攻防その3
サラの日常は、とても穏やかだ。
弟と一緒に飼い猫と戯れたり、母から裁縫を習ったり、勉強に疲れたらお昼寝をする。のんびりとした今の暮らしが、サラは大好きだった。
なのにその平穏は、ある男のせいでぶち壊されたのである。
「サラ。さっきガードナー家のルキオ様から手紙が届いてな。今日の三時に来てもいい…いや、行くぞと書いてあったのだが」
「はあ……」
サラは急に頭が痛くなってきた。昨日の今日で、しかも三時ってあと一時間ちょっとしかない。来訪前に先触れを出すという常識が、彼の頭にあったことは驚きだが、いくらなんでも急すぎるだろう。迎えるこちらにだって準備とか色々あるというのに。
「体調が優れないと言い訳を…」
そう言いかけて、サラはハッと思い出す。
祖母が万全の体調で挑めと言っていたのは、何も夜会だけではない。
『看病に乗り込む、乗り込まれるのは当たり前だったわ。相手の風邪を自分にうつして治癒させる…医者も真っ青な治療法が横行していたわね』
そうだ、仮病なんて使えない。私室にまで踏み込ませては終わりだ。何か大事なものを失う予感がする。サラは考え直し、ルキオを迎え撃つ作戦に切り替えたのだった。
「昨日ぶりだな」
「ごきげんよう。昨夜ぶりですね」
玄関でルキオを出迎えたサラは、適当な愛想笑いを浮かべている。
「本日はどういったご用件でしょうか」
「出掛けるぞ!支度…はできてるな。馬車に乗れ!」
「……なぜ、私と?」
「そっ!れは、だな…っ…お前が行ったこともないような洒落た店に連れてってやろう、という俺の親切な計らいだっ」
「…そうですか」
随分と迷惑な親切もあったものだ。屋敷へ侵入させるよりは、大人しく従った方がマシだろう。サラの決断は早かった。それ以上は抗議もせず、黙って馬車に乗ったのであった。
サラはどこか達観した淡白な性格をしている。なのであまり口数も多くない。ついでに言うと、異性との交流も少なかった。つまり、ルキオ相手に和やかな世間話などできないし、したいという気持ちも起きない。すると結果的に、馬車の中には沈黙が落ちる。
(………いや、貴方も黙るんですか?)
静かなのは一向に気にならないサラだが、向こうから誘っておいて黙り込むのはどうかと思う。この男は何がしたいのか。
無言でガタゴトと揺られていると、サラはルキオの様子がおかしいことに気付いた。なんだか顔色が悪く見える。
「大丈夫ですか。顔が真っ青ですけど…」
「……………」
返事はなかった。サラが無視した時は怒った癖に、自分は平気で無視するのかとムッとしたのも束の間、ルキオの額に脂汗が浮かんでいるのが目についた。
まさかこの男、酔ったのか。たかだか数分で。
サラは急いで馬車を止めてもらい、ルキオを車内から出した。中でぶち撒けられる大惨事は避けたい。恐らくそれは彼も同じだろう。サラに急き立てられるまま、ルキオはよろよろと外に行った。
(あの時も、会場へ来るまでの間に酔っていたんですね…)
音が止むまでサラは馬車で待ち、ルキオと出会った夜会のことを思い出していた。口調は粗雑なのに、三半規管は繊細なようだ。
「良かったらどうぞ」
胃の内容物を出し切ったルキオに近付き、サラはハンカチを差し出す。抜かりのない彼女は、今日はイニシャル入りのハンカチを持ってきていた。前回とは違う人間ですよ、という無言のアピールだ。
たんぽぽ色の生地に、水色の糸で刺繍してあるハンカチをちらっと見たルキオは、硬い表情でそれを断る。
「……いい…大丈夫だ」
女性の前で粗相をした恥の為か、単純に気分が優れない為か、とにかくルキオの表情も雰囲気も異様に暗い。サラの調子も狂うというものだ。
「…歩けそうですか?」
「………なんとか」
「では少し休んでから出発しましょう。この先にカフェがあります。徒歩でも充分行ける距離です。ガードナー家の嫡男様には物足りないかもしれませんが、私が知っている場所などたかが知れていますので」
道の脇にあった倒木に二人で腰掛け、ルキオの体調が回復するのを待った。まったく、馬車が苦手なら来なくてもいいのに、よくわからない男だ。
大空を舞う鳥をなんとなしに眺めていたサラだが、ルキオがぼそぼそと話しかけてきたので視線を戻す。
「…………幻滅したか…?」
蚊の羽音のように小さい声だった。
「体質なら仕方のないことです」
「そっ、そうか。うん、仕方ないよな。昔からこうで…」
「それに私、ルキオ様のことはどうとも思っていません」
はっきり言えば鬱陶しいだが、それを言葉に出すのは憚られた。初対面で凡庸だと言ったルキオと違って、サラは一般常識を持ち合わせているからだ。
「だから、幻滅も何もありませんよ」
明かしていないが、彼が吐いてるところを見るのは二度目である。正直言って見飽きた。重大な病でなくて良かったですね、くらいの感想しか湧かない。
しかしルキオはそれ以降、黙りこくってしまった。歩けるようになった後、二人は無言のまま道を進み、無言のままカフェでお茶をし、無言のまま互いの屋敷に帰った。
「姉上、デートは楽しかったですか?」
帰宅後、弟からそう問われたサラは、そこでやっとあれがデートだったと思い至った。男女が二人で出掛けるといえばデートしかないが、初デートがあんなものだと、信じたくなかったのかもしれない。
「…謎に始まり謎に終わりました」
「どういうことですか!?」
サラの初デートの思い出は、馬車に酔った男の介抱だけとなった。