第80話 器
加奈が走り去った後、その場に取り残された僕たちの間に気まずい空気が流れた。
さて、どうしたものだろうか。
やはりここは、僕が何か言っておくべきだろうか。
そんなふうに考えていると、ミキちゃんがすっと顔を上げてパンと手を叩いた。
「さ。タイム計るから本気で走ってね」
みんな、あっけにとられる。
大したものだと思った。
信念に支えられていないとこうはいかない。
僕みたいに、他人の顔色をうかがいながら行動する小市民は駄目だ。
こういうときには、右往左往してしまうしかないわけ。
信念を持っている人は強い。
それを貫くことだけ考えていればいいからだ。
その結果、どうなるかはともかく、だ。
「宝生さんも、大丈夫?」
ミキちゃんに聞かれて、宝生さんは慌ててガクガクとうなずいた。
まだ真帆ちゃんの影に隠れて、ブルブルと震えている。
もうすっかりひよこモード。
「どうしたの?」
「え。だって…」
宝生さんが、加奈が走り去った方向を見る。
ミキちゃんも、ちょっとだけそっちのほうを見たけど、すぐに視線を戻した。
「ほっといていいわよ。あとで、頭が冷えたころに話しておくから」
「あ、あんまり、ぶたないであげてくださいね」
真帆ちゃんが言うと、ミキちゃんは不機嫌そうに眉を動かす。
「そんなことしないわよ。私が暴力ふるったことある?」
言っておいて、自分で思い出したらしい。
「まあ、山倉教授と高柳さんには、あれしたけど…」
恥ずかしそうにミキちゃんが付け加えて、少し笑いが起きた。
ちょっと雰囲気が柔らかくなって、みんなほっとする。
「じゃあ、いくわよ。準備いい?」
「はい」
ストップウォッチ片手に、よーいドンでミキちゃんが両手を叩いて僕たちは走り出した。
100mでは聡志には負けないけど、距離が伸びると途端に立場が逆転する。
800mくらいは何とかついていったけど、それ以降はどんどん引き離されてしまった。
一番、長距離が強いのは元サッカー部の織田君。
ほとんど差がなく聡志。
ずーっと遅れて僕、さらに遅れてベースマンって感じ。
「星島君、4分42秒」
「ふいーっ」
「真剣に走った?」
「は、走ったよ」
聡志は4分25秒だったらしい。
かなり速いような気がする。
インターハイなら、遅い組に入って運がよければぎりぎり決勝に残れるかもしれない。
女子1500mならの話だけど…。
「橋本君はやっぱり、長い距離のほうが向いてるわね」
バインダーにタイムを書き込みながらミキちゃんは言った。
「ま、どちらかといえばだけど」
「うう。スプリントの才能ないのかなあ」
「そんなの、あるかないかなんて神様にしか分からないけど」
名言だ。
真理であるとも言える。
才能とは、器のようなものだ。
僕らの中には、様々な器がある。
スプリントの器、長距離の器、あるいは柔道の器とか料理の器とか。
ゴルフボールを縦にたくさん重ねることのできる器とか。
役に立つとか立たないとかに関係なく、たくさんの器がある。
残念ながら、僕らには器の大きさを変えることはできない。
それぞれ一人一人に、上限が与えられている。
しかも、器の大きさも自覚できないから困ったものだ。
しかし、好きな器を選んでそこに水を注ぐことはできる。
それが、努力だ。
そして、勝負は器の大きさでは決まらない。
器に入っている水の量で決まるのだ。
たくさんある器の中から、何を選んで水を入れるか、それがものすごく重要だと思う。
時間には限りがあるわけだし。
「じゃ、本格的にやってみようかな」
ミキちゃんの言葉に、聡志は鼻を鳴らした。
聡志のロングスプリントの器の大きさは未知数。
だけど、確かに、長いほうが向いているかも。
「そうね。頑張って」
「頑張る!大活躍したら彼女もできるよね!」
「それは知らないけど」
「ミキちゃんさ、ぶっちゃけおれとかどう?女の子的にはありかな?」
聡志の質問は、かなり大胆で挑戦的だった。
しかし、それに対してミキちゃんは無言だった。
眉間にしわを寄せて、への字口、じとっと聡志を見て、肩をすくめただけだ。
聡志の落ち込み具合は、見ていて、こっちまで泣けてきそうだった。




