岬の上の淑女
手当たり次第に二階建ての建屋の戸を叩き、四軒目に差し掛かったところで目的の宿屋にたどり着いた。顔を出した主人はリショウの紹介文を受け取るなり、俺たちを中へと促し、すぐに部屋を提供してくれたのである。
宿の主人は三十歳前後の恰幅の良い男性で大変人当たりが良く、その奥さんも同様に人がよく、福の神のような真ん丸な顔をしていて、とても愛想のいい方だった。
福の神のような奥さんに導かれるまま、階段を登って部屋へ案内される。
「さあさあ、疲れたでしょう。すぐにご夕食の準備を致しますね」
「ああ、どうも。突然、押しかけてしまって申し訳ない」
「いえいえ、大丈夫ですよ。もともとうちもこの通り、あまり繁盛しておりませんからねぇ」
奥さんは目尻の下がった目を細めると、口に手を当てておほほと笑う。
こうなると完全に福の神のようだ。この笑顔を壁に立てかけておけば、たいそうなご利益が期待できることだろう。
「はあ」
「ではごゆっくりと」
「あ、あー。ちょっとすみません」
おれはそこでふとある事に気づき、戸を閉めようとした奥さんを呼び止めた。
「はい、なんでしょうか?」
「ええっと、重ね重ね申し訳ないんですが、部屋って分けてもらえたりしませんか?」
リセに目をやりつつ奥さんに部屋の手配を頼む。
「え、ええ。構いませんが……」
奥さんは幾分不思議な表情を浮かべるが、あくまで七福神様のごとき笑顔は崩さない。
「ええー先生、別にいいじゃないですか! 一緒は嫌なんですか?」
リセも奥さん同様、不思議そうにこちらを見ている。
貞操観念が正常であるならば、成人した男女が相宿するのは、カップルや夫婦でない限りはばかられるだろう。
「いや、普通他人の男女は同じ部屋で寝泊まりしないよね?」
「ええ!? そうなんですか? 初めて知りました。というのも私、こういうのは初めてなもんで」
「そうだよ。リセちゃんも女性なら、そういうところはしっかりしておかないと、いつか火傷しちゃうよ?」
「……火傷ですか?」
リセはけむに巻かれたと思ったらしく、鼻白んだ様子で奥さんへちらっと目を向けた。奥さんは俺とリセのやりとりで事を察したようで、
「ふふふ、わかりました。リセ様、では隣の部屋へどうぞ」
と言って、リセに部屋を出るよう促した。
やりとりの意図を未だよくわかっていないリセは、釈然としない様子でしぶしぶ部屋を出て行った。【慧眼】なんていうおよそ探偵の俺(といっても名ばかりだが)が持っているべきスキルを、彼女は持っているくせに、こうしたセンシティブな内容に、鈍感なところを見ると、あまり役には立っていないようだ。
彼女が部屋を出たところで、俺はドアを閉めて、ベットへ身を沈めた。
部屋は大変質素で、白い壁はまん丸な窓が一つと、8畳ほどの空間には白いベット、隅に置いてあるこじんまりとした化粧台しかない。
しかし、だからと言って不便というわけでもなく、部屋にはユニットバスとおぼしきものも付いており、それなりの備えはあるので憂いはないのだ。
白いシーツにふかふかのマットが、疲れた体にとても沁みる。
訳も分からぬまま、あの草原から引っ張り出されてここまできたが、本当にこれは夢ではないのだろうか。本当は全部夢で、明日起きたらいつものように、朝の出勤ラッシュで揉みくちゃにされる毎日が始まるのではないか。
浮かんでは消える疑問に思考を沈めて目を瞑ると、不意に意識が遠退くのとを感じ、ぬかるみにはまったようにまどろみへと落ちていった。
夢の中では、チョークを持って黒板に何かを示してつらつらと喋る自分がいる。しかし、しだいに深い深い闇の底から、ひたひたと忍び寄るどす黒く寒々しい邪念に足を掴まれ、ドロドロと引き摺り込まれていく。闇に溺れる俺はなすすべもなく飲み込まれていき……。
