第43話 想像と現実
10月に入っても、村上道場のメンバーはフォーム改造に取り組み続けた。
僕は、今シーズンはもう大きなレースはない。
だからじっくり練習に取り組むには最適だ。
でも、来シーズンまでろくすっぽ試合がないのはさすがに寂しい。
試合がないと、モチベーションが維持できない。
練習前、ミキちゃんが暇そうにしていたので、そんなことをつらつらと述べてみた。
要するに、どこかの記録会に出てみたいなあという話だ。
「記録会ねえ」
ミキちゃんは眉毛を持ち上げたけど、怒るでもなく、じっと僕を見つめた。
「今出てもどうせタイムなんて出ないと思うけど」
ミキちゃんはまたそういう言い方をする。
ひどい言い草だけど、腹が立つ以上に悲しくなった。
毎日一緒に練習して半年くらいになるというのに、未だにこんなことを言われてしまう。
ミキちゃんにとって僕は遠い他人かもしれないけど、僕にとってはそうじゃない。
そうじゃないのだ…。
「そうだけど、やっぱ目標がないと」
「ふうん…」
記録会とはどういうものか。
例えば、姉妹校の城南大学では毎年3回ほど記録会をやっている。
参加費は千円。
城南大学の人間でなくても、陸連に選手登録していれば誰でも参加可能だ。
細かい要綱は、記録会ごとに違う。
中学生以上だとか、28歳以下に限るとか、県内在住の選手限定だとか。
春先に僕が参加した南関東大学記録会も、関東の大学生に限って行われた記録会だ。
そして一番大事なことだが、タイムは電気計時で計測され、記録は公認される。
選手たちは、こういう記録会やあちこちの小さな大会に参加していって、調整がてら、関カレやインカレの参加標準記録の突破を狙うわけだ。
トップの選手は、大きな招待レースや海外のレースもちょいちょい入ってくる。
でも、僕風情だと記録会が中心だ。
「それより、4年生がいなくなるんだから考えなきゃいけないことあるでしょ」
「え。納会?」
「4K」
「4Kか」
語感はどことなく似てるけど全然違った。
4Kとは、4×100mリレーのことだ。
正確には、4継なのかもしれない。
だけど僕の中では、ヨンケイといわれたら4Kと変換される。
その、4Kのレギュラーメンバーは柏木さん、藤山さん、菊地さん、高柳さんだ。
来年は高柳さんしか残らないことになる。
そうなってくると僕にもメンバーに選ばれるチャンスがあるわけだ。
「でも、みんな速いからなあ」
来年の4Kのメンバーを想定すると、現3年生では高柳さんと荒川陽次さんがほぼ確定。
僕のライバルになりそうなのは…、まあ全員なんだけどね。
2年生の横井勇、十文字仁、1年生の本間秀二あたりが最大のライバルだろうか。
全員、10秒50以下の自己ベストを持っている。
ほかの大学に行けばエースか準エースクラスの選手として活躍できる面々だ。
そんな人たちがなんでわざわざ集まってきたのか。
本当、困るのだ…。
「関カレは5月でしょ。まだ時間あるじゃない」
「関カレかあ…」
「日本選手権だって出れたじゃない」
「あれ、派手にまぐれのような気がするなあ。追参ぎりぎりだったし」
「運も実力のうちって言ってなかった?」
「いつ?」
「日本選手権のとき」
「そんなこと言ったっけ?」
まるで覚えていない。
だけどミキちゃんの眉が持ち上がったのを見て、僕は慌てて訂正した。
「あ、言った。そういえば。言いました」
覚えてないけど、この際どうでもいい。
どうせ僕のことだから忘れているだけだろう。
「まあ私は別にどうでもいいんだけどね」
「うん。ごめんなさい…」
関カレやインカレは、一つの大学から同一種目には3人までしかエントリーできない。
だから4月頭に行われる部内春季トライアルの結果で決めるわけだが、競争は激しそうだ。
正直、現時点では高柳さんや荒川さんには勝てる気がしない。
だけどほかの選手には頑張って追いついていきたい。
特に、後輩の本間君には負けたくないと思った。
「おはよーっす」
「おいっす」
織田君が来たので、ミキちゃんに説教をされる前に逃げ出して一緒にアップをする。
今日は天気がいまいち。
灰褐色の空模様だけ見ると雨が降りそうな感じだったけど、降水確率は0%らしい。
ただし、明日以降、雨になるようだ。
「明日は筋トレっすかね」
「そうだなあ」
「嫌っすねえ…」
「そうだなあ…」
いや、別に、織田君も僕も筋トレが嫌いなわけではない。
けっして好きではないし、ものすごく疲れるけど、嫌いではない。
ただ、雨が降るとみんなトレーニングルームに集まるので、芋洗い状態になるのだ。
