第70話 インカレに向かって
8月に入っても、僕は寝坊ばかりしていた。
その日も、朝早く起きたけどパンを食べたら眠くなり、あとちょっとだけ寝ようと思ったら、予想どおり寝坊してドイツ語の講義に出れなかった。
寝坊なのに予想どおりというのもおかしいが、実際そうなのだから仕方がない。
夜、暑くてなかなか寝付けなかったのが原因だ。
ともかく、怖いくらい天気がいい日だった。
2時過ぎの電車に乗って、のそのそとトラックに顔を出す。
既に、何十人もの陸上部員が練習に励んでいた。
健康すぎるほど健康的だ。
「おはよーっす」
「ういーっす」
暑すぎるが、気合いを入れて部室で着替える。
グラウンドに出てアップをすると、タイミングよく短距離ブロックの練習が始まった。
最近、みんないつになく真剣だ。
いつも、くだらない話ばかりしている高柳さんですら、真面目な顔で取り組んでいる。
高柳さんなりに。
「日本選手権、相当悔しかったらしいぜ」
途中で、荒川さんがこっそり耳打ちしてくれた。
高柳さんは、決勝どころか準決勝で落ちてしまった。
現実はなかなかに厳しい。
「いいよな、こういう雰囲気」
と荒川さん。熱血が大好きな人だ。
「そうですね」
「ま、あれもあるだろうけどな」
荒川さんはくいっとあごで示した。
僕の背後で、本間君が汗だくになって目を光らせていた。
7月末、パリで開催された世界ジュニアに出場した本間君は、見事決勝に進出。
自己ベストの10秒25を出して銅メダルを獲得した。
これはまさに快挙といっていい。
世界ジュニアで銅メダルですよ、旦那。
アメリカ人やジャマイカ人にまざって、堂々の銅メダル。
ニュースで大々的に取り上げられ、短距離のホープとして注目を浴びることになった。
兄で日本記録保持者の本間隆一と一緒に特集番組が組まれるなど、兄弟スプリンターとして陸上ファン以外にも認知されつつあるようだ。
ただ、個人的には、後輩の活躍を素直に喜べない部分もあった。
高柳さんも同じ気持ちなのだろう。
僕は本間君を勝手にライバル視しているし、当然の感情のような気もする。
だけど、ひょっとすると器が小さいだけなのかもしれない…。
「別にいいんじゃない、それで」
全体練習が終わってから、思い切ってミキちゃんに話してみるとそんなふうに言われた。
「星島君は、そのくらいでちょうどいいと思う」
「そうかな」
ちなみに、日曜日の記録会は、追い風0.3mで10秒44だった。
まあまあのタイムだろう。
もちろん、目の前の記録会でいい結果を残すのも大事だ。
しかし、じっくりとトレーニングを積んでいく必要が今の僕にはある。
一方で、最大の目標はインカレ出場権の獲得にある。
ここにジレンマがあるわけだ。
じっくりレベルを上げて魔王に挑めばいいゲームとはわけが違う。
「インカレ出たいなあ」
「頑張って」
「出れるかな」
「大した倍率じゃないでしょ」
100mには3人しか出られない。
最近の成績から考えると、僕と高柳さん、荒川さん、本間君の争いになるだろうか。
もちろん、8月末までにタイムを更新する選手が出てくるかもしれない。
油断はできない。
だが、本間君は確定だろう。
おそらく高柳さんも選ばれると思うので、荒川さんか僕か。
それともほかの誰かか…。
「おれが監督なら、4年生2人と本間君を選ぶなあ…」
「いつから監督になったの?」
「う…、そうなんだけど…」
アピールするチャンスは残り少ない。
だけどどうにかして、インカレの代表に潜り込まねばと思った。
「よし、じゃあ今日もやろう」
「そうね。死なない程度に」
うん。
うん…。
ミキちゃんは言ったけど、つまりそれは、死ぬ寸前までやるということでしょうか…。
戦々恐々としながら練習再開。
いつものように村上道場のメンバーがトラックの隅に集まると、久々に加奈が合流した。
関東インカレで肉離れを発症してから、別メニューで筋トレばかりしていたらしい。
気のせいだと思うけど、一回り大きくなったようにも見えた。
身長も、187センチあるベースマン寺崎と同じくらいに見える。
「お前、ひょっとして背伸びた?」
聞いてみると、加奈は唇をとがらせてぶんぶんと首を振った。
「伸びてないよ」
「身長いくつ?」
「ひゃくは…、な…、きゅうだもん!」
脳みそは成長していないらしい…。
「いいなあ、加奈ちゃん。背高くて」
真帆ちゃんが見上げながら言う。
真帆ちゃんは、ちょんまげを含まないと155センチくらい。
平均的な女子の身長ではあるが、スプリンターとしてはかなり低いほうだ。
「モデルとかもできそうだよね」
「え。そっかな?」
「パリコレとか出れるかも!」
「わーい!」
手をつなぎ、二人でぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいる。
まあ想像するだけなら勝手だが、背が高けりゃ出れるというものでもないと思うんだ。
村上道場の近況だが、最近、ベースマンは110mハードルの練習をしている。
略してトッパーとも言う。
高校時代もやっていたそう。
背丈もあるので、また本格的にやってみようということらしい。
筋も悪くないようだ。
真帆ちゃんは先の日本選手権を見ても分かるとおり、成長著しく、末頼もしい。
このまま続けていけば文句なし。
身長はもう完全に成長が止まっているけど。
織田君は、10秒台を目指して懸命に努力している。
まだ2年生なので、焦らなくてもいいと思う。
きっと、伸びてくるのはこれからだ。
宝生さんは相変わらず金髪で見た目は怖い。
だけど、ミキちゃんが怖いのか、最近はずっとヒヨコのままで大人しい。
そして、聡志は今日から別メニュー。
とりあえず300mを20本とか恐ろしいことを言っていて、織田君が驚いた表情だった。
「ひえ。そりゃきついっすね」
「400mに転向?」
聞いてみると、聡志は斜めに首を振った。
自分でもまだ決心が付いていないようだ。
「いや、長いほうが向いてるんじゃないかって言うから。200mか、400mか…」
聡志はちらっとミキちゃんのほうを見た。
少し離れていて聞こえていなかったようで、ミキちゃんは加奈に何か指導している。
「なるほどねえ…」
「メニューを見て早くも後悔中」
「頑張れベラルーシ人」
「山梨な」
切り返しにもキレがなかった。
ため息をついて、聡志は肩を落としながら400mの選手たちのほうに歩いていった。
僕だって陸上選手だから、走ることは苦にしない。
だけど400mの練習だけは勘弁願いたい。
それほどきつい種目なのだ。
だってもう本当に死にそうになるんです。
全力の400mと1500mだったら、1500mのほうがラク。
「星島君も一緒に行ってきたら」
いつの間にかミキちゃんが隣に来ていて、僕に囁いた。
実は聞いていたらしい。
「いや、おれは、体調崩すといけないから」
手を振って慌ててその場を離れる。
冗談だと思うけど、今日はなるべくミキちゃんには近寄らないようにしようと思った。




