シリェーナに走る不穏
船着場から俺たち二人が島へ足を踏み入れると、船はそそくさと逃げるように地平線へ溶けていった。
よほどこの島には居たくないと見える。まあお告げがあってもなくても、なんとなく理由はわかる。
世間との繋がりが薄い閉鎖的な土地というのは、往々にして古い因習に取り憑かれているものだ。そこでは法も秩序もその土地がもたらす不文律によって身勝手に歪められ、その土地独自の文化で締めくくられている。
こうした土地で見られる共通の不文律は、来訪者にとってはあまり愉快なものではない。したがって先ほどの船乗りの立ち振る舞いの動機も想像にかたくない。
「旅の方……ですかな?」
背後から声がする。すこしドキッとしながら、俺とリセで振り向くと、そこには一人のご老人が立っている。足元はガタがきているのか膝が終始笑っている。樫の枝のような古めかしい杖を手に持ち、必死でおぼつかない老体を支えている。そんなにしんどいなら出歩かなければいいのに。
「ええ、まあだいたいそんな感じです」
当たり障りないよう穏やかな余所行きの笑顔で答えたものの、相手の憮然とした表情は一向に崩れない。そら、見たことか。やはり歓迎されていないのである。
「はあ、こんな辺ぴな島に何かご用ですかな」
「いや、まあ、ええ……」
「ふむ、ああーいえ、なにも歓迎していないわけじゃない。なにぶんこの島にはこれといった特産もないし、観光地もない。こんなところへ流浪てきても何も面白ない」
ご老人はけんもほろろに切り口上でそう述べると、
「手厚い歓迎もできないとなると我々も忍びないのだよ。いい宿もうまい飯屋もここにはない。本当にない。悪いことは言わん。はよう帰って方がええぞ」
足腰は生まれたての子鹿でも、口は鷹のように鋭くどう猛と見える。
ごま塩をまぶした頭をぶるぶると震える手でひと撫でしてから、ギロリと俺とリセを見比べる。
「そんなこと言わないでください、おじいちゃん。私たちはここに大事な用事があるのです」
リセが急に甘えるような耳障りの良い声で囁く。
「大事な用事?」
眉根を寄せて、大いに顔をしかめてみせる。
「そう、私たちには大切な使命があるのです」
「ほお、こんな何もない島にどのような使命がおありで?」
「それは--」
俺はぎょっとして、彼女の次に放つであろう言葉を慌てて手で押さえ、
「ああ、いえ! なんでもないです。この子は虚言癖があるようなので、どうかお気になさらずに」
リセの非難がましい視線を尻目に、老人に愛想笑いを浮かべる。
ここで事件だのなんだのと口にすれば、どうなるかわかったものじゃない。まずは少し様子を窺ってからでなければ。
老人はしばらく俺たちを左見右見したのち、たいそう無愛想な顔をして去っていった。
去り際に何かぼそぼそと呟いた気がしたが、俺には聞き取れなかった。
こうした未開の土地にありがちな不文律。
それは他国の者に対して気を許すまじ、というものだ、あるいは早々に排除すべしかもしれない。
いずれにせよ、こうした完全な閉塞的地域は、よそ者に対して異常なまでの敵愾心を抱くのだ。ただの旅人ならともかく、俺や……特にリセのような風体の怪しいものなど歓迎されようはずもない。
田舎は暖かくて素敵、なんていうのも刹那的に過ごす者のみの感想なのだ。
その地に根を下ろして蓋を開けたが最後、パンドラの箱からは黒く禍々しい因習に取り憑かれた邪念と偏執で溢れかえっているのだ。
その昔、俺の母も父方の田舎ではひどく苦労したものだという。偏見かもしれないが、しかしそうであっても、このような閉鎖的な土地には少なからずうしろ暗い翳りは必ず存在しているものなのである。
閑話はこの辺りで休題するとして、
「リセちゃん……もしかしたら豪華な宿も贅沢なご飯もありつけないかもしれないよ」
「ええー! そんなぁ。こんなことならさっきの港でたらふく食べとけばよかったですぅ」
「俺だって昨日の焼き鳥とビール以降、何も口にしてないんだよ? いい加減お腹が減って死にそうだよ」
「え? やきとり? びーる? なんですかそれ……。はあ、ほんっとに先生ってわけわからないことばっかり……。私よりも先生の方が虚言癖あるんじゃないですか?」
リセを眉根を寄せつつ物言いたげな色をおもてに走らせる。どうやら先ほどの言葉をまだ根に持っているらしい。
俺はごめんごめん、と謝罪を入れたのち、
「とにかくあっちの方へいってみよう。もしかしたら飯屋とかあるかも」
俺が指で差し示した先に、大きな堤防が立ちはだかるように建っている。当然といえば当然だが、船着場は街より低い位置に作られているため、堤防を登って街に出なければいけない。現に先ほどの膝を大爆笑させていた老人も、堤防に備え付けられている石段をゆっくりと登っているのが見えた。
老人が堤防の向こうに消えるのを見守ってから、俺たちも後に続いて石段を登り街へ出た。
「うわあ、綺麗に並んでますねぇ」
感慨深く声をこぼしたのはリセであった。
