表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界転生失敗奇譚  作者: 八田弘樹
人魚の哀怨歌
14/14

謎の連続

 ぐったりとする彼女を抱えて、奥さんへ促されるまま空きの一室へ俺は向かった。

 俺の傍では、リセが所在なげに窓へと目を走らせている。

 窓の外は行きどころを失ったかのような鉛をまぶした重い雲がシリェーナ島に垂れ下がっていて、まるで悪魔が降誕したかのような一種恐怖に似た戦慄と薄気味悪さを孕んでいる。

「リセちゃん、君は医師だったの?」

 空き部屋の前に立ち止まった俺が、リセへ尋ねる。

「うーんと、少し違いますね。医師としてのスキルは持っていますけど、医師ではありません」

 リセはなおも興味なさそうに切り口上で、

「産まれた時から持ってたんですよ、このスキル」

「産まれた時からって……」

「こんなところで立ち話もなんですし、散歩でもしながら話しませんか」

「はあ」

 リセの提案に乗るでもなく曖昧に返事をしたのは、リセのことも気になるが、それ以上にミマの激しい周章狼狽(しゅうしょうろうばい)具合にひどい胸騒ぎを覚えていたからだ。

 鎮静剤ちんせいざいを投与されて眠っているため、すぐに詳細を明らかにできないのはわかっているが、かといって、おちおち散歩をしながらリセの身の内話を一々と聞いている心の余裕も持てそうになかった。

 俺の煮え切らない態度を見て、リセはなにか感得したようで、

「……わかりました。この話は後にしましょう。それよりミマさんをさっさとベットへ寝かせましょう」

 リセは扉を開けて入室を促す。

 ベットへミマを寝かせると、リセは何も告げずに部屋から去っていった。部屋の中には俺とベットで眠るミマのみが残され、居心地の悪い沈黙が部屋の中いっぱいにそそがれる。ミマの血色の悪い額にじっとりと滲む脂汗をそっとタオルで拭いながら、先ほどのことを考えていた。だが、下手な考え休むに似たりというのはこのことで、一向に思考がまとまることはなく、終始閉口これ徹し沈黙を享受し続けるのみであった。

 重苦しい気まずい静けさを打ち破ったのは、木が軋んだような戸の開く音であった。

「先生、ミマさんの容体は?」

「いや、まだ目が……」

 と、口にした直後、ミマの長いまつ毛がかすかに震え、おもむろに双眸そうぼうが開いた。

「ああ、ミマお嬢さん。ご気分はいかがですか?」

 ミマは眩しそうな目で俺とリセを見比べ、蒼い顔で静かに頷いた。だが、その直後、すぐにひきつけを起こしたように身震いさせてから、のどになにかひっかかったような上擦った声で、

「せ、先生。わたくしは……今日」

「なにがあったのです、ミマお嬢さん。お話を聞かせくださいませんか?」

「ええ……」

 声に出すのも恐ろしいといった様子で口を噤んでいたが、やおら上体を起こすと、

「実は今日、こんなものが届いてまして」

 ミマはふところをまさぐり、二つ折りになった紙を一枚取り出してこちらへ差し向ける。

 俺は紙を受け取って開いてみると、そのとたん、思わず目を見張らずにはいられなかった。紙の中央には文字が並んでいたのだが、これまた非常にへんてこで、大小バラバラの文字がちぐはぐに並んでいるのだ。文字の一々にフォントなどの統一性はなく、おそらく、雑誌や新聞から適宜な言葉を選んで貼り付けたのだろう。まぜこぜなフォントと統率のない無機質な文字列が相まって、不気味加減にいっそう拍車を掛け、文字の読めない俺であっても、薄ら寒い悪寒が背中を走り去るのを禁ぜしめなかった。

 こんな手の込んだ真似をする奴が本当にいるのだな、と感心していた事を、すぐに愚かしいと一蹴せざるをえなかったのは、隣にいたリセの顔から血の気が一気に引いていたからである。

「明日の夜十二時、お前に血の制裁が下るだろう。この島で受けた屈辱は決して消える事はない。その身をもって私の怨嗟の程を知るがいい。お前の血を飲んでこそ私の魂の渇きを潤さん。大海の復讐者より、だそうです」