談話室も腕立て腹筋をする選手で埋まるので、場所の確保をするのが面倒なのである。
「冬は、どうしてるんすか」
織田君に聞かれる。
「いや、このへんはほとんど雪降らないよ」
答えると、織田君は少し驚いた様子だった。
「そうなんすか?」
「去年は1回だけ積もったかな。10センチくらい」
「へえ。楽でいいっすね」
僕と織田君の故郷の仲浜は、冬はそれほど寒くないかわりに雪がわりと多い。
50センチくらい降るときもあるし、真冬はずっと雪が残っている状況だ。
「じゃあ、雪かき筋トレはないんすね」
「ないない。大して寒くないから手袋もいらない」
「へえ!」
織田君が驚く。
そうなのだ。
絹山では、手袋2枚重ねなどまったく不要なのだ。
「あと、絹山にはクリスマスとバレンタインが伝来してないらしい」
「それは嘘っすね」
「うむ」
「まあ伝来してても関係ないすけどね…」
「なあ…」
その後、三々五々メンバーが集まってきて短距離全員で全体練習。
いつもどおりだ。
それから個人練習に移り、村上道場のメンバーが集合する。
真帆ちゃんはいないけど勢ぞろいだ。
別に示し合わせて集まるわけではないが、不良が体育館の裏に集まるような感じかな。
「タイムとってみる?」
ミキちゃんの言葉に、僕は少し首を捻った。
今まで、練習でちゃんとタイムをとるなんてことはなかったのだ。
スタート練習の一環で、30mや50mのポイントでタイムを計ることはよくある。
でも、きちんと100mを計測するのは2カ月ぶりぐらいかもしれない。
「どうするの?」
「あ、とりたい」
「そう。じゃあ星島君と橋本君」
「あ、おれもとりたいっす」
「悪いけど織田君は一人で走って」
「わたしも…」
加奈も、手を挙げかけたけどミキちゃんは目の端でちらっと睨んだだけだった。
「前原さんはまだいいわ」
「え。ど、どうしてですか」
「いいから、黙って言われたとおり練習しなさい」
さすがに、このセリフには背筋がひやっとした。
一同、静まり返る。
加奈は、顔を真っ赤にしてその場に突っ立っていたけど、やがて目に涙を浮かべてその場を走り去った。
「……」
みんな、言葉を失って立ち尽くす。
だけどミキちゃんはひょうひょうとした表情で、詩織ちゃんを呼ぶと準備を始めた。
スタートライン後方にスピーカーを置き、ピストルとケーブルでつなぐ。
要するに試合で使うものと同じだと思っていただければいい。
詩織ちゃんが計測機を準備してゴールに向かって、僕と聡志はスターティングブロックを調整する。
だけどどうにも我慢できなかったので、ちょっと息を整えてから、遠慮がちに言ってみた。
「ミキちゃん、さっきのさ」
僕が言わなければ誰も言えないだろうし、また陰口を叩かれるに決まってる。
「ああいう言い方、よくないと思うな」
「え?」
「いや、いくら加奈だって傷つくと思うから」
「そうね。あとで謝っておくわ」
ミキちゃんがあっさりと言って、僕はそれ以上何も言えなくなった。
だけど反省している顔ではなくて、電子ピストルの電源を入れると僕たちを見回す。
それが何となく面白くない。
口だけの謝罪のような気がして、何となく面白くないのだ。
「準備はいい?」
「うん」
「橋本君は?」
「OK」
「じゃあ、位置について」
面白くない。面白くない!
だけど、努めて気分を変えて、僕はスタートラインに手を沿えた。
秋の風が徐々に近付いてきて、僕たちの肌を撫でていった。
それで少し僕は落ち着いた。
いいタイムを出して、ミキちゃんをぎゃふんと言わせてやろうと思った。
大体、毎度毎度、上から目線なのが気に入らない。
正論なのかもしれないが、ものの言い方というのがあるじゃないか。
不器用なのは分かるけど、それにしたって…。
「用意」
電子音が鳴って、僕の細胞は瞬間的に反応した。
がちゃんとスターティングブロックを蹴り上げる。
僕の足は体を前方へ押し出し、そしてまた振り上がりタータンをとらえていった。
悪くない動きだと思った。
今の時期にタイムは出ないよだなんてミキちゃんは言ってたけど、そんなことはない。
調子だって悪くないはずだ。
タイムだって出るはずだ。
それを、証明してみせようとして、力が入ったわけではないと思う。
だけど、調子は悪くないはずなのに、意外と伸びなくて、中盤まで聡志とほぼ互角だった。
後半、じわじわと離されていって、ゴールしたときには1m以上聡志に負けていた。
「橋本さん、10秒52、星島さん、10秒68」
詩織ちゃんがタイムを読み上げる。
それが、僕の現在のスプリント能力だった。




