第22話 風説の流布
6月もあっという間に過ぎていって、日本選手権まで残り1週間となった。
結局、うちから男子100mにエントリーしたのは、4名。
4年生の前キャプテン柏木和文。
3年生の残念キャプテン高柳智之。
日本記録保持者・本間隆一の実弟、1年生の本間秀二。
それから神速の貴公子、仲浜の馬謖など、さまざまな異名を持つ星島望だ。
交通費も宿泊費もばかにならないので、予選突破が目標である。
トップクラスのアスリートと本気で走ったことは度もないので、経験を積むことも大事だ。
大観衆の中で走るのも初めてだし、とにかく何事も勉強だ。
「あーあ。おれも出たかったなあ…」
昼。
混み合う学食で会ったとき、聡志はまだぼやいていた。
南関東大学記録会のあと、聡志は横浜で開催された記録会にも出場。
しかし、標準Bにも届かない10秒74。
低い気温と向かい風1.0mのコンディションだったが、低調な記録だった。
ちなみに一緒に出た僕は10秒69。
まあ、似たようなものだ。
所詮はエセ貴公子…。
「まあ、結果は結果だからしょうがないな」
「ちぇっ。まぐれだったくせに」
聡志はそんなふうにぼやいた。
紙パックのコーヒーを飲み終えて、ストローをくわえてぴこぴこさせている。
「今日から、星島まぐれって呼ぶことにする!」
また異名が一つ増えてしまった。
「ロシアと違って、日本では、運も実力のうちって幼稚園のころに教わるんだよう」
「そのくらい、おれだって教わったよ!」
「ふーん。どこ幼稚園?」
「よ…、つ、ツンドラ幼稚園」
「検索しても絶対ヒットしないような幼稚園名だ…」
「今はないんだよ!氷河の下に埋もれてるからな!」
「じゃあいつ通ってたんだ」
「氷河期の前だよ!」
「そりゃまたずいぶん昔の話で」
「そりゃ、つまり、あれだ。バブルが弾けたあとだよ」
「バブル?」
「だから、就職氷河期に…」
「誰がうまいことまとめろと言った」
「ふふん…!」
偉そうな聡志。
だけどすぐにバシバシとテーブルを叩いた。
「鼻は高いけどロシア人じゃねーよ!」
「サトルも本格的に村上道場に入門すれば?」
「スルーか…」
聡志はがくんと肩を落とした。
「いや意味分からんから」
「今、鼻高々だったろ。だから…、その…、すみませんでした」
「おう。分かればよろしい」
「お。噂をすれば」
ミキちゃんの姿が学食の入口に見えた。
やはり友達がいないのだろう、一人でご飯を食べるようだった。
聡志によれば、いつもそんな感じらしい。
同情というわけじゃないけど、何だかちょっと気の毒に思った。
しばらくミキちゃんの様子を見て、視線を戻すと、聡志がにやにや笑っていた。
「なんだよ」
「別にィ。ああ、おれもう行くから」
「あ、じゃあおれも」
「いいよいいよ、お前はゆっくりしてけ」
妙な気の利かせ方をして、聡志はさっさと学食を出ていった。
別にそんなんじゃないって言ったのに。
何となく頭に来たけど、僕の視線はずっとミキちゃんの姿を追っていた。
ミキちゃんは、学食の隅のほうに歩いていって、周りに人がいないところを選んで座った。
しばらく、どうしようか考えて、それから意を決して僕は立ち上がった。
混雑の中、歩いていって「おっすおっす」と声をかけ、ミキちゃんの正面に座る。
ミキちゃんはちらりと僕を見たけど頷いただけで何も言わず、野菜炒め定食を食べ始めた。
食べ方がすごく上品だった。
コーラを飲みながら、僕はミキちゃんの食事風景を黙って見つめていた。
お互い、何も言わずに黙っていたけど、やがてミキちゃんはちろりと僕を見た。
眉毛がちょっとだけ不機嫌モードになっている。
「あんまりじろじろ見ないでよ」
第一声がそれだった。
そりゃ、失礼しましたけど、そういう言い方はないよね。
友達ができないのも無理はない。
思ったんだけど、ちゃんと就職とかできるんだろうか。
僕も人のことはいえないけど、ちょっと心配だ。
接客業なんか無理だろうし、そもそも職場で完全に孤立してしまうに違いない。
いや、それ以前に面接でアウトだろう。
「練習は?」
「あ、うん。もうちょっとしてから」
「…いつもそんなの飲んでるの?」
ほんのちょっとの沈黙のあと、ミキちゃんはそんなことを言った。
嫌な予感がする。
「むん?」
「炭酸ばっか飲んでないで、少しは気を遣ったら?」
母親みたいな物言いだが、それだけ、気にかけてくれているのかな…?
「栄養管理とかしてるの?」
「ううん」
「全然?」
「ええと…、全然というか…、全然、です…」
正直に答えると、ぐいっと眉毛を持ち上げる。
「大体、アスリートとしての自覚が足りないのよね」
「すみません…」
「食事はどうしてるの?」
「いつもは、スーパーの弁当とか」
「カップラーメンとか?」
「ハイ」
「料理はしないの?」
「さっぱり」
「呆れた…」
ちょっと大げさな気もするけど、確かに言いたいことは分かる。
だけど、できないものはできないんだから仕方がない。
卵焼きすらろくに焼けないのだ。
目玉焼きを焼こうとしても、毎回、スクランブルエッグになってしまう。
それじゃあ茹で卵をつくろうと思うと、今度はあれですよ。
茹でて冷水に付けて、皮をむこうとすると、なかなか薄皮がむけない。
それでやっと皮をむいて食べようとすると、中身がなんか片方に寄ってる。
黄身だけ半熟。
半熟卵は好きだけど、黄身だけ半熟はちょっと悲しい。
とにかく、僕の料理の腕前はそんなもの。
そりゃ、僕だって、バランスがよくて美味しい食事ができればと思うけど…。
「あ、そうだ」
閃いた。
「ミキちゃんがつくってくれたらうれしいな」
「え?」
「ミキちゃん、料理すごい上手だし。それに言いだしっぺでもあるわけで— .」
調子に乗りすぎたらしい。
言い終わらないうちにものすごい勢いで睨まれて、僕は口をつぐんだ。
防衛本能というやつだった。
「な、何でもありません…」
「自分で、どうにかしなさい」
「はい…」
万事、この調子だから、彼氏なんかできないんじゃないかなあとも思った。
年をとったら丸くなるのだろうか…。
ミキちゃんが食べ終えるのを待って、一緒に学食を出る。
当然、ミキちゃんは午後にも講義があるらしい。
僕も本当はあるんだけど、ないことにして、そのままトラックへと向かった。
すっかり梅雨の季節だが、今日は珍しく快晴だった。
「げ。星島君、おはよ」
トラックへの階段を下りていくと、水飲み場のところに知香ちゃんがいた。
新見と仲のいい、ハイジャンプの2年生。
例のほら、秋田出身のナニワのあきんどだ。
両手で変な、バリアを張るみたいなポーズをする。
なぜか、ちょっと嫌そうな顔だ。
「げって何さ、げって」
「だって星島君、トレパンフェチなんでしょ」
ああ。
そんな異名は嫌だ…。
「違います。そんなんじゃありません」
「なんだ。トレパンはいてるから押し倒されるかと思った」
「たとえフェチでも押し倒さないから」
「え、やっぱフェチなの?」
「違うって!」
何だ、この会話。
というか杏子さん、頼むから変な噂流さないでください…。