と、そこで意識が急浮上して、ふと目がさめる。
窓の外に目をやると、濃紺な夜の背景が白の壁にぽかんと穴を開けている。吸い込まれそうなほど澄んだ窓の闇は、今まで見たどの穴よりも暗く深いものであった。しかしそれは、ひとえに街明かりが極端に少ないからだろうと俺は察する。今まで住んでいた所が明るすぎたのだ。
今は何時だろう。キョロキョロと辺りを見渡す。が、この部屋に時計はないようだ。
そこで俺はある事に気づく。そういえば俺、スマートフォンをどうしたんだろう。
ズボンの右左のポケットに手を当てて探るものの、一向に見つからない。さてはどっかで落としたのか。俺はにわかに悄然として肩を落とした。
とはいえ、この世界ではスマートフォンなど使用できないだろうし、あってもなくても一緒か。だが、時間がまったく把握できないのは痛い。腕時計も昨夜はつけていたはずなのだが、起きた時から紛失していた。安価なものだからと深く気に留めなかったが、なければないで、こういう時に困るものだな。
思案を巡らせつつ部屋をあとにして通路に出ると、四角の窓から白い壁に手をついて外を眺めているリセが目についた。
「どうしたの?」
「あ、先生」
「ねれないの?」
今何時なのか、と聞かずにリセにこう尋ねたのは、リセの顔が深い翳りに包まれていたからである。
「ええ、はい……恥ずかしながら。どうも……この街、落ち着かなくって」
「まあ無理もないよね、ちょっと不気味な感じするし」
「ああ、いえ、そうじゃないんです」
彼女は言下にきっぱり否定すると、頭頂の耳をひょこひょこ動かして、
「海がちかいから、でしょうか。なんだか懐かしいような、寂しいような、そんな想いを抱いてしまうんです。いつもはそんな事ないのに」
俺は船の中でリセが言っていたことを思い出す。
さざめく波と広大な紺碧の海にさらされた浜辺の小屋に捨てられていたリセは、いまだに両親の顔も知らないのだ。
残酷なほど広い海を前にして、ひとりぼっちがどれほど寂しく辛いものなのかは、想像に難しくない。
リセのこの深い表情を前に、思わず身につまされる。
港町にいれば、いやがおうでもその感情を思い出さずにはいられないだろう。
「幼少期の記憶は意外と根付いてるもんだからなぁ。こんなくんだりの港町に来れば仕方ないよ」
「そうでしょうか……」
リセが視線を再び窓へ投げかける。愁眉を寄せて憂いに揺れる瞳がしっとりしている事に気づき、俺ははっとして目を背けた。にわかに重く痛々しい沈黙が降りかかる。
「そういえば、今って何時なの? 夕飯食いそびれたんだけど」
良い話の接ぎ穂が見当たらず、結局、気になっていた内容を尋ねる事にした。この場の空気から、これを切り込むのは、いささか以上に野暮な気もするが、女性の涙に慣れない俺は、一刻も早くこの沈痛な静寂を打ち破りたかったのである。
「え、時間ですか? さあ、月がてっぺんにあるから夜のてっぺんあたりじゃないですか」
どうやらリセもわからないようだ。俺ははあ、と嘆息して、
「いやいや、月がてっぺんにあるからと言って零時とは限らないよ」
「そうなんですか? 知らなかったです」
「リセちゃんは時計とかもってないの?」
「時計? ああ、もってませんね。私、時間には縛られないたちなので」
リセがこちらを振り向き、ニヤリと歯を見せて笑う。その顔にはもう先ほどの陰りはなくなっていて、安堵に胸をなでおろす。
「時間をしっかり守れない人は社会人としてダメですよ?」
「しゃかいじん? それは一体どこの国の方ですか?」
「え!? ああ、いや。知らないならいい」
