長女と次女
「あら、こんなところにお客さん?」
弦を撫でる弓を止め、女性がこちらを振り返る。
俺は乱れていた呼吸を整えることすら忘れるほどにぎょっとした。
そこに立っていたのは、まるで岬に咲く一輪のリンドウのごとく、慎ましい凛とした極めて美しい女性だったのである。
年齢は二十代前半ぐらいだろうか。絹のようなきめの細かい純白の肌には、まったくの加齢を感じさせず、まるで蝋人情のように永久に美しさが保たれているかのようだ。両目は切れ長で、すこし鋭く見えはするが、そこに冷たさや険があるというわけではなく、むしろ母性のような暖かみを感じさせる。くりっとした黒く澄んだ瞳と、ほのかに下がったなまなじりからは、満遍の優しさと温厚さをたたえていて、控えめな奥ゆかしさを強く印象付ける。両頬はほんのりしもぶくれで淡い朱をにじませ、丸みを帯びた顎がこれまたひとしおに愛嬌をそそられるのだ。肉肉しく艶やかな女性的な唇と対比して細く筋の通った鼻には少しバランスの悪さがあるものの、その不完全さこそが、彼女の美貌をことさら際立たせているのだろう。
これほど器量のよい女性を今まで見たことがない。というのはリセの容姿に対する所感で述べたが、彼女の場合はそれをはるかに凌駕しているのである。いくらこの美に関して筆舌の限りを尽くしても、過言には一切ならないだろう。絶世の美女とはまさにこの女性の為にある言葉だと、思い知らされる。
「ああ、いえ。その……」
俺はこの満開に咲き誇る可憐なリンドウを直視するに忍びなかった。これほどまでに美しい女性と視線を合わせる事が恐れ多かったのである。
「街の宿からここを眺めていたら、灯りが見えたものですから、てっきり思い誤ったのかと」
「あらあら」
女性は金箔をあしらったドレスの袖を口に当てて、控えめに笑い、
「違いますよ、私は毎日ここで、これを弾いているんです」
彼女は両手の楽器と弓をわずかに広げて、肩をすくめてみせる。
「ああ、そうだったんですか。あはは、これは失礼しました」
俺は頭をぽりぽりと掻きながら苦笑する。彼女はまっすぐ俺の目を見据えるが、俺は未だに彼女と視線を交わす事に抵抗があった。
「ところであなたは……この島の方ではありませんね?」
「ええ、僕は……悠久の丘から参りました」
「ああ、悠久の丘」
今の一言で察したらしく、彼女は俺を見つめたまま、困ったような表情を作って小さく笑った。
「先生、この島には何があると思いますか?」
「はあ」
「私はね、この島には魔物が棲んでいると思うんです」
「そのようですね、先日街にあるバーのマスターから……」
「いえ、そういう魔物ではないんです」
彼女は言下に否定する。何かうしろ暗い翳りのようなものを彼女の声から俺は汲み取った。
「私のいう魔物は……」
ふと彼女の双眸が少し細くなり、遠くを見るような目になる。視線の先にりう俺ではなく、別の何かを見ているようだ。
「いえ、今はやめておきましょう。それより先生、お父様にはもうお会いになりましたか?」
「お父様?」
「ええ、街の人たちからは教皇様と呼ばれています。それはもうご存知でしょう? あの人は私の父なんです」
「ああ、というとあなたが教皇様のお嬢さんということなんですね」
「はい」
彼女が、教皇様の二人娘のうちの一人なのか。
ということは、教皇様の言う、自分の殺害を企てた容疑者の一人ということか。
その思考に至った俺は、思わず凍りつくような戦慄と恐怖を噛み締めずにはいられなかった。
本当にこんな美しい女性が、教皇様の殺害を策していたのだろうか。
「いえ、まだお父様にはお会いできていません。なにぶんここへは来たばかりですので」
「ああ、そうなのですね、知らなかった。私、外へ出てもここしか来ないので街の情報や噂には疎くて……ごめんなさいね」
「いえいえ、こんなみずぼらしい男が来たって大した噂にもなりませんから、耳に入らなくて当然ですよ。ところでお姉さん、それはヴァイオリン、ですよね?」
異世界でもこの楽器をヴァイオリンと呼ぶのかどうか、という確認である。
「ええ、そうですよ。私、これしか能がなくってね、うふふ」
控えめに笑う彼女の微笑みには、どこか冷たく寂しいものがいつも漂っていることを俺は察知する。
「とても綺麗な音色でしたよ。この綺麗な音がなければ、今頃、僕は森の中で迷子になっていたでしょうね。まるで音に惹かれるようでした」
「音に……惹かれる」
にわかに彼女の表情が凍りつき、瞳に怯えの色がかげろうのように揺らいでいる。ほんのり朱の入った白絹のような双頬からさっと血の気が失せていく。が、すぐに取り直してまっすぐ俺の顔を見ると、
「もう、先生はお世辞がお上手ですね。ありがとうございます。でも、残念です。このヴァイオリンが本命のものであれば、もっとあなたをうっとりさせられたでしょうに。あいにくスペアでして」
彼女は両腕を少し開いて首を傾げてみせる。そこでなにやらきらりと光るものが目につき、視線をそちらへむけると、彼女の右手首に琥珀のブレスレッドがつけられていた。琥珀はとても丁寧に精錬されており、純度の高い透明感を誇っている。その色はさながらリセの瞳にやどる金色のようである。
「そうだったんですね、それは残念だ。今度、是非聞かせてくださいね」
「ええ、よろこんで。ああ、でもその時は近いかも知れませんよ。なにせ修理に出していたものが今日、帰ってくるんですから」
