クロッキーブックと旅する少女-エピソード2 I recall an incident.
[エピソード2の登場人物]
画家・マリー=アンジュ・桜……主人公。クロッキーが得意な少女
文枝………………旅館の元経営者。今は隠居の身
文高………………旅館の経営者。文枝の長男
武男………………文枝の夫。三十三年前に他界
幼女………………旅館に出没する幽霊
画家・マリー=アンジュ・桜と老婆は、高枝の霊がショウタの霊を連れて立ち去った雑貨店を後にして、人気のない道をゆっくりと歩いた。
桜の黒髪を大きくなびかせていた風はすでに止み、ヒマワリの3D刺繍を施した半袖のワンピースも、陽がかなり傾いてきたので華やかさが目立たない。今は、彼女のサンダルの足音と、老婆の履き古してぺったんこになった靴の音だけが聞こえている。
この住宅街で人々はどこへ行ったのかと不安になるが、窓辺から漏れる明かりやたまに聞こえてくる犬の声にホッとする。
老婆は右手に杖を持ち、左手を後ろに回し、体を前傾にして左右に揺れながら歩く。その歩調に合わせて桜は歩くのだが、歩幅を狭くしないとすぐに追い越してしまいそうなので、老婆の歩みを見ながら歩いていた。
急に、老婆が前を向いたまま頭を上げた。
「高枝は、わしの娘じゃ」
「えっ!?」
桜は高枝の霊をさきほど見ているので、跳び上がるほど驚いた。
何の脈絡もなくつぶやいた老婆は、桜の質問でも空耳に聞いたのだろうか。しかし、老婆は彼女の方を振り向かない。
「かわいそうなことをしたよのう……。かわいそうじゃ。ほんとうに」
桜は、老婆の消え入るような独り言には答えずに、相槌のみ打つ。
「でも、ショウタに会えて、ほんとうによかったのう。よかった、よかった」
ようやく声をかけるタイミングをつかんだ桜は「そうですね」と横から声をかける。
「ん?」
老婆が立ち止まり、声を発した人の姿を探すようにキョロキョロする。そして、桜を見つけると『ここにいるのは誰じゃ?』というような顔をし、『そうか。お前さんか』と頬が緩む。
「うむ。これで高枝もショウタも浮かばれる」
それから、老婆は歩みを再開し、時折「よかった、よかった」とつぶやきながら旅館に近づいていった。
その旅館は、大きな古民家を改造したもの。黒っぽい板塀が歩道と敷地を分けていて、開け放しの門から入ると、右に百花繚乱のごとく花が咲き乱れる花壇が広がり、左にこれまた赤、白、灰色の様々な鯉が泳ぐ池がある。石灯籠が風情を添え、鹿威しがちょうどカーンと鳴った。
「あいつめ。客がおらんと、鳴らしよる」
また独り言をつぶやいた老婆は立ち止まり、今度は右に左にと首を振って桜を探す。その時、彼女は花壇に見とれて歩みを止めていたので、老婆は振り向いて笑う。しかし、桜が振り向いてくれなかったので、真顔に戻り、とぼとぼと歩き出した。
その時、旅館の広い廊下を歩いていた従業員風の中年男性が、近くにいる二人の姿を認め、慌てて廊下から石段に降りた。彼は、そこにあった突っ掛け草履を履いて、鹿威しに細工をした後、何食わぬ顔で廊下に戻った。
桜は、老婆が遠くから呼ぶ声を聞いたので、ハッと気づいて振り返る。開かれた広い玄関の中から聞こえてくるので、彼女は急いでそちらに向かった。
桜が玄関の中に入ると、老婆は廊下に腰を下ろして、ため息を一つついて靴をゆっくりと脱いでいた。遅くなった桜が「すみません」と声をかけると、遠くで「はい!」と言う男の声がした。従業員が呼ばれたと思ったのだろう。彼は、静かに、でも急ぎ足でやってきて姿を見せた。
「いらっしゃ……お帰りなさい」
「何が、いらっしゃいじゃ。わたしじゃよ、わたし」
彼は、さきほど廊下を歩いていた男性の従業員だった。もちろん、桜が宿泊客であることを知っている。本当は桜に声をかけたはずが、老婆が自分に声をかけたと思い込んだのだ。
「この娘さんをあそこに案内するから、人払いせい」
「はい」