今朝からずっと気になっていたが、この異世界では伝わる単語とそうでない単語があるようだ。
「ふーん、でもそういう先生も時計持ってないですよね」
「いや、持ってたんだけど、どうやらなくしちゃったみたいなんだ」
「……そうですか」
リセの物憂げな表情をうかべたのち、のどを詰まらせたような声で、
「先生って、そういえばお告げ人になる前、どこにいたんですか?」
「え?」
そういえば身のうちをまだ明かしていなかった。
しかし、身のうちに医局を尽くすのはいささか気後れするのだ。
経緯を説明したところで、信じてもらえるのだろうか。いや、それどころか説明した事によって、俺がただの一般人だと露呈し失望されてしまわないだろうか。お告げ人がただのしがない学校の教師だったと知れれば、幻滅されかねないだろう。いや、されるに違いない。
そうなれば後の祭りである。右も左も分からないこの正体不明の異世界でたった一人、孤独のまま放り出される事になってしまうのだ。それがいかにおぞましく、 そして悲しく寂しいことか、考えただけでも戦慄で背筋が凍ってしまう。
「昔のお告げ人たちは神に選ばれてあの草原に落とされる前は、代々天の住まう神々の使者だったと聞いています。先生もそうなんですか?」
思わずぎょっとして目を見張る。
そのような荘厳な人たちと肩を並べているのか、俺は。なんだか大変居た堪れない気持ちになる。
「まあそんな感じ」
それでも一般の学校教師であることはひた隠しにしなければならない。
「そうでしたか」
「そうだよ」
「はあ……私、てっきりただの一般人なのかと思ってました」
リセの言葉に思いがけず愕然とした俺は、リセの頭上に視線を走らせた。
しかし何も文字は浮かんでいない。いつもの【慧眼】とやらではないのか。
「あっはっは、そんなバカなことはないよ」
「はあ」
「じゃあおれ、もう少し寝る事にするね。リセちゃんも早く寝るんだよ」
いち早くこの場を立ち去るため、早々に踵を返す。
「先生」
不意にリセが俺を呼び止めた。そして一言、
「先生も今、一人ぼっちなんですね」
と呟いたのである。
俺は背筋に一筋の冷たいものが伝うのを感じながら、おもむろにリセの方へ振り返って大きく目を見張った。
「嘘が下手なんだから、先生は」
煌々とした青白い月明かりに照らされたリセの横顔には、妖しくも麗しい微笑みが浮かんでいる。冷たくもきらきらとしたきめの細かい白い肌と垢抜けた妖艶な笑みに、不覚にも胸が高鳴りを禁ずることができなかった。
しかし、何度見てもやはり頭上には【慧眼】の文字はないのである。
部屋に戻ってベットに入り、再び惰眠をむさぼるも、空腹が睡眠の妨げになったのか、二度目に目を覚ましたのは、夜が鳴りを潜め出した朝まだきの頃おいだった。
うつらうつらとした夢の片鱗が時々脳内をかすめては消えてを繰り返すうちに、忽然として意識から睡眠の気配が断たれた。
仕方なく身体を起こして窓をのぞき見ると、宵の闇へと寄り添うように朝日が東の空から顔を出していた。果ての空から伝わる朱色が夜の紺色に染み渡り、綺麗なグラデーションを織り成している。
どうやらこの窓は北を向いているようで、明けの明星が右手に見える。
朝の誕生をぼんやりと眺めていると、やがて島の全貌が淡い朝日の光の下にさらされ、徐々に浮き彫りになる。
朝日の鋭い閃光がまず浮かび上がらせたのは、島の東端にある岬であった。ゴツゴツとした岩でむき出しになった断崖絶壁に、つま先上がりとなって岩が細く伸びている。
次に正面にまっすぐそびえ立つ苔色の山肌が、深い闇から霧をまとって姿を現す。山の高さはそれほどでもないが、なんといってもかなりの急勾配である。その様はさながら剣のようで、天を穿つようにまっすぐ厳かに屹立している。この山を登るのは、熟練した登山者でもかなり厳しいだろう。
