攻防その2
サラは最初、自分が呼ばれているとは露にも思わなかった。だから何食わぬ顔で歩き出そうとしたのは、決してわざとではない。
「凡庸な女、お前のことだ」
続けざまに言われた台詞により、サラは自分が呼び止められたのだとようやく気付いた。それと同時にカチンときた。確かにこの顔は普通以外に表現しようがないが、よく知りもしない人にいきなり凡庸呼ばわりされる筋合いは無い。第一、女性に向かってあまりに失礼すぎる。
サラは敢えて無視し、立ち去ろうとした。
「無視するな!」
ところが、男に手首を掴まれてしまい、サラは足を止めざるをえなくなってしまう。こちらの許可なく触れるとは良い度胸だ。エスコートのエの字もなっていない野郎はどこのどいつだと、サラは無表情で振り返った。
「誰にも声をかけてもらえない可哀想なお前に、俺といる権利をくれてやる。ありがたく思うんだな」
高圧的な物言いがいちいちカンに障る男は、格好いい部類に入る青年だった。ただし、客観的に見ればの話である。すでにサラからの好感度は底辺を突き抜けている上に、彼女の好みは知的なクールガイだ。間違っても、やや日に焼けた肌でグレーの長髪を無造作に括った、野生的な男ではない。サラの好みにかすりもしていない。まずもって誰だ。
「…どなたか存じ上げませんが、お手を離していただけますか」
「この俺を知らないだと!」
「…なにぶん、社交界に出て日が浅いもので。どうかご容赦ください」
「ならば教えてやる。俺はルキオ。ガードナー伯爵家の嫡男だ」
まあ聞いたことはある、その程度の相手だった。当然だが、顔見知りでも何でもない。両親からもそういう話は聞いていない。
「どこかでお会いしましたか?」
「………………これに、見覚えはないか」
不自然な間の後、ルキオは懐から一枚のハンカチを取り出した。サラはそれに見覚えがあった。なんたってその淡い桃色のハンカチは、他でもないサラの持ち物だったからだ。
あれは三度目の夜会での出来事だった。
パーティーの開会が宣言されてから、まだ五分と経たない頃、サラは会場の隅でゲーゲー吐いている男を発見した。酒に酔ったにしては早すぎる。
祖母の教えを忠実に実行しているサラだが、急病人を放置してまで自己を通すほど、人間として腐っていない。祖母だって、そんな孫に育ったと知れば悲しむはずだ。サラはすぐさま駆け寄り、持っていたハンカチを男の口元にあてた。見られたくないであろう心境を慮り、サラはなるべく視線を外しながら小声で告げた。
『救護役を呼んでまいります。もう少しだけご辛抱ください』
パーティー会場には、こういった急病人の対応にあたる救護役が控えている。サラは急いで人を呼び、男のところまで案内したのだ。
よもやその時のゲロ男がルキオだったとは。
彼も俯いていたので顔は見られていないはずだし、救護役にも名前は明かさなかったのに、バレるなんて完全に予想外だった。しかもサラが渡したハンカチは、刺繍の無いまっさらなものだ。というのも『紛失する事が多い小物に、迂闊に自分のイニシャルを入れるな』それもまた祖母の入れ知恵だからである。桃色を選んだのだって、自分を連想させるような色を避けたからだ。そんな細かな点まで警戒していたのに、何故ルキオがサラに目星を付けたのかわからない。だが、しらばっくれることはまだ可能なはず。
「見覚えありません」
サラはそうきっぱり言い切ってやった。僅かな動揺さえ見せなかった。
「そう…か……救護役は『とりたてて特徴のない、ぼやっとした顔立ちの女性でした』って言ってたから、てっきりお前だと…」
的確に言い表した救護役もすごいが、それを聞いてサラに辿り着いたルキオもすごい。しかしながら、サラの中に込み上げてきた苛立ちの度合いの方が凄かった。ここまで自分の容姿を貶されて、怒りを露わにしなかった彼女は相当辛抱強い。
「持ち主が見つかるといいですね。では」
「おい待て!」
「一人で可哀想だと気遣ってくださったのに申し訳ありませんが、こう見えても暇ではございませんので」
「まさか結婚相手を探してんのか?お前その顔で?冗談だろ」
冗談にしてほしいのは貴方の存在だと、サラは脳内でルキオを殴っておいた。彼を助けたことを、ちょっとだけ後悔したくなる。
(お祖母様…社交界とは本当に恐ろしい所ですね…)
サラが落としたのは極々小さな火種だったのに、こんな風に燃え上がるとは。祖母が社交界はいかに危険か、口酸っぱく説いていた意味を、身をもって痛感するサラだった。
「俺といればいいだろ」
一分一秒も一緒にいたくないです。
そう言い返せたら良かったのだが、相手は伯爵家。自分は男爵家。不敬な態度はとれない。最悪、両親にまで迷惑をかけてしまう。サラは渋々、ルキオの話し相手を務めることにした。
「で、お前の名前は何て言うんだ」
「サラ・プティエルと申します」
「ふうん、サラか。名前までありきたりなんだな」
辛抱強いサラも、流石にこれは黙っていられなかった。見た目はどうにもならないが、この名前は父と母が一生懸命考え、様々な願いを込めてつけてくれた、一等大切なものだ。それをありきたりだなんて軽々しく言うのは許せない。
「…ルキオ様こそ、逆さから読んだら『起きる』じゃないですか」
「な、なんだその悪口!?」
「そう思うのでしたら、私の両親が贈ってくれた名前を軽んじるのはやめてください」
「…………怒った、のか?」
是非一度、自分の言動を振り返ってほしい。怒らない要素がどこにあるのか、逆に問いたい。サラは呆れ果ててため息すら出てこなかった。
「……………………………………悪かった。が!俺に説教とはいい度胸だな!」
間は長いし声量は小さすぎる謝罪。その割に余計な台詞だけは無駄に声を張り上げていて、サラは怒る気も失せた。
「まあいい。ダンスでもどうだ?お前、踊れるのか?」
「一応できますが…」
「よし、じゃあ行くぞ」
死んだ目でダンスに付き合うサラだったが、踊り始めてすぐ違和感に気付いた。
(…この人、私よりダンスが下手では?)
サラとて、ダンスが得意な訳ではない。可もなく不可もなくといったところだ。だが、そんなサラにもわかってしまうほど、ルキオのダンスは下手くそだった。リードしてもらいたいのに、逆にサラがぎこちなくリードしなければならない惨状である。自信満々に誘っていたあれは何だったのだろう。
「…………あの」
「ななななんだよ!俺のダンスに文句があるって言うのか!?」
「いえ、そうではなく。父が呼んでいるので、そろそろお暇したいのですが」
高難度なダンスを強制されたサラの疲労は尋常ではなく、先程から父に助けてと目で訴えていた。その意図を汲んでくれた父により、サラは地獄の夜会からようやく解放される。
「…大丈夫か、サラ」
「あまり大丈夫ではありません…」
「しばらく夜会は休みにしよう」
「そうしていただけると助かります…」
ルキオだけでも面倒なのに、万が一、彼に想いを寄せる女性がいて、変な誤解をされてしまったら厄介な事この上ない。サラの気持ちは重くなる一方だった。