第49話 涙のバレンタイン
2月14日、午後7時54分。
絹山総合病院。
基本的に、僕は神様を信じているわけではないし、仏様を拝む習慣もない。
だけどこのときばかりは、ただひたすら、ひたすらに新見の無事を祈っていた。
命だけは、命だけはどうにか助かってほしい。
ただ、それだけだった。
それ以外、望むものはなかった。
(お願いしますお願いしますお願いします)
堅い茶色のソファーに座って、僕は黙って手を組んでいた。
何度か、僕に近付いてくる病院関係者がいて、僕はびくびくしながらその人たちが目の前を通り過ぎていくのを見送った。
何分ぐらい、こうしているのか自分でも分からなかった。
新見の意識はなかった。
手と脚が変な方向に曲がっていて、どこからか出血していた。
僕には何もできなかった。
運転手の若い女の子と一緒に、何もできずに真っ青になって立ち尽くしていただけで、誰かが119番をしているのに気付いて、やっと監督に電話したぐらいだった。
僕のせいで、こんなことになってしまったというのに、本当に何もできなかったのだ…。
「星島君?」
病院に真っ先に駆けつけてきたのは、ミキちゃんだった。
慌てていたのか、いつもきれいな長い髪が少し乱れている。
よく見ると顔も真っ青だった。
たぶん、僕の顔もそんな感じだっただろう。
「…新見さんは?」
僕は答えに窮した。
僕自身、どういう状況なのかよく分かっていなかったからだ。
「今、処置室に…、意識がなくて」
「大丈夫。大丈夫だから落ち着いて、大丈夫」
ミキちゃんは繰り返した。
たぶん、自分に言い聞かせていたのだろう。
「どうしよう」
ずっと、一人で不安と戦っていた僕は、何かしゃべらずにはいられなかった。
「どうしよう。大丈夫かな。大丈夫だよね」
よく覚えていないけど、僕はそんなことばかり呟いていたような気がする。
ミキちゃんが何か言っていたけど、それは右から左で、全然頭に入ってこなかった。
頭が真っ白になっていて、いろんなことが欠落してしまっていた。
重苦しい雰囲気のまま、二人でソファーに座っていると稲森監督がやってきた。
「新見は?」
「……」
返事ができなかった。
監督はそれ以上聞かずに、帽子を脱いで、だけど落ち着きなくすぐにかぶり直した。
家族の人は3時間ぐらいかかるらしい。
たぶん…、いや絶対大丈夫だと思うけど、一刻も早く来てほしいと思った。
とにかくもう不安で押しつぶされそうだった。
「あ…」
またしばらく待っていると、処置室のほうから若い医師が出てくる。
その後ろから、新見が乗せられたストレッチャーを看護婦さんが運んできた。
慌てて立ち上がって覗き込むと、新見はうつろな目で僕たちを見た。
いつもの笑顔はなかったけど、意識はあった。
(ああ…)
安心して、腰を抜かしそうになる。
神様に感謝することなど忘れ、数歩、僕はストレッチャーに近付いた。
「だ、大丈夫?」
「うん…」
いや、大丈夫なわけがない。
顔に大きなばんそうこうが貼られていて、頭と左腕に包帯がぐるぐる巻かれている。
左足もだ。
見るも無残な姿だった。
泣きそうだ。
僕のほうが、泣きそうだった。
「星島君」
だけど、僕とミキちゃんを見ると、新見は笑顔を見せた。
辛うじて動かせる右手を持ち上げて、小指を立ててみせる。
「約束だよ」
「あ…、うん」
この状況で、笑顔で、そんなことを言う。
思わず、目頭が熱くなった。
しかし、新見の笑顔はそこまでだった。
稲森監督の顔を見ると自然と涙が溢れ、頬を伝った。
「監督、ごめんなさい…」
監督は、黙ってぐっと帽子を下げた。その表情を見ることはできなかった。
