第8話 2日遅れの
詩織ちゃんの丁寧な仕事で、しっかり足首が固定されると、ミキちゃんは立ち上がってトントンとつま先を鳴らした。
足首の捻挫は、クセになるらしい。
やったことないから知らないけど、前キャプテンの柏木さんもそれで苦労している。
「大丈夫そうですか?」
「うん。ありがとう」
「はーい」
「星島君も、ありがとね」
ちゃんとお礼の言える偉い子だ。
偉い子は人を突き飛ばしたりはしないような気がするが、ともかく僕の目じりは下がった。
「肩貸そうか?」
一応、聞いてみる。
あ、おねがーいなんて、言われることは絶対にないと思うけど。
「要らない」
「遠慮しなくていいよ」
「平気だってば。しつこいわね」
睨まれる。
前は性格の捻じ曲がった子だと思っていたけど、最近やっと分かってきた。
これはミキちゃん流の照れ隠しなのだ。
多分。
そうだといいな…。
「あ、あたし、ついでに学生協行ってきます」
「あ、うん」
「はい、頑張ったごほうび」
「わーい」
詩織ちゃんから黒糖飴をもらった。
これがまた、とてつもなく甘いけど旨いのだ。
救急箱を受け取って、ミキちゃんと2人で坂を下りていく。
2人とも無言だった。
何か話したかったけど、何を話そうか考えているうちにトラックについてしまう。
まだ人はまばらで、短距離グループは誰もいなかったけど、加奈がぽつんと芝生の上に座っていた。
僕たちに気づいて、立ち上がるとだだだだっと走ってくる。
まずは恐れているミキちゃんにおはようございますと馬鹿丁寧に頭を下げて、それから唇をとがらせてびしっと僕を指差す。
「11秒23切るなんて、絶対無理じゃん!」
やっと気づいたらしい。
2日遅れのつっこみだ。
「そうかい?」
「無理でしょ!だって日本記録だよ?」
「そうか。まあ頑張ってくれたまえ」
「うーっ!この卑怯者!」
どすどすと地団駄を踏む。タータンがへこみそうだってば。
「卑怯って、どこがだよ」
「全部!顔とか!」
「顔は…、え、顔…」
「いいよ、そういうつもりなら、こっちにだって考えがあるんだから!」
「考え」
「いっぱい練習する!」
あたかも秘策みたいに加奈は言ったけど、人はそれを正攻法と呼ぶ。
「そうか。まあ頑張れ」
「じゃあ、ほら早く!練習!」
「勝負の相手に付き合わせるのかよ…」
この調子で、ずっとつきまとわれるのではないかと少し心配だ。
でも、まだ誰も来ていないようだったので、ジャージに着替えると加奈と一緒にジョグでトラックを3周ほどする。
体操とストレッチをこなしながら、加奈は楽しそうに昔の話をしたけど、もちろん僕はまったく覚えていなかった。
「あたしはほら、チュニジア行って、同い年の子はあたしだけで、いつも一人で遊んでたじゃん」
ほらって言われても、知らないけどな。
「それで、いっつも一人でね、のぞむくん今ごろ何してるかなーってそんなことばっかり考えてたから、余計に覚えてるんだと思う」
「なるほどね」
昨日、久々に母親に電話をした。
加奈のことを聞いたのだが、加奈の言葉に嘘はなかった。
あれこれ、母から聞いているうちに何か思い出すかと思ったけどさっぱりだった。
埋没した記憶は、埋没したまま呼び起こされることはなかった。
我ながら、記憶力のなさには定評がある。
本当、どうしてこんな記憶力がないんだろうと思うぐらい、さっぱりなのだ。
小学校の同級生の名前も、もう2、3人しか覚えていない。
「本当に、あたしのこと全然覚えてないの?」
「うん。さっぱり」
彼女は唇をとがらせて僕を見て、それからまた笑顔を見せた。
「ま、いっか。今からいっぱい思い出つくろうね!」
「別につくらなくてもいいです」
「えーっ」
とにかく元気な女の子だ。
まるで太陽のように、彼女はピカピカと輝いていて、その眩しさに僕は思わず目を細めた。
なんとなく、ミキちゃんのほうを見る。
遠くで、芝生の上に座っていたミキちゃんと目が合った。
だけどすぐに、ミキちゃんはぷいっと視線を逸らした。
加奈が太陽だとすれば、ミキちゃんは月夜の蛍ぐらいなものだろう。
「あの人、キライ」
そんなふうに、加奈は唇をとがらした。
「ん?」
「あんなに偉そうに、ガミガミ言わなくてもいいと思わない?」
「まあ、確かにそうかもしれないけど、加奈にも問題あると思うよ」
「あっ」
ぴかっと加奈の表情が光った。
怒るのかと思ったがそうではなかった。
「初めて名前呼んでくれた!」
「そ、そうだっけ?」
「わーい!」
「それに間違ったこと言ってるわけじゃないだろ」
「そうだけどさ。絶対キライ。一生仲良くなれない」
加奈は唇をとがらせた。
加奈が言うまでもなく、ミキちゃんは口が悪い。
それに態度もよくない。
つまり、性格がよろしくない。
偉そうとか気取ってるとか何様のつもりとか、そんな陰口は山ほど聞いてきた。
だけどミキちゃんは、本当はいい子なのだ。
誰も賛同してくれないけど少なくとも僕はそう思っていて、だからミキちゃんの悪口を聞きたくないのだった。