹がリンドウであるならば、彼女は興奮と怯えに痙攣する港一帯のなか、十重二十重に埋もれる彼女は、さしずめ砂漠に咲く一輪の薔薇といったところだろうか。
「綺麗な女性ですねぇ、私とどっちが綺麗でしょう」
リセが鈴を転がしたように笑うと、
「先生はどう思いますか?」
「さあ、間近で見てないから何ともいえんなぁ」
「はあ、先生ってほんと女性の扱い下手ですよね。そういう時は君が一番だよ、ハニー、とか言っときゃいいんですよ」
「時代錯誤を感じさせる口説き文句だね、それ。あっはっは」
俺は急におかしな笑いが込み上げてきて、腹を抱えて身を折った。
リセはいぶかむように俺を見ていたが、少しすると、
「あ、先生! あれ」
と叫ぶ声が聞こえたのでふと顔をあげる。俺はおもわず驚いて目を見張った。
今朝方見たリンドウ——ユーリが静かに階段を降りていくのが見えたのだ。
そういえば、姉と一緒にメインで使っているヴァイオリンが今日帰ってくるといっていたな。
しかし、いつのまに横を通り過ぎたのか、全く気づかなかった。
みながユーリの存在に気づくと、モーゼが海を割るがごとく、堤防の階段からミマの元までさっと一筋の道が出来上がったのだ。
その道をゆっくりとユーリが歩いていく。俺たちも無意識のうちにあとへと続く。
「お姉様、ごきげんよう」
ユーリがドレスの裾を両手で持ち上げ、軽く膝を落として上品に挨拶をする。その直後、不意に周囲から感嘆の音が漏れた。彼女の一挙手一投足から滲みでる美しさに思わずうっとりしたのだ。彼女の美しさを語るに枚挙にいとまがない。
「あらあらユーリ、わざわざ出迎えてくれたの。出不精のあなたが珍しい」
対するミマはなかなかどうして気位の高いお嬢様であった。
器量はユーリに及ばないものの、良い方ではある。しかし、リセほどではない。
妹のユーリがおしとやかで慎ましい保守的な女性なら、ミマは苛烈で攻撃的な美しさを宿した女性といえよう。薔薇の棘のように尖った鋭い目は誰彼ともになく射竦め、つり上がった眉毛からは人々を見下すような傲慢さが垣間見れる。つま先上がりな右口角には卑しい薄ら笑いが浮かんでおり、なんともそれが鼻につくのである。俗にいう嫌な女というやつだ。それがそこそこの器量であるだけに、よりいっそう嫌味加減がひとしおである。
「それよりお姉様、例のものは……?」
しかし、そんな姉の嫌味などにも目もくれず、ユーリは淡々とした様子で尋ねる。
「ああ、はいはい。積んであるから安心なさい。ほっんと、音楽しか能がありませんこと。あんたも男の味の一つや二つ、覚えたらいかが?」
「お姉様……街の方々が大勢いらっしゃる前で、そのような発言は慎まれた方がよいかと」
「そういうところがあんたはいけませんのよ、わかるかしら?」
不意に鈍重な沈黙がコールタールのようにべっとりと張り付くのを感じた。これほど人がいるというのに、聞こえてくるのは海のささやかな潮騒のみである。普段は人の心を落ち着かせる穏やかな波音も、この時に限っては、この滑稽なやり取りを揶揄しているようにしか聞こえなかった。随分と皮肉なものである。
ユーリはあきれた顔を浮かべてしばらくミマを見ていたが、やがて小さく嘆息して踵を返し、
「先生、これでやっとお聞かせすることができます。私は楽しみです。では、のちほど」
「ええ、僕も楽しみにしています」
ユーリはまたも丁寧な挨拶を行なうと、やおら堤防へ向けて静かに歩き出した。
リセはユーリを見送ってから、好奇にみちた表情で、
「聞かせるって何をですか?」
と、尋ねてくるので、
「ああ、あとでいうよ。それより今はここを退こう。ミマお嬢様の邪魔になってしまう」
「あら、私なら構いませんわよ」
ミマもまた、好奇の光を瞳に宿していた。
「はあ、ですが。これほど皆様が集まっているところを見ると、なにやら重要なことが……」
「重要なことなどありませんわよ。私が帰ってくるのですから、島の者全てが出迎えるのは当然でしょう。出迎えないと言う方がおかしいんですの。そんな奴は死刑ですわ。おっほっほ」
「はあ」
まるで当然というように右手の甲を口に当てて高らかに笑った。最後の一言に街の住人の顔色が変わったことを俺は見逃さなかった。これは冗談で言っているのではなく本気なのだろう。こうも権力を鼻に掛けているといっそう清々しささえ覚える。