男性は『さあ、困ったぞ』という顔をして、桜の方を見る。人払いで何をしようとしているのか薄々わかってきた彼女は、立ったまま足を曲げてサンダルを脱ぐ。
老婆がヨロヨロと左方向へ去って行くと、それを見ながら男性が後ろ歩きし、桜の立っている玄関の右側に近づいた。そして、右手を右頬に当てて老婆を見つつ、桜の方へささやくように言った。
「ちょっと――おかしくなってるんで、気にしないでください」
「えっ?」
「うちの親なんですが、認知症が進んでいて」
「はあ」
「特に、私の妹が亡くなってから進行して」
桜は乏しい情報から推理を巡らす。
「あのー、妹さんって、もしかして、たかえさんですか?」
男性はギョッとする。
「そこまでしゃべってしまいましたか?」
「ええ。さっき聞きました。すみません、お名前は?」
「私? 文高です。母親が文枝で、妹が高枝で――ちょっと変わっているでしょう?」
会話だけでは漢字が見えないので、「ふみたか、ふみえ、たかえ」で何が面白いのかわからない桜は、一応は微笑んでみせる。
文高は「じゃあ、失礼します」と言って、音を立てないように小走りに去って行った。
桜は、ちょうど廊下の曲がり角を曲がる老婆――文枝が見え、姿を見失いそうになったので、慌てて後を追った。
彼女が2メートルくらいの距離に間を詰めたとき、文枝が振り返って「ちょっと待っておくれ」と言い、左側の障子の戸を開けて入っていった。陽がさらに傾いたが、まだ廊下の電球をつけるかつけないか微妙な明るさだ。そんな薄暗い廊下で文枝の許可を待つ彼女は、背負っている鞄からクロッキーブックを取り出す。
パラパラとめくっていくと、高枝とショウタの出会いを描いたページが開かれた。彼女はそれに目を落とし、今頃どうしているかな、と思っていると、首筋辺りにスーッと冷たい空気が流れた。
背後に気配を感じたので振り返ると、廊下の突き当たりにある厠の前に、おかっぱ頭で白い顔をした和服姿の幼女が立っている。背丈は100センチメートルに満たない。
桜は一目で、幼女が霊であることがわかった。
(ああ。今回の依頼は、あの子のことね)
桜は、ソッと幼女に近づく。表情を変えない幼女は、桜が近づくにつれて徐々に顔を上げた。
「こんにちは」
「…………」
「私、桜。お名前は?」
「…………」
「ここで何をしているの?」
「…………」
言葉が通じないのか、何一つ答えず、幼女は桜を見つめている。すると、後ろから足音が聞こえてきた。
「お前さん。そこで何をしておる?」
文枝の声だ。
「あっ、すみません」
桜はクロッキーブックを持ったまま、文枝のところへ急いだ。
「何かおったのか? ネズミとか?」
「いいえ」
「いや、その顔は、何かを見ていたはず。何じゃ?」
桜は、正直に言おうかどうしようかと迷ったが、これから相談されることがあの子のことかも知れないので、「おかっぱ頭で背の低い和服の女の子が立っていましたので、話しかけていたところです」と答える。
口をあんぐりと開けた文枝は、「さては、座敷童でもおったのか。それまで見えるとは、さすがよのう」と感心しながら「さ、さ、こっちへ来なされ」と手招きして左の部屋に入っていく。
そこは十畳ほどの和室だった。仏壇があるが、飾ってある写真立てが伏せられている。天井近くにかかっている額縁――縦長なので、おそらく遺影――に布が無造作にかぶせられ、その真下に椅子と叩きの棒があった。他には背の低いタンスがあるだけだ。
座布団を勧められた桜は、部屋の真ん中で正座する。そこは、正面に仏壇が見える位置だ。文枝は、桜の正面から1メートル半くらい離れたところに座布団を敷き、肘掛け――肘を突く台――を持ってきた。そして、仏壇を背にして、座布団にゆっくり座った後、台に左肘を乗せた。
文枝は「何から話せばいいのかのう」と、ため息交じりにつぶやく。
「さっきの女の子のことでしょうか?」
「いや、違う。そんな子は、知らん。高枝のはずがない」
何も高枝の幽霊とは言っていないのだが、否定されて、桜はちょっとしょげた。
