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対角線に薫る風  作者: KENZIE
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第5話 導いてくれる人

一応、加奈にスターティングブロックの使い方を簡単に教えると、僕は火薬式のピストルを用意して準備が整うのを待った。


心なしか、加奈も緊張しているようで、顔が変だ。

いや、普段はもうちょっとだけ可愛いんだけど。


「大丈夫か?」


「だ、ダイジョブ」


いつもより、声が半オクターブ高かった。

でかい図体のわりに、意外と緊張する質のようだ。


「とりあえず深呼吸」


言ってやると、加奈はびくっと身体を揺らして僕を見た。


「え、え、でも、あたしまだ、そういうのしたことないから」


真っ赤な顔で手をぶんぶんと振る。

まったく意味が分からない。


「何の話だよ」


「え、え、だって、人口呼吸って」


「深呼吸!」


「あっ」


慌てて大仰にスーハーする。

キスしたことないのか…。

子どものころに僕としたって言ってたけど、それはノーカンなのかな。

加奈のことはどうとも思ってないけど、なんとなくそういうのは気になる。

それが、男心ってもんだ。


「別に遅くても誰も怒らないから、最後まで全力で走ること」


「う、ウン」


ギャラリーの視線が集まっている。

新人なので、どんな走りをするのだろうかと注目しているのだ。


ド素人であることは誰もが知っているはずだ。

経験者の目で見れば準備動作の段階で、いや、歩いているだけでも、その雰囲気や所作で分かるのだ。

分かるよね。

何となく、ぱっと分かると思います。


「はい。位置について」


加奈は、位置につく動作から素人そのものだった。

首を上げてゴール地点をじっと凝視している。

なんだか小学生みたいで滑稽だ。


さすがにそれは放っておけない。

頭を下ろせと手で合図すると、気付いて慌てて顔を伏せる。

185センチの巨体がやけに小さく縮こまっていて、足がものすごく窮屈そうだった。


「用意」


号砲がなった途端、加奈はぴょこんと立ち上がった。


「わちゃっ!」


奇声を発してバタバタと走っていく。

それを見て、みんなの興味はなくなってしまったらしい。

何事もなかったかのように、それぞれの練習を再開し始めた。


げらげらと笑っているのは高柳さんだった。

何だか、自分が笑われているみたいだ。

高柳さんレベルの人から見ると、僕も加奈も、大差ないのかもしれない。

そう思うと無性に悲しくなった。


「わちゃっ、だって。ヒッヒッヒイ」


高柳さんのアホ笑いを聞きながら、スプリントチームはスタート練習に移行する。


別にどうということはないのだけど。

何となく気になって、僕は1本目のスタート練習のついでにゴール地点まで向かった。

筋肉をほぐすためか、加奈はまたストレッチをしていた。


「どうだった?」


尋ねると、ミキちゃんは髪をかき上げながら僕を見上げた。


「14秒49」


「へえ」


僕はちょっと眉を開いた。


「意外と速いね」


「そうね」


意外と、というのはつまり、一般人にしては速いという意味だ。

走り方を直せば、1秒くらいはすぐに縮まるだろう。


大ざっぱに言って、女子の場合、13秒台で走ればかなり速い部類に入ると思う。

12秒台で走れたら、陸上選手の中でもそこそこ速いほう。

11秒台を出せば、もう日本のトップクラスだ。

11秒50を切れば、日本選手権で勝ち負けになる。

そして10秒台に記録が伸びれば、世界大会でメダルに片手が届く感じだ。

10秒80を切れば、ほぼ金メダルとれるかな?というくらい。

大体、男子に+1秒と考えていいだろう。


ちなみに、女子100mの世界記録は、アメリカのミシェル・アーチボルドが25年前に出した10秒47。

しかしこれは、薬物使用によるものという説が有力だ。


「というか、サッカーやっててあの走り方ってどうなんだよ」


言うと、加奈は唇をとがらせた。


「だって。キーパーだったんだもん」


「そういうもんかなあ」


軽く笑うと、ミキちゃんが髪をかき上げながら僕を見た。

何か怒られるのかなと思ったけど、そうではないようだった。


「何?」


一応、聞いてみると、ミキちゃんは軽く肩を揺らした。


「別に。人のこと言えるのかなと思って」


ミキちゃんはただのマネージャーだけど、監督の指示のもとでトレーナー業務もこなす優秀な人材だ。

教育学部のスポーツ学科なので、きっと、理論的なことも勉強しているのだろう。

