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対角線に薫る風  作者: KENZIE
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第66話 勝負の行方

どうでもいいおしゃべりをしてから、杏子さんはチームのほうに戻っていった。


プログラムを買って、観客席への階段を上る。

入場券は前売りのS席で3千円。

A席、B席よりちょっと高いけど、年に一回のことなので奮発した。


奮発というほどの金額じゃないけど…。

貧乏王なので…。


「こっちこっち」


聡志たちはスタンドのほぼ中央に座っていた。

指定席。非常にいい席だ。

ちょうど、女子5000m決勝が行われるところだった。


「遅かったな」


「杏子さんに会って話してた。今年も海行こうって」


「お、そっか」


楽しみだ。

特に、つまり、女子の水着姿がだ。


おしゃべりしながら観戦を続け、男子400mハードルが終わると、いよいよ女子400m決勝だった。


ハードルが片付けられ、杏子さんたちがトラックに姿を現す。

チームライテックスの青いユニフォームが並んでおり、その2人が本命といえよう。

4レーンが杏子さんで、5レーンが小林由紀だ。

外に小林由紀を見ながら走れるのはいいかもしれない。

後ろから追ってこられるのは嫌なものなのだ。


「さあ。今年はどうかな」


聡志がぐっと身を乗り出す。

宿敵、小林由紀と何度目の対決だろう。


「頑張ってほしいよな」


「うん」


準備が整って、場内に選手が紹介される。


名前がコールされると、杏子さんはスタンドを振り返って軽く手を振った。

いつものように、ついでに投げキッスをしてスタンドが沸く。

外国の選手みたいだ。

さすがの人気選手で、注目度も高い。



「on your mark」



徐々に観客席が静まっていき、スターターのコールで静寂が広がる。

選手がそれぞれのスタートラインに付いて、やがて静止する。

緊張の一瞬だ。

どこか遠くから、鳥の鳴き声が聞こえてくる。



「set」



号砲とともに時間が動き始めた。

観客席の声が反射して選手に届いていく。

第1コーナーからのスタート。

いきなり杏子さんがぐんぐんと飛ばして小林由紀に迫る勢いだった。


「おーっ…」


バックストレートに入って大きなどよめきが起こる。

杏子さんが暴走とも言える走りで、外のレーンの小林由紀に並びかけたからだ。


杏子さんのイン側の選手はもう完全に付いていけない。

6、7レーンの選手は小林由紀にも抜かれている。

8レーンの選手が必死に粘っているが追走で一杯だ。

例によって、小林由紀とのマッチレースだった。


「おーっ!」


そんなに飛ばして大丈夫かと心配したけど、杏子さんのスピードは衰えなかった。

ぐいぐいと細長い足を伸ばし、さらに差を付けてバックストレートの一番向こう。

第3コーナーに突入していく。


400mはここからが正念場だ。


カーブを曲がり、インコースの杏子さんはさらにリードを奪っていく。

しかし、小林由紀が距離を置いてぴたりと付いていく。


最終コーナーをぐるりと回り、残り100m。


スタンドが沸く。

杏子さんが先頭でホームストレートに突入してきた。

去年と同じような展開だ。

小林由紀とは3mほど差を付けている。

いつもここから逆転されてしまうが今日はどうか。


「杏子さんがんばーっ!」


「がんばーっ!」


声援が届いてくれるとよかったのだが、ぐっと気合を入れたのは小林由紀のほうだった。


隆起したハムストリング。

力強い走りだ。

前をいく杏子さんとの差をじりじり縮めていって、逆転を期待するスタンドが盛り上がる。

さすがとしか言いようがない。

残り50mで、小林由紀はあれだけあった差を一気にチャラにしてしまった。


「ああ…」


いつものパターンだ。

そう思ったときだった。


杏子さんは死んではいなかった。

力強く腕を振り、長い足を懸命に伸ばす。

リードこそすっかりなくなってしまったが、必死で並走する。

スピードはがっくり落ちたが、粘りに粘った。

決して小林由紀を前に出すことは許さなかった。


ぎりぎりの勝負とは、バランスを保っている針のようなものだ。

10センチでも、小林由紀にリードを許してしまったらずるずる引き離されていただろう。

しかし、耐えた。

それによって、小林由紀に傾きかけた勝負の針が、ほんの少し杏子さんのほうに戻った。


勝負の針が、両者の間でゆらゆらと揺れる。


「あっ」


「いけるっ!」


残り20mのところで、胸の差だけ前に出る。

ほんのちょっとだけ杏子さんのほうに傾いた針の角度は、現実には大きな差となって現れた。

胸の差が半歩の差になり、半歩の差が一歩になる。


そしてそのまま、杏子さんはトップでゴールして両手を大きく挙げた。

完勝だった。


「やったっ…!」


「やったあ…!」


オリンピックでも、世界陸上でもない。

国内の選手権に過ぎなかったけど、ライバルに初勝利したその一勝の意味を知っている僕たちは、杏子さんと同じように大きく手を挙げた。


初の、日本一。


こみ上げるものがあったようで、杏子さんは両手で顔を覆った。

思わずもらい泣きしそうになったが、10秒後、杏子さんはまた大きく手を挙げた。

満面の笑顔だ。

ちょっとだけ出た僕の涙を返せ…!


「なんだよっ!嘘泣きってっ!」


「小学生かっ!」


「でも、とにかくやった!」


「おーしっ!」


「いやあ、すごいですねえ!日本一!」


ぶつくさ言いながらも、思わず興奮してしまう。

知っている人が活躍するのは、やっぱり格別だった。

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