「では、どのようなご依頼でしょうか?」
「長くなるから、ほれ、足を伸ばしてかまわんから。若い子は正座が苦手じゃろうに」
「大丈夫です」
「疲れたら、遠慮はいらんから。……さて、実はのう」
文枝がゆっくりと語り始めた。思い出すまで時間がかかったり、同じことを繰り返したり、言い直したりしていたが、整理すると以下の内容だった。
六十年前に文枝が親からこの家を継いだとき、こんな広いお屋敷を遊ばせておくのはもったいないと思い、婿に来た夫と一緒に旅館を始めた。
その後、文高が生まれ、旅館の経営も順調。2軒目の旅館も持てるくらいに貯金が増えた。
ところが、そういう段になると、どこからともなく金の匂いに釣られてやって来る者どもがいる。株やら先物取引やら連帯保証人やらのトラブルに巻き込まれ、多くの蓄財を失った。
風評から観光客も減って、旅館もたたみ、慣れない日雇いの仕事で非常に苦しい生活が続く中、高枝が生まれて家庭に光が灯った。
吹き荒れていた風評の嵐も去り、もう一度旅館経営をやり直そうとした矢先の三十三年前に、夫が病に伏せて他界。それから、女手一つで旅館を再建し、二人の子供を育てた。旅館経営は、高卒の息子の尽力もあり、今までうまくやってきた。
「ところが、ここしばらく、夢枕に立つのじゃ」
「お婿さんがですか?」
「そうじゃ。いつも、何か言いたそうにしておる。しかし、言葉にしないからわからない。目が覚めると姿がない。だから、どうすることもできないのじゃ」
「確かに、普通の人はわからないかも知れません」
「お前さんは、わかるのかね?」
文枝が身を乗り出した。
「え……ええ……」
「そうじゃ。今ここに婿はおるかのう? おったら、その紙に描いておくれ」
この時、桜は、仏壇の写真立てが伏せられ、額縁に布がかかっている理由がわかった。そして、婿の名前を言わない理由も理解した。
部屋が薄暗いのに、文枝は電灯をつけてくれない。でも、なんとか見えるので、彼女は婿の霊を探すため、部屋の中をぐるりと見渡す。すると、真後ろのふすまの前に幼女がちょこんと座っていた。
桜は文枝の方に顔だけ向ける。
「おばあさま。私がこれから、おばあさまには見えない人とお話をします。決して、声を出さないでください。怖がって逃げてしまう可能性がありますので」
「でも、婿が現れたら、話しかけてもよいじゃろうが」
「申し訳ありません。お話は出来ません。私を通じてでないと――」
「お前さんは、口寄せかのう?」
「口寄せ? ああ、いたことか、いちことか言いますね」
「お前さん自身に乗り移るのかのう?」
「いいえ、見たことを描いて、聞いたことを言葉にするだけです。……では、始めます」
桜は、幼女の方に向き直って、優しく声をかけた。
「この家のお婿さん、知らない?」
幼女は、仏壇の方を指差す。桜は頭だけ振り返るが、もちろん、姿は見えない。
「ああ、亡くなったって言いたいのね」
ところが、幼女は首を横に振る。桜はもう一度振り返る。しかし、姿はない。
「じゃあ、質問を変えるね。今、お婿さんはどこにいるの?」
やはり、幼女は仏壇の方を指差す。そこにいるのに見えないのか、とでも言いたそうだ。
「いや、何が言いたいのかわかるけどね……」
そう言いつつ、桜はもう一度仏壇を見る。
すると、彼女はギョッとした。仏壇の左から顔を半分出している白髪の人物がいるのだ。どうも、仏壇の陰から様子を窺っているような感じだ。
彼女は、今度は仏壇の方に向き直った。
「はじめまして。画家・マリー=アンジュ・桜と申します。突然お邪魔して申し訳ございません。もしかして、私達のお話をお聞きになっていらっしゃるかも知れませんが、おばあさまに何かお話しになりたいそうで。よろしければ、私が口伝えでおばあさまにお話ししますが」
すると、仏壇の裏に隠れていた人物が、ヌーッと姿を現した。紺色の浴衣のような和服を着た男性だ。おそらく、亡くなったお婿さんの霊だろう。
