第90話 世界記録より早く
競技場を出たところで、ミキちゃんがスポーツドリンクを手に待っていた。
どんな顔をすればいいのか、何を話せばいいのか分からなかった。
ミキちゃんは何も言わずにスポーツドリンクを差し出して、僕はそれを受け取って水分を補給した。
わずかな水分が唇からこぼれた。
「悔しいよ」
それが、僕の正直な第一声だった。
「負けるのなんて慣れてるはずなのに、すごい悔しい」
少し、ミキちゃんは唇を持ち上げた。
だけど何も言わず、半歩、僕に遅れて歩き出した。
隣を歩きながら、僕はもう一口、スポーツドリンクを飲んだ。
ミキちゃんはずっと黙ったままサブトラックまで付いてきた。
風がなくて、体感温度はかなり高かった。
ミキちゃんは、黙ったまま、僕の様子をじっと見ていた。
(どうしたんだろ)
疑問に思いながら、軽くダウンをしてサブトラックを後にする。
ミキちゃんは一言もしゃべらなくて、もしかして怒ってるのかなと思ったけど、表情を見る限りそうではないようだった。
「何で黙ってるの?」
恐る恐る聞いてみると、ミキちゃんはちらりと僕を見て、それから口の奥で何かモゴモゴと言った。
「ん?」
「だ、だから、何て言ったらいいか分からないから」
「ふうん」
ミキちゃんは葛藤に陥ってしまったのかもしれない。
褒めるべきか叱咤すべきか、それとも慰めるべきか元気付けるべきか…。
何というか、いかにも真面目なミキちゃんらしい。
わざとらしく、ごほんとせき払いをする。
「とにかく、あとは4K、気持ち切り替えて」
「あ、うん。分かってる」
「アンカー、石塚さんになったから」
「え?ああ、高柳さんはクビだっけ」
「うん。星島君のところは関係ないけど」
「バトンパス大丈夫かな。大丈夫か。人のことより自分のことだってね」
ミキちゃんに指摘される前に、自分で訂正する。
それがおかしかったのか、ミキちゃんは柔らかくほほ笑んだ。
その笑顔は世界記録よりも素早く僕の目に焼き付いて、どんな言葉よりも鮮やかに心の中の負を払ってくれたのだった。
「とりあえず、反省は後ね」
「うん。ミキちゃん、ありがとう」
まっすぐに礼を言うと、少し照れて歩き出す。
長い髪に、真夏の日差しがすけていてきれいだった。
「決勝は、何点だった?」
聞いてみると、ミキちゃんはちょっとだけ僕のほうを見て、太陽に手をかざした。
「90点」
「お。いい点!」
「前半は85点、後半は75点」
足して、ええと、160点。
「平均すると80点だけど」
「10点は、よく頑張ったから、敢闘賞」
「そっか…」
「うまく次につなげられたら、満点ね」
そう言って、ミキちゃんはまぶしそうに僕を見た。
出会ってから初めて見るくらいの、優しい表情だった。