「本当ですか? それはとても楽しみですねぇ」
「ええ、そう……姉のミマとともに、ね」
姉、という言葉を口にした彼女の表情に、俺は思いがけず慄然とする。
名状しがたい恐怖とも怒りともつかぬどす黒い感情が、底なし沼のように彼女の表情を飲み込み、深淵のような翳りで満たされていた。
「申し遅れました。私は次女のユーリでございます。以後、お見知り置きを、先生」
そう、彼女の姉の来訪こそ、この血も凍るような戦慄と恐怖が渦巻く、物々しい血なまぐさい事件の口切りだったのである。
岬を後にして宿屋に帰った時には、太陽はすでに半分ほど空へ弧を描いていた頃おいだった。
宿屋の扉をくぐり宿の主人に挨拶をしていると、階段をものすごい勢いで駆け下りてきたリセが、
「ちょっと先生! どこいってたんですか!」
と、開口一番で怒鳴りつけてきた。
「ああ、ちょっと岬にね。あそこはいいよ。見晴らしが最高だ」
リセの言葉を軽く流しつつ、さっそく食堂へと足を運ぶ。
食堂は十二畳ほどの大きさで、円卓が綺麗に間配られていて、俺たちは適当な場所へ座を決めた。
部屋の一角はカウンターのようになっていて、宿の主人がその中で、手際よく手を動かしながら、心地よい音を立てて料理をしている。胡椒と肉の焼けた匂いが合わさり、食欲を俄然引き立てる。
昨日から一食も取っていないせいか、腹の虫は空腹の念も沸き立つ気力も失せたようではあるが、この匂いを嗅げば腹の虫も、のたうちまわらずにはいられないだろう。しかし、昨日、マスターのところで食事をしなかったのは失敗だった。なにせ文字が読めずどうにも弱った俺は、水のみでやり過ごしたのである。くだらない意地とちっぽけ虚栄心が、心の健康を保つため、身体のゆとりを見事に奪い去ったのである。それがいけなかったのである。猛省猛省。
幸い、宿の主人が先ほど好きな料理を作ってあげるから、と申し出てきてくれたため、俺はステーキをご所望つかまつったのだ。
「はあ、岬?」
リセはこの街の岬を知らないようであったが、しばらくあきれたような表情を作ってから、小さく嘆息し、
「夢遊病ですか、あなたは」
「夢遊病とはなんだ夢遊病とは」
「だって先生、用もないのに岬なんかへ出向くなんて、どう考えても正気の沙汰じゃない。先生は夢遊病に違いない。夢心地でほっつき歩いてたんでしょ? そうでしょ?」
リセは俄然怒りに紅潮させた顔で、語気を荒げて詰め寄ってくる。
「いやいや、違うよ。朝早く起きたら、岬に灯りが見えたから行ってみただけだよ」
「灯りぃ?」
「そうそう、だからさ、てっきり自殺でもするんじゃないかと思って、慌てて飛び出したのよ。すると……」
「すると?」
「あはは、先生。さてはユーリ様にお会いになりましたな」
話が耳に入っていたのか、キッチンから宿の主人が容喙する。
主人は慣れた手つきでせわしなく料理をしつつ、
「美人だったでしょ?」
「ええ、とてもお綺麗な方でした。ほんとうっとりものですよ、あれは」
「でしょうねぇ。本当に美人ですから。滅多に人前に出ませんので、なかなかお目に掛かる機会はありませんがね。まあ、街に顔を出したら出したで、男どもがだまっちゃいないがね、かくいう俺もその一人……いや、これはカミさんには内緒で」
「あっはっは、ご主人もいけませんねぇ。でもお気持ちはわかります。あの美貌はまさに魔性だ」
そうだ、ユーリの美貌は人を惹きつける魔性を帯びている。あの異常なまでの蠱惑性は、セイレーンの歌声のそれに似ている。人を惑わせ、堕落失墜させる悪魔ような美声。彼女はそれを風貌として体現しているかのようである。
「ねえ、先生。ユーリって誰ですか」
リセは茫然とした表情をおもてに浮かべて、何処ともない浮ついた声で尋ねてくる。
「ああ、教皇様のお嬢さまだよ」
「へえ、そう」
「どうかしたの?」
リセの表情がかすかに曇るのを感じて声を掛ける。彼女も今朝の俺と同様の思考に至ったのだろう。
しかし、それは火災事件の容疑者の一人だと宣った教皇のお言葉に信じるのなら、の場合であるが。
という言葉が喉まで出掛かるが、主人もいることなのではばかられた。
「いえ、大丈夫です」
「そう? ならいいけど。ところでご主人。今朝ユーリさんから聞いたのですが、なんでも今日、お姉さんが帰ってくるとか」
俺がそう告げるやいなや、主人の顔が一変した。
恐怖で顔を引きつらせて、血色のいい顔からさっと青ざめる。朱の気配が失せた土気色の唇をしきりにわななかせている。
「ど、ど、どうしました?」
俺は尋常ではない主人の反応に、思わず身を乗り出した。
「ああ、いや。なんでもありませんよ」
主人は平然を保とうと笑いかけたが、その顔にはまだくっきりと恐怖が張り付いて、表情筋が小さく奇妙に痙攣している。
これは、なにか深い事情があるな。
そう踏んだ俺は、
「ご主人、教皇様のところの長女はどんな方なのですか?」
何か知っている事があったら教えてください、と二の句を継ぐ。
その直後、食堂の入り口へと騒々しい音が近づいてきた。
ぎょっとして入り口を振り返ると、血相を変えた奥さんが食堂の入り口に張り付いて、
「あんた、それに先生方! ミマお嬢様が……お見えになりましたよ! 早く港へ!」
そうして結局、念願のステーキも食いそびれたのである。