まず街に出て目を引いたのは西洋風の石造建築である。それが囲碁の目のように乱れることなく綺麗に整列している。建屋の間を通る道には石畳が隙間なく敷かれていて、どことなく海外の街並みを想起させる。しかし、それでいて、建屋に付随する暖簾や所々に散見する垣根はそこはかとない和の趣を匂わせているのだ。なんともへんてこな光景である。
建屋は西洋のそれであるのに、街並みはそう、日本の京都にとても酷似している。まるで京都にいながらも海外へ旅行にきているかのような、地に足つかず妙に浮ついた夢見心地になる。この不思議な光景は感に堪えざるを得ないだろう。
「はあ、京都のような西洋のような……なんだこりゃ」
「え? キョート?」
「いいや、こっちの話。ひとまず飯屋に入ろう。腹が減ってはなんとやらだ」
しかし、石造りの道をひたすら歩いてご飯処を探すも、一向に目処が立たない。それらしい暖簾や看板を掲げている建屋は見当たるのだが、どれも灯はついておらず開いていないのである。
だが、それぞれの建屋の中から漂うわずかな不穏な機微を俺は見逃さなかった。
俺たちが街の様子を窺うように、彼らもまた俺たちを探っているのだろう。他国からきた闖入者がなんの目的でやってきて、どのような動きを見せるか、息を殺して委曲を尽くそうと観察しているのだ。
このこう着状態を崩すには、どちらかが打って出る他ない。
俺はリセに素早く目配せすると、リセもそれを察知したのか小さく頷き、
「先生、本当にここには誰もいないんですかねぇ」
「いやいや、さっきご老人にもあったし、こんな立派な街に人っ子一人いないのはおかしい」
「そうですけど……さっきから誰も見当たりませんよ?」
「うーん、そうだねぇ。もしかしたらみんな隠れてるのかもよ」
「はあ、なんでです?」
「さあ、なにか変な事件でも、あったんじゃない?」
俺の言葉に、どこかしらの建屋からはっと息を飲む音が聞こえた。他の建屋からも動きはないものの、かすかな緊張と狼狽が走ったのが手に取れる。
「事件、ですか」
「そう」
俺はこの街並みを歩き見て、二つ疑問に思ったことがある。
一つは街に全く活気がないこと、だが、それは俺たちの来訪あってのことだとするなら、気に留めることもないが、しかし、もう一つの方はかなり気になる。
それは、この街の人が外出した形跡があまりに少ないということ。
石畳の道に不自然なほど砂が積もっている。おそらく、浜辺の砂が風に運ばれてやってきたものなのだろうが、踏めば足跡がくっきりとわかるほどに積もっているのだ。いくつかの住人と思しき足跡は散見するが、普段から往来が少ないにしても街としては非常に不自然である。この程度の砂埃は多少の往来があれば、たちまち散ってしまうだろう。
ということは、俺たちが来る前に何かしら街にトラブルが発生し、誰も外に出たがらないのではないだろうか。
先ほどの俺の発言は、それを考えてのことである。
しかしそうなると、この現状がいよいよ不気味に思えて、不意に身体がガタガタと震えてきた。
「あー、な、なあ、やっぱり帰らない? ちょっとこの島危ない気がする」
「はあ?」
リセはあきれたように俺の顔をまじまじと見たのち、はぁと嘆嗟の音を漏らすと、
「先生、何言ってるんですか。あなたは探偵ですよ? 逃げることなんてできませんし、そして島に来てしまった。なら答えはそう、一つです」
リセは毅然として俺の前に立つと、おもむろに右手の人差し指を俺の眉間へ指し示す。
「犯人を捕まえるんですよ!」
「え、いや、ちょっ、ちょっと!」
リセの言葉に激しく狼狽した俺は、慌てて彼女の口を塞いで周りの様子を確認する。彼女の発した檄が建屋へ次々と伝染していき、瞬く間に騒然となった。しきりに、どういうことだ、だの、あれってもしかして、なんていう喧騒が建屋の中から物々しい緊張とともに洩れ出し、渦巻き始める。
「すみませんが、旅の方……」
不意に後ろから声をかけられ、俺は驚き振り向くと、後ろにあった建屋から、初老の男性が引き戸を少し開けて顔を覗かせていた。
「失礼ですが、あなたはもしや、お告げの……」
「え? ああ、はい。どうやらそのようでして……」
「ああっ! 神よ! とうとう神が救いの手を差し伸べてくださったっ!」
濁った初老の瞳へ、にわかに鋭い光が宿る。
「みんな、もう大丈夫だ! お告げ人が……お告げ人が来てくださったぞぉ!」
彼が大声でそう叫ぶと、次の瞬間、
「おお! やっぱりそうなのか!」
「だれだよ! しけた旅人だななんて言ったやつ!」
「まあ確かに頼りなさそうだけど、一応お告げ人だし、これでひと安心だな」
「よかったぁ」
街中から上がる大量の鬨の声と哄笑は、まるで天高く空を裂いて伝わる雷のごとく、島全体へと轟き、地面を揺さぶり動かすようなすさまじい勢いであった。
これがまさか、これがこの街きっての大量殺人事件の始まりだったとは、その時誰もが夢にも思わなかっただろう。俺自身でさえそうだったのだから。