第78話 負けるもんか
夏合宿が終わり、1週間後の土曜日の昼過ぎ。
灼熱の日差しの下、学生協で買い物をして外に出ると、藤崎小春と出会った。
水沢咲希ファンクラブの代表だ。
遭遇、という表現がぴったり合う。
4、5人のグループでいて、僕を見ると、まなじりを持ち上げて近寄ってきた。
いきなり怒ってる?
「うらっ!星島望っ!」
思いっきりビンタされそうになったけど、グループの一人が寸前で藤崎小春を引っ張った。
僕の鼻先を、藤崎小春の平手がぶんっと通り過ぎていく。
慌ててのけぞって、買い物袋を落としてしまった。
え、何、いきなり何なの?
「あたしの許可なく、咲希先輩と海なんか行ってんじゃないわよっ!」
「ええ…」
そんな、理不尽な。
そんなことで叩かれちゃうのか…。
「まあ、まあ、まあ…」
さすがに、グループの女の子が止めに入った。
何人かがぷんぷん怒っている藤崎小春を遠ざけて、1人が買い物袋を拾ってくれた。
藤崎小春とよく一緒にいる、胸の大きいセクシーな子。
不二子ちゃ~んみたいな子だ。
おっぱい魔人と名付けよう…。
「悪いね、あの子ちょっと病気だから」
声もいいな。
それに、いい匂いがする…。
「ありがと」
「じゃ」
軽く手を上げて、グループのほうに戻っていく。
やれやれだ。
キスのことがばれたら、事件になるかもしれないな…。
それより、プリンだ。
練習前に食べようと買ったプリン、大丈夫かな。
袋の中を覗き込んでみたけど、まあ、ダメージはなさそう。
あとはスポーツドリンクだけだからよかった。
生卵とか買ってたら大変だった。
ま、学生協で生卵買ったことなんてないけど。
「ん…?」
背後から藤崎小春が襲ってこないか注意しつつ歩いていると、スマホが震えた。
SNSでメッセージが届いている。
織田君からだった。
「11秒41かな」
意味が分からない。
宛先を間違ったのかも。
そう思っていると、すぐに織田君からもう一通届いた。
「記録会、加奈ちゃん、11秒41!」
果てしなくびっくりして、鼻水が出るところだった。
今日は絹山競技場で記録会があり、1、2年生を中心にうちからも何人か参加していた。
画像が添付されていて、記録ボードに11秒41の文字が表示されている。
追い風0・8m。
十分、公認記録の範囲だけど、本当に加奈の記録なのか疑わしくなった。
「マジで?」
「マジで!日本歴代5位!」
たぶん、織田君も驚天動地な感じで、とにかく慌ててメールを送ったのだろう。
僕も同じように驚いて、急いで坂を駆けおりていった。
この大ニュースをみんなに知らせようと思った。
でも、トラックの外周をゆっくりとジョグしている新見の姿を見て、思いとどまった。
新見は最近、やっと走れるようになった。
走れるといっても、スプリンターとしてどうのというレベルではない。
普通に歩いて、軽くジョグすることはできるようになった感じである。
まだまだみんなと一緒には練習できず、こうして一人でジョグしていることが多い。
膝にはまだサポーターをしているし、腕には少し傷が残っている。
「星島君、おはよ」
「あ、うん。おはよ」
それでも、本人には前の明るさが戻ってきた。
ちょっとずつ前進しているという、手ごたえがあるようだ。
順調に行けば、来シーズンの頭くらいには本格的に走れるようになるかもしれない。
また元通り走れるかどうかは別の話として、とにかく頑張ってほしいものだ…。
「ほしじまーっ!聞いたかっ!」
新見と一緒に歩きながら、少しおしゃべりをしていると聡志が部室のほうから走ってきた。
嫌な予感がして、制止しようとしたが間に合わなかった。
「加奈ちゃん、記録会で11秒41出したって!」
新見の気持ちとか少しは考えればいいのに。
バカだからしょうがないけど、まるで自分のことにようにぺらぺらと喋りまくる。
最近、高柳さんと似てきたかもしれない。
あとで蹴飛ばしてやろう。
僕はそんなふうに思ったけど、新見は意外と平然としていた。
「すごいね。負けてられないなあ」
「そうだよ、沙耶ちゃんも頑張れ!」
聡志がぐっと親指を差し出して、新見も真似して親指を突き出して笑った。
もしかしたら、僕より聡志のほうが、新見の心に一歩近かったのかもしれない。
何となく聡志に負けたような気がする。
僕も拳を握ったけど、何もできずにすぐ開いて、ジャージのズボンをごしごしとこすった。
「負けてられない」
聡志がはしゃぎながらどこかへ走っていって、2人きりになると新見は呟いた。
真剣な表情だった
「絶対、負けてられない。負けるもんかっ」
何度も、自分に言い聞かせるように新見は言った。
不安がないわけがない。
苦痛がないわけがない。
涙する夜もあったに違いない。
だけど、少なくとも僕の前では、落ち込んだ顔1つ見せなかった。
僕のせいじゃないと新見は言ったけど、あれは僕のせいだ。
車のほうに9割の過失があったとしても、僕には1割の過失がある。
本当なら、車にドスンと当たって、壁にごつんとぶつかるぐらいで済んでいたはずだ…。
「星島君」
俯いていると、新見が僕の肩をぱしんと叩いた。
「星島も、初心者なんかに負けてられないぞ!」
太陽のような笑顔を浮かべる。
その笑顔に、僕が今までどれだけ勇気付けられてきたことか。
「そうだ。頑張らないと」
「よし、やるぞ!」
新見がぐっと親指を差し出して、僕も真似して親指を突き出して笑った。
本当、負けていられない。
加奈にも。新見にもだ。




