第3話 チュニジアとロシア
あからさまに晴れた翌日の午後。
ミキちゃんは相当、おかんむりのようだった。
「星島君。この子引き取って」
講義を終えた僕がまだ部員もまばらなトラックに顔を出すと、ジーンズ姿の前原加奈を連れてやってきて、彼女の背中をどんと突き飛ばしたのだ。
予想どおりというか、やはり何かしでかしてしまったらしい。
ミキちゃんの眉が、垂直になるんじゃないかと思うぐらいになっている。
「ど、どうしたの?」
聞いてみると、ミキちゃんはふんと鼻を鳴らした。
「仕事なら教えるけど、常識は無理」
「何かやっちゃった?」
加奈に聞いてみたけど、しょぼんとうなだれているだけだった。
大女だけに可愛げがないところが、逆に可愛らしい。
「コールドスプレー買ってきてって頼んだのよ」
ミキちゃんの言葉に、僕はぽんと手を叩いた。
「分かった。金のスプレー買ってきたんだ!」
言うと、すさまじい眼光でぎろりと睨まれる。
違うんです。
面白いと思って言ったわけじゃないんです。
単に雰囲気を和らげようと思っただけなんです…。
「す、すいません…」
「ちゃんと説明したわよ。お店の場所教えて、空の缶渡して、これ3つ買ってきてって」
「うん。それなら間違いようないんじゃない?」
「そしたらこの子、段ボールで3つ買ってきたの」
「段ボール」
「10本入りが1ダース入ってるやつ」
「それを、3箱?」
「そう」
「え…、じゃあ、360本?」
「そう」
それはさすがに想定の斜め上だ。
問屋じゃあるまいし…。
「在庫ないから、お店の人に頼んでメーカーに注文してもらったんですって」
ミキちゃんが言うと、しょぼんとしたまま、加奈がぶつぶつ言いわけした。
「だって、チュニジアでは全部段ボール単位だったんだもん…」
「ジャージの洗濯頼んだら漂白剤入れちゃうし」
「だって、チュニジアには漂白剤なんてなかったんだもん…」
「ピットの整地頼んだら、全部掘り起こすし」
「だって、チュニジアで整地っていったら耕すことだもん…」
ミキちゃんは加奈をぎろりと睨みつけた。
「ここはチュニジアじゃなくて日本なの。お分かり?」
困ったものだ。
悪気がないから仕方ないのだが、ミキちゃんの言うとおり、だからこそ始末が悪い。
20年近く培ってきた常識を変えさせるのは大仕事だ。
「えと。チュニジアって、アフリカの?」
とりあえず、一番気になる点を尋ねてみると、ミキちゃんにまた睨まれた。
「それ以外に何があるのよ」
「ですよね…」
チュニジアでもコールドスプレーは1本ずつ売っているだろう。
漂白剤がないはずがない。
グラウンドキーパーくらいいるはずだけど…。
「とにかく、この子、クビだから」
「なんとかならないかな」
「無理」
端的に、ミキちゃんは言った。
取り付くアレもなさそうだったけど、コールドスプレーを何百本も注文されてジャージの色がどろどろになったら、仕方のないことなのかもしれない。
しかも、トラックに畑ができて、トウモロコシでも植えられてしまったら大変だ。
夏の収穫はちょっと楽しみだけど、農薬を散布するのか無農薬にするのか、
肥料を買うとしたらJAの営農職員に相談しなきゃいけないとか、いろいろ問題が出てくるからだ。
(うーん…)
それは冗談だけど…、あまり面白くない冗談だけども。
とりあえず、それ以上かける言葉が見つからないので僕は黙っていた。
加奈はずっとうなだれていたけど、やっとお説教が終わったと思ったのか、ちらりと顔を上げてミキちゃんを見た。
僕を見て、それからまたミキちゃんを見て、おそるおそる手を挙げる。
「あの、じゃあ、普通に入るっていうのは…?」
「え?」
「あの、だから、選手として?」
加奈の言葉に、ミキちゃんは眉毛を片方だけ下ろした。
怒るより先に呆れてしまったらしい。
「ふざけてるわけ?」
ミキちゃんの口調に、加奈は慌てて首をぶんぶん振った。
「い、いたって真剣です」
「経験は?」
「ありません」
ミキちゃんはじろっと彼女を睨みつけたけど、オールカマーのクラブだから拒否するわけにもいかない。
そんな権限はミキちゃんにはないのだ。
それに、入部試験なんかがあったら僕も困る。
落ちる可能性のほうが高いのだ…。
「勝手にすれば」
ミキちゃんはぷいっと背中を向けて離れていった。
進行方向にいた長距離の選手が、ミキちゃんの顔を見てささっと避ける。
背中から、怒気のようなものが立ち上っているように見えた。
しばらくその姿を見送ったあと、加奈は僕を見て照れくさそうにえへへと笑った。
「のぞむくん、よろしくね」
「うん…」
「今日から参加していいのかな?」
「いいけど」
「じゃあ、準備してくるね!」
言い放つと、加奈はバタバタと駆けていった。
それと入れ代わりに、橋本聡志が何かわめきながらバタバタと走ってきた。
橋本聡志は、僕と同じく100mの選手だ。
同じ学年でレベルも同程度ということもあって、けっこう仲良くしている。
運動部のくせに肌が真っ白で、グレーっぽい瞳で鼻も高いのでロシア人のように見えるが、両親とも純粋な日本人らしい。
「星島ーっ!」
「はいはい、何ですか」
どうして皆、僕に大人しく練習をさせてくれないのだろうか。
とにかく何だかとても慌ただしい。
「見ろよこれ!」
「これって?」
「これだよこれ!」
ボロきれを振り回しながら大騒ぎする。
「なんだそれ。ロシア国旗?」
「ジャージだよ!オレの!これ気にいってたやつなのに!てかロシア人じゃないっての!」
聡志は興奮気味にまくし立て、かつてはジャージだった物体をぐいっと突き出す。
ほかの大学はどうか知らないが、練習時には部のジャージ以外のものを着ることが許されていて、みんなそれぞれ何着か持っている。
その中の1着が駄目になったということらしい。
「どうしてくれるんだよ、これ!」
「おれに言うなよ」
「監督不行届だろ!」
「んー。それはミキちゃんに言うべきことだな」
ミキちゃんの名前を出すと、聡志はその場で固まった。
そして、黙ってきびすを返すと、すごすごと戻っていった。
ミキちゃんには、ロシア人といえどもかなわないのだ…。