リセは俺の見ていた紙を覗き込んで、喉を痙攣させたようなかすれ声で読み上げた。俺はリセと顔を見合わせ、そしてミマの顔を見た。

「ミマお嬢さん、これをどこで?」

「朝、屋敷で目が覚めた時、ベットの隣にある小机の上に置かれておりました」

「小机の上……」

 俺はついおうむ返しに呟いたが、ミマは俺の声が耳に入っていなかったようで、

「呪い……これは呪いですわ! セイレーンがわたくしを……ああ、でなければどうやって私の部屋に入ったっていうの……? 鍵はしておいたのに」

 ミマは両手で頭を覆い再び錯乱し始める。血の気が引き切った白い双頰はそそけ立ち、見開かれた両まなこは焦点が定まらず、ぐるぐると不規則に動いている。

「ちょ、ちょっとミマお嬢さん! 落ち着いて!」

「ああ、殺される……わたくしも殺されるんだわ」

「ミマお嬢さん!」

 俺はミマの両肩を掴んで引き寄せて、

「ちょっと落ち着いてください……とりあえず今夜のところは私たちであなたの身辺警備をしますから」

「先生……! それは本当ですの?」

「ええ、私たちだけでは不安なのでしたら、他の者にも私から声をかけてみますから。とにかくミマお嬢さんは一度屋敷へお帰りください。身重なのですからあんまり無理をされてはお身体に触ります」

「ええ……ええ」

 ミマは張り子の虎のように何度も頷き、すすり泣くようなため息をつくと、糸が切れた操り人形のように、そのままベットへ崩れ落ちた。乱れた布団を静かに正しつつ、窓の外へ目を向ける。外は行きどころを失ったかのような鉛をまぶした重い暗雲が垂れ下がっていて、まるで悪魔が降誕したかのような一種恐怖に似た戦慄と薄気味悪さを孕んでいる。俺は不意に名状しがたい嫌な胸騒ぎを覚え、ミマを残して逃げるように部屋を後にした。

 部屋を出ると俺はリセと互いに顔を見合わせ、

「先生、あんな約束しちゃっていいんですか? 身辺警護なんて」

「ああでもいわなきゃ、またヒステリーを起こしかねないでしょ。それに少し屋敷も気になるしね。こういう口実がなければ、屋敷をじっくり調べられない」

「ほおーなるほどです」

 とはいえ、ミマには聞きたいことが山ほどあった。だが、前述のとおり、再度、ヒステリーを引き起こす恐れがあったため、質問はばかられたのである。ここはひとまず安心させておいてから、屋敷でゆっくりと話を伺うのが得策と、俺は算段を立てたのである。

 その後俺たちは奥さんに声を掛け、ミマが落ち着いたら屋敷へ送ってあげるように頼んで、宿屋を出た。その足で俺たちが向かったのは、リショウの家であった。

「どうしました先生? また、なにかあったんですか?」

 数回のノックで顔を出したリショウの表情は深いかげりが差し、暗く沈んでいた。よほど教皇の失踪が堪えているように見える。

「ええ、実は……」

 先ほど宿屋で起こった珍事をリショウへ伝えると、リショウは眉をひそめて、

「先生、それは信じちゃいけない。あの人はね、いつもそうなんですよ」

「いつも、というと?」

「ミマ嬢はですね、一種の虚言癖きょげんへきを持っていて、さっきおっしゃったような不気味な脅迫状を触れ回って騒ぎを起こすなんて日常茶飯事なんですよ。島にいた時から本当に何も変わってないな、あの女」

 最後の言葉はほぼ聞き取れないぐらい小さかったが、確かにそういったのである。一瞬、聞き間違いか、と耳を疑ったが、ちらりとリセを瞥見べっけんすると、リセも大きく目を見張っていたので、言ったのは確かなのだろう。

「リショウさん、あなた、ミマ嬢となにか確執かくしつがおありなんですか?」

 あまり身のうち話に首をつっこむのははばかられるが、俺はあえて切り出してみた。

 リショウはそそけ立った青い顔をこわばらせ、ジロリと俺へ一瞥いちべつくれると、

「ええ、そりゃあもう。教皇様の娘だから我慢はしてましたがね、ありゃひどいですよ。僕はまるで彼女の下僕でしたよ、いやいや、僕だけじゃない。街の者、みなが彼女の所有物であり、奴隷みたいな扱いでした」

「はあ……それほどですか」

「そうです、そうです。口にするのもおぞましいですよ。だから誰かが彼女を殺そうとしても、正直なんら不思議はないのです」

「とはいってもですね……お腹の子には罪はない」

 と、俺が口にした時のリショウの表情たるやひどく奇妙だった。名状しがたい憮然なる面持ちは、一種憐れみにも似た侘しい色をたたえ、そぞろ悲しみの念に打ちひしがれているように見えたのだ。