「あなた、お告げ人でしょう?」
ミマの思いがけない言葉に何故だかドキッと胸を打った。
「え、な、なぜそれを?」
「この島では大した騒ぎにはなっておりませんでしょうが、私のいた大陸の方では、まあたいそうな号外になっておりましたわよ。写真も載っておりましたし」
「そ、そうなのですか」
いつ情報が流れて、いつ写真を撮られたのか全くわからないが、俺はすっかり有名人のようだ。
「さあ先生、行きましょう。今宵は宴です。そして記念すべき日でもありますわ」
「記念すべき日、というのは?」
「ええ、私。懐妊いたしましたの。今日はそれが発覚した記念日」
ミマはうふふ、とのどから絞り出すような笑い声に、思わずどこかへんな胸騒ぎが沸き立つのを禁ずることができなかったのである。
その騒ぎが収まりをつけたのは、十四時をとうに過ぎた頃だった。
宿屋へ一旦帰った俺たちが、再び岬の方へと足を向けたのは、リセがどうしても岬を見てみたいと駄々をこねたからである。
つづら折りの坂道を登って進み、枝分かれした道を右に折れる。
さすがに雲ひとつない強い日差し中だと、森の中の鬱蒼とした嫌な不気味さも半減され、初めて訪れた時よりも、幾分スムーズに進むことができた。また、今朝きた時は気づかなかったが、どうやら草が踏みならしてあるようで、道のようなものができていたのである。
おそらくユーリが森の中を通りやすくするためにしたのだろう。
草の道をひたすら進むと、景色が開けて、途端に波の騒ぐ音が鳴り響いた。
「ここが先生の言っていた岬ですか」
「そうだよ、どう? すごい見晴らしいいでしょ?」
「はい、潮の風が気持ちいいです」
リセはそよぐ髪を右手で押さえて頷いた。
港に吹く風とは違い、岬の風はやや乱暴で少し冷ややかなものがあった。
「でもこういうところ、リセちゃんは辛いんじゃない? 昔を思い出して、さ」
「んーそんなこともありませんよ。私、海は好きですから」
それは本当のようで、笑顔で答えるリセの顔にはゆったりとした穏やかな表情が浮かんでいる。
リセは静かに岬の先まで足を進め、やがて今朝ユーリが立っていた場所までくると、
「こうして波の音や潮の匂いを嗅ぐと……不思議と一人じゃない気がする、というかなんというか」
リセは頰に淡い朱を走らせ、自分の抱く思いを恥じらうように顔を少し俯ける。
「なんというか、なに」
俺は出来るだけ優しい声で先を促した。
「えーそうですね、あはは。こんなこと言ったら変ですけど、母に抱きしめてもらってるみたいな気持ちになるんです。海の空気の中に身を置くと」
「そうなんだ」
リセはとても恥ずかしいようで、羞恥心に顔を真っ赤にして、おおきくかぶりを振って、
「先生! 今、絶対子供だって思ったでしょう!」
「いや? 全然」
俺は素直に答えた。しかし、それを変に勘違いしたのかリセは悔しそうに唇を噛んで、地団駄を踏んだ。
「絶対バカにしてますね! ひどいです! 七十二歳なのに!」
そういえばそうなのだった。しかし、およそいくら七十二歳の所作とは思えないリセの立ち振る舞いに、見た目が幼いと中身も自然と幼くなるのだな、と感慨に耽る。健全な魂はなんとやらというが、幼い肉体には幼い魂が宿るのである。
だが、同時にそんな彼女を不憫にも思う。親を知らなければ、人に甘えることもまた知らずに生きてきたのではあるまいか、そう思えてならないのだ。
「わかってるって。それより少し冷えるし、もう帰ろう。このままじゃ風邪を引くよ」
「そうですね。わかりました」
と言って、リセが踵を返した時だった。
「あれ?」
リセが急に喉を詰まらせたように呟いたのである。
俺は思わず息を飲んだ。
リセの柔らかい大きな瞳には、たっぷりの涙をたたえていたのである。涙はさらりと頬を伝って顎先で止まり、ぽたりと垂れる。悲哀とも寂寥ともつかぬ名状しがたい色が陽炎のように瞳の中をたゆたっている。
「わたし、どうしたんでしょうね」
泣き笑いを浮かべるリセの顔に、俺は目をそらさずにはいられなかった。
リセの顔をまともに見ていると、俺自身なにかに駆られてしまいそうで、直視するに忍びなかったのだ。