すぐに新見がどこかへ運ばれていって、若い医師が状況の説明をしてくれた。
全治、4カ月。
左腕の上腕骨と尺骨の複雑骨折。
左足の脛骨骨折。
筋肉や腱の損傷、打撲や裂傷も認められる。
肋骨も数本、折れているらしい。
とっさに、頭部をかばったのて何とか無事だったようだが、かばった腕が折れていることを考えると、それがなければ命も危なかったと医師は説明した。
「普通なら死んでいた」とはっきり医師が言って、僕はまたぞっとした。
新見だから、助かったのだ。
ぎりぎりのところで、新見は自分自身を救った。
それだけでも、アスリートとして身体を鍛えてきた意味はある。
そう思わないと、救われなかった…。
「じっくり治していきましょう」
簡潔に、医師は言った。
また、走れるようになるのだろうか。
競技復帰できるのだろうか。
僕たちに言うべきことではないのか、聞かれなかったから答えなかったのか。
それとも現時点ではまだ分からないのか、あるいはもう絶望的なのか。
医師はこれからのことは何も話してくれなかった。
「ふう…」
大きく深く息を吐くと、稲森監督があごひげをさすりながら僕とミキちゃんを見た。
3人ともそれぞれ、疲れきった表情だった。
「お前らは帰れ。ご両親がおいでになるまではおれがいる」
「あ、でも…」
「ちょっと、一人にさせろ」
帽子をかぶり直し、監督はどすんとソファーに座った。
頭がろくすっぽ回転していないこともあって、そのままぼんやり立っていると、ミキちゃんにひじを引っ張られる。
「帰りましょう」
「あ…、うん」
やっと頷いて、僕はミキちゃんに連れられるようにして病院をあとにした。
雪はまだ、静かに降り続いていた。
このまますべてを覆い尽くしてしまってほしい。
罪悪感を消してほしい。
僕は、そう願った。
もう、とにかく疲れた。
足を引きずるようにして歩いていく。
ミキちゃんもずっと黙りこくっていて、ちらりと見ると青い顔のままだった。
「大丈夫?」
声をかけてみたけど、ミキちゃんは黙って頷いただけだった。
「そっか」
「星島君こそ大丈夫?」
「おれは…、泣きそう」
「いいわよ。泣いたって」
僕は、何もできなかった。
それどころか、僕がいなければこんなことにはならなかった。
僕が事故に遭わせてしまった。
悲しくて申し訳なくて、とにかくいたたまれなかった。
時間を巻き戻してくれるなら、もう本当に、悪魔に魂を捧げてもいいと思った。
「ミキちゃん」
「何?」
「こんなときに言うことじゃないと思うけど」
「何よ」
「おれ、ミキちゃんが好きだ」
本当、こんなときに言う言葉じゃないと思った。でも、新見との約束だった。
今、言わなければきっと一生言えないだろうと思った。
不思議だったけど、非日常だからこそ、言えたのかもしれない。
「何て言えばいいのか分からないけど、ミキちゃんのこと守ってあげたいと思って。守らせて欲しいっていうか、守りたいっていうか」
ミキちゃんは無言だった。
恐る恐る隣を見ると、ミキちゃんも僕を見て、目が合った瞬間に急いでそらした。
「わ、悪いけど…」
「ん?」
「星島君に守ってもらおうとは思ってないから」
それが、ミキちゃんの答えだった。
「うん。そっか。そうだよね…」
僕は新見を守れなかった。
もう答えなんか出てるじゃないか。
僕にそんなことを言える資格などないのだ。
それきり、絹山駅に着くまで、僕たちは一言も会話をしなかった。
たぶん、こんな日はもう人生で何度もないだろう。
ミキちゃんと駅で別れて、雪の中、一人でトボトボと歩いていると、不覚にもぽろりと涙がこぼれた。
何だかいろいろなことが頭の中でぐるぐるして、とにかくもう、涙が溢れたのだった。