「先生……おっしゃる通りです。お腹の子には罪はありません。ミマ嬢は殺されてもいいかもしれませんが、お腹の子の命まで奪われるのはいけませんね……僕もできる限りの事は協力させていただきますよ」

「ああ、ありがとうございます」

 俺がお礼をすると、リショウもぺこりと一礼した。リショウの顔から先ほどの表情は払拭されていて、すでに平然を取り直している。

「ところでリショウさん、ユーリお嬢さんとはどんな関係なんですか?」

 と、唐突にリセがくちばしを入れる。俺は譴責けんせきするようにリセを一瞥し、口を開きかけるが、リショウは右手を俺の前に軽く突き出してそれを制し、

「はっはっは、リセさんは好奇心旺盛ですね。まあ勘ぐりたくなるのもわかりますけどね、昨日の出来事を見られてしまっては」

 リショウは照れるように笑い、リセと俺の顔をそれぞれ見てから、

「しかし、残念ながらユーリお嬢様と僕はそういう関係ではありませんよ。ユーリお嬢様は僕なんかよりずっとずっと素晴らしい方です。ユーリお嬢様は音楽業界でも数々の偉業を成し遂げ、世界的にも有名なお方です。そんな彼女にお近づきになろうだなんて、はなはだもって畏れ多い。僕にとってユーリお嬢様は神様そのものなんです」

 リショウはどこを見るでもなく、虚ろな視線を宙に走らせ、

「僕と同い年だというのに、本当にユーリお嬢様は立派な方だ。そう、僕なんかと比べ物にならない」

「でもですね、リショウさん。禁断の恋はあってもいいと思うんです!」

「あっはっは、リセさん。あなたは本当に乙女ですね。大陸の女子もみな、こぞってそういった儚く切ない扇情的な恋を夢見ていますがね、しかし、僕とユーリお嬢様の間には、そのような感情は一切ございません。期待したってダメですよ」

「……そうですか」

 ふとリセの表情に複雑な色が灯ったのを俺は見逃さなかった。が、あえてそれを触れずにいたのは、リショウの右腕に光るブレスレットがずっと気になっていたからである。そのブレスレットに気が付いたのは、俺がリセを咎めようとした時、リショウが手をかざした折だった。普段、リショウの腕は袖の中に丸ごと隠れていたため、ブレスレットに気がつかなかったが、手をかざした拍子に袖がひるがえったため、ブレスレットが露わとなったのである。

「リショウさん、その右腕のブレスレットは……」

「ああ、これですか?」

 リショウは右袖をまくって腕を上げると、はたして見覚えのある琥珀色のブレスレットがそこにあった。

「このブレスレットはですね、昔死んだ恋人の形見なんです」

「恋人の……」

「ええ、大陸にいた頃にいた恋人ですよ。僕も相当やんちゃしてましてね。そりゃもうあちこちで悪さの限りを尽くしていたのですが、そんな折にこのブレスレットの持ち主である女性と出会いまして……ってすみません。こんな話、聞きたかぁないですよね、あっはっは」

「ああ、いえ」

 リショウが語ったこの話に、俺はなぜかものすごく興味をそそられたのだが、あまり深く他人の事情に立ち入るのも野暮ったく思い、なんだか気が引けたのでこれ以上の追及はよした。

「そういえばリショウさん。この島に来たのは十年前と仰ってましたよね?」

「ええ、そうですけど……」

「今、おいくつなんですか? ああ、いやいや、これに深い意味はありません。ここの者はみな長寿というじゃありませんか。見た目から年齢を計るのは難しくて……」

「先生、僕は島の外から来た者なので、ここの人たちとは違いますよ。僕は今年で二十五になります」

「ああ、そうでした。ということはユーリお嬢さんも二十五歳ということですか。なるほど、では僕たちはみな同い年ということですね、あっはっは」

「先生も二十五でしたか、これは……きっと何かの縁ですね」

 リショウは白い歯を見せて快活に笑ってから、すぐさま神妙な顔つきになり、

「ところで先生、先日おっしゃってた魔物の変死について、何かわかりましたか?」

「それがですね、恥ずかしながら、全くわからんのです。頼みの綱である教皇様にも聞きそびれてしまって……」

「そのことなんですが……先生のお耳に入れていただきたいことがございます」

 リショウは、深刻そうな面持ちで俺とリセを交互に見比べると、

「僕、教皇様がいなくなる前に、それとなく魔物の変死について聞いてみたんですよ」

「り、リショウさん! それは本当ですか!」

「ええ、本当ですとも。先日、先生からお話を伺ったでしょう。僕も少し気になってましたので、昨日の昼ごろに教皇様へそれとなく聞いてみたんです」

「な、なるほど。それで?」

 リショウの話に大いに食指が動いた俺は、思わず身を乗り出した。リセも黙ってリショウの口元をじっと見守っている。

「するとですね。それはセイレーンの歌声じゃないか、というんですよ。僕は耳を疑いましたが、教皇様があまりにひどくうろたえるものですから、これはただごとではないな、と」