そして最後にマスターやリショウが口にしていた教会が顔を出す。
教会を見てまず目を引くのが、青と黄と赤のラインがそれぞれ交差した、煌びやかなステンドグラスである。2、3キロほど離れているであろうここから見ても、それがはっきりとわかる。間近で見れば圧巻される事請け合いだろう。巨大なステンドガラスは、教会の白い壁等間隔で張り巡らされていて、それがまた一段と厳粛な外装に拍車をかけている。
教会へはどういくのだろうと逆に道筋をなぞっていくと、どうやら街の北側にあるつづら折りの坂道を登らなければならないことがわかった。山肌を沿うように伝う道をひたすら進むと、教会へ辿り着けるようだ。街の人たちはみな、この道を通って教会へ向かうのだろう。
反対に岬の方への道筋だが、おそらくあの場へ行く者は滅多にいないのだろう。東側は森となっていて整備された道がどこにも見当たらない。にわかに失望の念が油然としてあふれたのは、是非ともあの岬から海を眺めたいと思っていたからである。
しかし、そこである事に気づき、おや、と思う。
岬側の森から何やら一つの小さな光がひょっこり姿を現したのだ。光は小さくゆらゆらと揺れ、岬の先を目指し、やがて岬の先端へ光がたどり着くと、ふと光が消えたのである。
間違いない、あそこには誰かいるのだ。そこで俺は、ある恐ろしい考えが稲妻のごとく脳裏によぎる。
——いけない!
俺は慌てて宿を飛び出し、北側へ向かって駆けていく。
やがてつづら折りの坂道が見えてきて、坂の折り返しに差し掛かった頃、正面の地平線から朝日の輪郭が完全に姿を現していた。あたりの風景がより鮮明に浮かび上がり、紺碧の空はすずめ色へと変わっていく。
息を切らせながら坂を登りきって少し進むと、左右に道が分かれており、左側を見ると整備された道が延々と続いている。となると、あの岬へは右側の道ということになる。しかし、右側の道は少し続いたのちに忽然と途絶えており、奥には鬱蒼な重苦しい森が、腹を空かせたように口を開ける構えている。
ほんの少し逡巡するも、自殺を止めねばという思いが背を押したのもあって、一目散に森の中へと飛び込んだ。
暁の陽光も森の中には完全に届かず、辺りは不気味なほどに薄暗い。湿り気を帯びた土の匂いと立ち込める陰鬱な生暖かい空気が、全身にまとわりついて離さない。まるで獲物を飲み込まんとする食虫植物のように、森が舞い込んだ俺を深い闇へと引きずり込もうしているようだ。
しかし、幸いな事に道筋に困ることはなかった。
なぜなら、森の奥からヴァイオリンのような音色が不意に聞こえてきたからだ。
なぜ、という疑問が駆け巡り、不意に身震いするも、頭を小さく振って邪念を払い音を頼りに進んでいく。するとやがてまばゆい光が見えてきて、だしぬけに景色が開けた。
波が岩肌をなぶるようにぶつけて騒ぐ大きな音が耳の中に鳴り響き、次にヴァイオリンの音色が耳朶に突き抜ける。しなやかに延びる弦の音色の端は美しくわななき、細々とした潮の音とないまぜになって、一種壮大な旋律を形作っている。清廉とした美麗をたたえる旋律の中に、どこか侘しく物悲しい雰囲気を感じさせるのは、奏者の心情が音に溶け出しているからだろうか。
岬の先端の中央、儚げにヴァイオリンへ顔を添える一人の女性の姿があった。
紺を基調としたカーテンドレスには、金の装飾が遠慮がちに散りばめられ、可憐な美しさに控えめな淑やかさを一味加えている。黒く艶やかでまっすぐな髪が、ドレスの端と一緒に潮の風に弄ばれ、さやさやとはためいている。
その姿には、一種未亡人のような寂寥感を覚えたのである。