桜は、リュックからコンテを取り出して、クロッキーブックの白紙のページに素速くその姿を書き写す。そして、腕を動かしながら「お名前をお聞かせください」と質問する。
「武男」
「タケオさんですね。漢字で何と書きますか?」
桜の言葉を聞いた文枝は「わわわ」と声を上げて、肘掛けの台に両手を付く。
「武士の武に男」
「武士の武に男ですね」
文枝は、桜と桜が目を向けている仏壇との間で視線を往復させる。もちろん、文枝には武男の姿は見えない。
「おばあさまの夢枕に立つそうですが、何をお伝えしたいのですか?」
「連帯保証人とかで迷惑をかけた。苦労もかけた。
やっと旅館を再建しようとしたときに病にかかった。
息子にも迷惑をかけた。
そのことを謝りたかったのだが、この状態では何も出来ん。
せいぜい夢枕に立つことしか出来んかった。
それでわかって欲しかったのだ」
桜は、武男の言葉を文枝に伝え、彼の姿を描いたページを見せた。すると、文枝はクロッキーブックをグイッと引き寄せ、隅から隅まで涙目で追い、嗚咽した。
「そうだ。武男さん。こちらの女の子は、誰だかわかりますか?」
彼女は、幼女の方へ右手のひらを広げて指し示す。指さしは失礼だと思ったからだ。
「ああ。せがれの娘だ」
「と言うことは、フミタカさんのお子さん? 亡くなったのですか?」
「二歳でな」
「二歳で」
と、その時、廊下の方からすすり泣きが聞こえてきた。桜が立ち上がって廊下に出ると、跪座――つま先を立てた正座――の姿勢になった文高が手の甲で涙を拭いていた。
「すみません。人払いを命じられたのに、立ち聞きしてしまいまして……」
「いいえ」
「あなたは、見えないものが見えるのですね?」
「え、ええ……」
「今、亡くなった娘がそこにいるのですね?」
「はい」
「申し訳ありませんが、娘を描いて見せていただけますでしょうか?」
桜は、涙が止まらない文枝からクロッキーブックを受け取り、幼女の方を向いて素速く描く。それを文高に見せると、彼は号泣し、ページを涙で濡らした。
しばらくして、武男が幼女を手招きする。
「さあ、おいで。伝えたいことも伝えたから」
幼女は、無言で頷いて立ち上がり、武男のところへ歩いて行く。武男は幼女の手を取り、桜の方を見た。
「本当にありがとう」
「どちらへ行かれるのですか?」
桜の言葉に、文枝も文高もハッと顔を上げる。もちろん、武男の声は聞こえないので、彼女の声から別れが来たことに気づいたのだ。
「遠いところ、とでも伝えてくれないか」
「遠いところですね」
文枝は、仏壇に向かって深々とお辞儀をした。文高は、急いで部屋に入り、額を畳に付けてひれ伏すようなお辞儀をした。
翌朝、桜はリュックを背負って、なぜかコンテを手に持ったままチェックアウトした。文枝と文高が玄関まで見送りに来てくれた。桜は二人に丁寧にお辞儀をして旅館を出ると、右に池を左に花壇を愛でながら、歩道に出る。
ここで、彼女はニコッと笑って、コンテで宙に何かを描く。
「ごめんなさい。昨日の出来事は、夢の中で武男さんと娘さんが現れたことに記憶を書き換えさせてもらいました。このコンテの魔法で。もちろん、私はあの和室にいなかったことになってまーす」
ちょうど黒猫が歩道を横切ろうとしたが、彼女の姿に気づいて止まった。彼女はしゃがんで、おいでおいでをする。すると、黒猫はまるで前にも彼女と出会ったことがあるかのように、人なつっこく近づいてきて、ちょこんと座った。
「だって、見えないものが見えるってことが広まったら、後々面倒なことが起こるし」
彼女が黒猫の首を撫でると、その黒猫は気持ちよさそうに目を細める。
「すでに、私、狙われているしね。そこにいる誰かさんに――」
彼女は、フフフッと笑って、後ろを振り返った。
最後までお読みいただきましてありがとうございます。
元々、長編物として考えていたのですが、独立したエピソードに分割し、短編として公開しています。