 リショウの額からにわかに脂っぽい汗がにじむ。リショウは脂汗を右袖でさっと拭うと、琥珀色のブレスレットがキラリと袖口に光るのが見えた。

「そこで、教皇様は慌てて大聖堂にあるセイレーンの涙を見に行かれたのですが……」

「セイレーンの涙が盗まれていた、と?」

「いえ、そうではなかったんです。セイレーンの涙は間違いなく四つあったのです」

 そう口にしたリショウの顔からみるみる血の気が引いていき、徐々に蒼くなっていく。

「だから教皇様は、セイレーンがいよいよこの島を呪い殺そうとしている、と仰ってました。ミマが帰ってくるこの時を見計らって、セイレーンが復讐を果たさんとしているんだ、と」

「し、しかし、リショウさん。あ、あなた、それをなぜ岬でおっしゃらなかったのですか?」

「よっぽど言おうと思ったのです。ですが、もしあの場でセイレーンの件を口にしようものなら、この島は大混乱に陥るでしょう。それを危惧して僕は口を閉ざしていたのです。そして、こうして先生にのみ、これを打ち明けようと思ったのです」

「ああ、なるほど」

 この島は未だうしろぐらいセイレーンの因習に取り憑かれている。教皇がこの島を訪れてから、その陰惨な因習によるしがらみは多少取り払われたものの、それでもなお、住人の心の奥底にはどす黒い澱となって、根深くこびりついている。だから、今朝方の岬でセイレーンが島を呪い殺そうとしている旨を、教皇が口走ったと島の住人が知ったならば、おそらく、ただでは済まないだろう。島は一挙にして底なしの恐怖の闇へと突き落とされ、阿鼻叫喚の巷と化すことが容易に想像できる。しまいには、また生贄を、だのと言い出しかねない。

「いつ切り出そうかと、ずっと言い出しあぐねていましたが、やっとお伝えできました」

 リショウは胸の内にあるつっかえが取れたような清々しい顔をしている。が、すぐにまた戦々恐々たる色をたぎらせ、

「今回のミマ嬢にあてられた脅迫状、これももしかしてセイレーンの呪いってやつかもしれませんね」

「はあ、しかしセイレーンの呪いというのはこの島の住人に降りかかりこそすれ、教皇一家が祟られるいわれはないと思うのですが……」

「そんなことありませんよ、先生。教皇様は、その昔から島に続く人身御供をやめさせたそうじゃないですか。生贄が捧げられなくなったことに腹を立てたセイレーンが、元凶たる教皇様を呪い殺さんとするというのに、なんら不思議はありません」

「はあ」

 リショウの説は、一応筋は通っているものの、いささか強引な感も否めない。

 誰もいない島で朗々と歌っていた純真無垢なるセイレーンが、そこまで極悪な魔物とはどうにも思えないし、百歩譲って仮に生贄が欲しいのなら、直接島の住人を攫った方が手っ取り早くはないだろうか。それが何故、教皇を失踪させるような、手の込んだことをしなければならないのだろうか。はたまた、これが住人の恐怖を煽るためだとするならば、これが皆のいうセイレーンの復讐なのだろうか。数多くの疑問は残るが、これ以上リショウから真新しい情報が得られるとも思えなかったので、話を継ぐのをよした。

 それからリショウには、今日の夜に屋敷に来てもらうよう頼み、次にリーベル町長を訪ねるべく、居所をリショウから教えてもらい、俺たちはリショウの家を出た。

 踵を返して来た道を戻ると、そこでふとある人影が目についた。三十メートルほど先に二人の男女が歩いていたのだが、よく見ると、男性の方は島を訪れた初日にお世話になったマスターであった。