僕なんかよりよほど小難しいことを知っている。


だけど、言い方というものがあるじゃないか。

僕だって毎日、僕なりに一生懸命頑張っているのだ。


「そういう言い方されると、ちょっと悲しいなあ…」


控えめに抗議すると、ミキちゃんはちらりと僕を見た。


「そう。そうね、ごめんなさい」


あっさり謝られると、僕はもう何も言えなかった。


沈黙がしばらく続き、加奈が僕のほうを見て泣きそうな顔をする。

このままだとちょっとあれかもしれない。

何か言おうかなと考えている間に、ミキちゃんが付け加えた。


「星島君にも、あとで監督と相談して特別にメニュー組んであげるから」


案外に、優しい声。


「うん?」


「嫌じゃなければだけど」


「あ、いや、いいの?」


「うん」


「じゃあ…、お願いしようかな?」


「分からないことあったら、遠慮しないでどんどん監督に聞いたほうがいいと思うわよ」


真剣な表情で忠告される。


稲森監督は基本的に放任主義で、自分から進んで指導することはあまりない。

練習せずにおしゃべりばっかりしてても怒られない。

やる気のない選手に手取り足取り教える指導者ではないのだ。


しかし、やる気があって自分からぶつかっていく選手には懇切丁寧に指導する。

そして、うちの陸上部はやる気のある選手ばかりなので、稲森監督の周りにはいつも選手たちが群がっている。

僕はそれを遠くから見ている感じだ。


「いや。なんか、気後れしちゃってさ」


「なんで?」


「いや、だっておれ、推薦でもないし。実績も実力もないから…」


正直に言うと、ミキちゃんの眉毛が持ち上がった。

ミキちゃんじゃなくても、あまりの情けなさに怒るところかもしれない。


「そんなこと言ってたらずっとそのままでしょ」


「うん…」


「誰だって最初は初心者なんだから」


つまり、僕はスプリント初心者というわけだ。

それにもちょっと傷付いたけど、僕は神妙にうなずいた。


「ミキちゃんにも聞いていい?」


ミキちゃんは一瞬黙った。

珍しく、困っている様子だった。

だけど、やがて口を開いて呟くように言った。

何だか、とても照れているらしい。


「別に、いいけど、後悔しても知らないわよ」


「よろしくお願いします」


ぺこりと頭を下げながら言うと、ミキちゃんはちょっとだけ唇の端を持ち上げた。

風に揺れた長い髪が、とてもきれいだった。

面倒くさい子だけど、やっぱり、ミキちゃんは美人だ。

それに、女の子の笑顔はいい。


しかし、ミキちゃんはすぐに普段の仏頂面に戻った。

もう世界記録に認定してもいいぐらい、戻るのが早かった。


「そもそも、加速が全然できてないのよね」


「あ、はい…」


どうも僕はスタートからの加速が苦手で、いつも序盤で差を付けられてしまう。

それで、どうにか追い上げようとあたふたする。

焦ってしまって無駄な力が入って、結局はそれが災いして中盤以降の伸びを欠いてしまう。

それが悪い癖だと、ミキちゃんに叱られました。


喫緊の課題として、そこを、直しましょう。

スプリントは加速が大事だとのお言葉です。


「重心移動がスムーズにできてないし」


と、ミキちゃん。


「はい」


「体が浮いちゃうから前に進まないのよ」


「はい」


「エネルギーが無駄になってるでしょ」


「はい」


「分かってる?」


「はい。分かります」


「漠然と練習しててもしょうがないから、青山さんにビデオ撮ってもらって」


面倒そうに髪をかきあげながら、ミキちゃんは面倒くさくなさそうに言った。

意外と、ちゃんと見てくれるつもりのようだった。


「30mまでポイントで」


「はい」


「前原さんは…、少し待ってて頂戴」


「は、はい…」


加奈に対しては、面倒そう。


「浅海さんに頼もうかしら…」


珍しく、ミキちゃんが一人ごとみたいに呟きながら歩いていく。

指導者は監督とコーチの2人だけ。

日本チャンピオンもいる部活なので、指導者が初心者ばかりに時間を取られるわけにはいかないのだ。


「浅海さんって…?」


加奈が、ペタペタと髪を撫でながら聞いてくる。

風が強いので、ふわふわの髪が暴れている


「浅海さんは、4年生の短距離の人」


「ふーん。青山さんは?」


「青山さんは、1年生のマネージャー」


答えながら、僕はトラックに視線をさまよわせた。


青山詩織の姿を探したのだが、目的の人物は、部室のそばで見つかった。

小さな体で、ポニーテールを揺らしながら、重そうにハードルを運んでいた。

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