 俺とリセは何気なく声をかけると、マスターもこちらに気づいたようで、手を挙げて呼びかけに応じると、こちらへゆっくりと歩いてきた。

「いやぁマスター。その節はどうもお世話になりました」

「いえいえ、とんでもない。当然のことですよ」

 マスターは嬉しそうに笑い、隣の女性に目をくれた。マスターの傍らに寄り添っているのは初老近くの女性であった。おそらく、マスターの奥さんなるものだろう。グレーのスーツのようなものを着ており、姿勢正しく屹立するその姿からは、老いてもなお、気品を損なうことなく毅然たる美しさをたたえている。控えめではあるが整った目鼻立ちからこぼれる温かい微笑みには、若かりし頃は相当な美人である事を感得させずにはいられない。胸の前まで降ろされた金髪は艶やかな光沢を帯びていて、しっかり手入れが行き届いている事を窺わせる。こちらにいるいつもボサボサ気味の金髪少女とは大違いの、垢抜けた美しいうば桜であった。

 マスターはえくぼにしわを寄せてにっこり笑いながら、

「それにしても、先生。こんなところでお会いするなんて奇遇ですね。ああ、紹介します、こちら私の妻です」

「初めまして、主人がお世話になっております」

 マスターの奥方が恭しく一礼するので、俺もぺこりと頭を下げて、

「ああ、いえ、こちらこそお世話になっております。ところで、これからどこへ?」

 マスターは奥方と顔を見合わせてから、

「我々はこれから大聖堂へ行ってミサをするのですよ」

「ミサ……ですか」

 こちらの世界でもミサというのだな、と少し感嘆する。と、同時に、教皇がいないにも関わらず信仰を続ける彼らに対し、わずかな敬意を覚えるのだった。

「先生方はどちらへ?」

「僕たちはこれからリーベル町長へ会いに行くところですよ」

「ああ、そういうことでしたか」

「しかし、これからマスターたちがミサをするということは……皆もこれから大聖堂へ向かわれるんですか?」

「はあ、どうでしょうね……」

 マスターは物憂げな表情で奥方とまた顔を見合わせると、

「実は最近、大聖堂へ通う人がだんだんと少なくなっているのですよ……まあ、これには色々と深い事情がありましてな。ともあれ、そういう経緯もあって、教皇様がいなくなった今となっては、信仰する住人も一段と少なくなりましてね」

「はあ、そうなんですか」

「ええ、なにしろ失踪したのが教皇様ですからね。彼を信心しては、我が身も危ぶまれるとみんなは考えているのでしょう。げんにあのリーベル町長も……」

 教皇の薬籠中の物であったリーベル町長もが信心しなくなるとなると、いよいよ街中は緊張と恐怖の渦中であろう。ことに信仰の中心である教皇は、仮にもセイレーンの裁きを被っている事になっている。その教皇を信心するという事は、とりもなおさずセイレーンに対する冒涜ともいえるのである。

「なるほどなるほど……ところでマスター。あなたはいつもこの時間に大聖堂へ向かうのですか?」

「ええ。ミサが行われる時間はもう少し遅いのですが、我々はいつも一足早く大聖堂へ向かって、聖堂の雑務をお手伝いしているんですよ」

「なるほど……かなり信心深いのですね、マスターは。マスターの他には誰かいらっしゃらないのですか?」

「私達以外ですか? えーと、そうですね。町長さんがごく稀に。あ、あとリショウはいつもお見えになりますね」

「リショウさんも?」

「そりゃあそうですよ。なにしろ教皇様のお弟子ですからね」

「はあ」

 先ほどリショウに会ってきた我々だが、リショウはこれから出掛けるような素振りを全く見せなかった。いつも大聖堂へ一足先に向かうのであれば、それはなんだか妙である。教皇がいなくなったのなら尚のことだ。

「それなら変ですね。さきほどリショウさんに会ってきましたが、彼、出掛けるような感じは全然ありませんでしたけどね」

 話に割って入ってきたのはリセであった。リセも俺と同じ事を考えていたようである。しかし、初老の夫婦はリセの言葉に驚くようなことなく、むしろ至極当たり前といった様子で、

「ああ、それはミマ嬢がいらっしゃるからじゃないかしらねぇ。あの二人は全く反りがあわないから」

と、マスターの奥方が小首を傾げて答えると、

「まあ無理もないだろうね」

 マスターは苦々しげに眉をしかませて嘆嗟の音をあげた。

 どうやらリショウとミマについては、住人も周知の知であるようだ。

「いったいあの二人になにがあったのです?」

 俺がそう尋ねた矢先、背後から女性の声がした。

「先生、ここにいらしたのですね」

 俺はぎょっとして振り返ると、そこには例のごとく美しい青リンドウが咲いていたのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