第195話 夢を追う人
ぎしりと、急に身体が硬くなったような感じがする。
そして若干、重い。
何度か大きく深呼吸したが効果はなかった。
これまでいろいろな人に背負わされてきたものが、急に僕の身体に圧しかかってきた。
今まで散々バカにしてきたけど、加奈の気分がようやく分かった。
(落ち着け、大丈夫)
そう思うこと自体が、既に逆効果だった。
息を吐きながら軽く身体を動かしてみたけど、まるで自分の身体ではないかのようだった。
どうやって走るのか、どうやって身体を動かせばいいのか。
そのプログラムが全部消えてしまったような気がした。
身体が、ものすごく重い。
普段は意識していないのに、重力がものすごく感じられる。
それなのに、気持ちだけがふわふわと浮いてしまっている。
こんな状態でまともに走れるわけがない。
「on your mark」
思案がまとまらないまま、促される。
今さら思案も何もないのだが、落ち着くまでもう少し時間が欲しかった。
わざとゆっくり動いて、スターティングブロックに付くのを遅らせてみる。
でもそれはせいぜい1秒か2秒で、まったくもって焼け石に水だった。
そのときの僕の頭の中は、真っ白だった。
それも、悪い意味で真っ白だ。
(やべ、やべ)
こういうとき、どうすればいいか。
そんなこと、今まで考えたこともなかった。
ミキちゃんに聞いておけばよかったと思った。
頭の中がぐるぐるして、ミキちゃんにふられたときみたいだとも思った。
こんなときにそんなことを考えている時点でもう駄目なんだなとも思った。
そのとき。
天啓が、舞い降りた。
「ぱっと手挙げて仕切り直せばいいんだけどね」
いつだったのか。
何の大会だったのかはまるで覚えていないが、確かあれは国立競技場の待機場所。
そこで、確かに新見がそんなことを言っていた。
口調やアクセントまではっきり覚えていて、まるで、耳元で再生されたかのようだった。
すべては、この瞬間のために。
僕の記憶力は、力を蓄えていたのかもしれなかった。
「set」
その声と、僕が手を挙げたのが、ほぼ同時だった。
「…stand up」
スタジアム全体が、弛緩したのが分かる。
何人かの選手が軽く飛び出すと、係員が来て、どうかしたのかと僕を覗き込んだ。
「くしゃみ。出そうでした。虫のせいで。大丈夫、オーケー」
言い訳がいまいちだったが、係員は何も言わずに戻っていった。
(新見…、ありがとう)
静かに感謝しながら、息を吐いて、ほかの選手が戻ってくるのを待つ。
空いている隣のレーンを見て、僕は大きく息を吸って、またゆっくり吐いた。
「のぞむくーんっ!」
どこからか、加奈の声が聞こえてくる。
そうだ。
加奈に言ったセリフじゃないが、駄目でもともとだ。
舞台は、世界陸上の準決勝。
世界大会自体、初出場の選手。
22歳の日本人。
ベストタイムは10秒13。
きっと世界中の誰もが、僕になんか注目していないに違いない。
みんなの視線はガードナーに向いている。
そう思ったら、肩が軽くなった。
(加奈、ありがとう…)
感謝して、スタンドをちらりと見る。
ざわめきにもう加奈の声は聞こえなかったが、確かにそこにいるのを感じた。
「on your mark」
三度目のスタート。
いつものように軽くはねて、それからスタートラインに向かう。
ゴールラインを見て、それから手を付いてスターティングブロックに両足を乗せる。
再度、ゴールラインを見るいつものルーチン。
いつもより、ゴールラインが近くに見えたのは…、気のせいだったかもしれない。
「set」
号砲。
1回目のスタートと同様、反応は最高だった。
軸をつくって飛び出す。
加速、加速、加速だ。
骨盤がよく動いているような気がした。
ローギアでぐいぐい加速していって、引っ張って引っ張って、ぱっとギアを入れ替えてセカンド。
身体が浮かないようにしっかりと軸をつくり、二段ロケットのように加速していく。
一気に、トップスピードへ疾走していって、そこでようやく視界が開け始めた。
身体が起きて、タータンの反発力を推進力に変えていく。
ドライブから骨盤の真下に着地してスイング。
足を真下に叩きつければ、当然真上に反発力が発生する。
しかし、実際には慣性の法則で前方に進む。
ボールを斜め前の地面に投げたときのような感じだ。
中盤、リズムを重視したスプリントへ。
腰を浮かさないように、右足と左足をタイミングよくスイングさせてドライブさせる。
ハムストリングスを爆発させ、最高速を維持する。
外側からガードナーが出てきたが、それはまあどうでもいい。
僕はただ、まっすぐ前へ前へと進むだけだ。
この3年間で培った技術で、僕と、そして僕の愛する人たちのために。
(ミキちゃん。ありがとう…)
あのころ。
全中で優勝し、中学歴代8位の記録を出し、世界大会に出る夢を持っていた、あのころ。
あのころの僕が持っていた、将来の星島望のイメージ。
それが、僕のわずか前方を走っていた。
懸命に、それを追いかけて。
そしてやっと、それが今の自分に重なって。
一気に追い越そうとした瞬間、そこがもうゴールだった。
「……っ!」
歓声が、聞こえてくる。
反射的に速報タイムを確認すると、先頭のガードナーが9秒91を出していた。
惰性で走っていって、停止し、大きく息を吐く。
拍手の中、1レーンの選手と軽く握手して、ゴール地点に戻っていく。
着順はよく分からないが、あまり気にならなかった。
やりきった。
それだけだった。
今、僕の持っているものは、すべて、レーンに置いてきた。
やり残したことは、何もなかった。
すべて、全部出せたと思った。
かわいいおさげの女の子からスポーツドリンクを受け取って、ミックスゾーンに向かう。
まだ着順が上がっていないらしい。
立ち止まって、ゆっくりスポーツドリンクを飲む。
ほっと一息吐いて見ると、日本のテレビ局の人が一生懸命手招きをしていた。
ごくりと口の中のものを飲み込んで、スポーツドリンクのふたをしめて近寄っていくと、女性リポーターにマイクを向けられる。
いつもこの瞬間が、一番緊張するのだ。
「星島さん、3着でした!」
「あ、3着?」
「10秒04。タイムだと9番目でした!100分の2秒…!」
「あおう…」
思わず変な声を出してしまう。
振り返って電光掲示板を見ると、確かに3着で10秒04だった。
悔しいのと、タイムがよくてうれしいのと、びっくりしたのと。
とにかく複雑な気分だったが、僕は意外と冷静だった。
それにしても、一生懸命手招きしていたから、ひょっとしてと思ったのに。
僕は思わず苦笑した。
「いや、でも、いい走りはできたと思います。収穫はありました」
「同じ大学の、新見さんや前原さんに刺激を受けたんじゃないですか」
「そうですね」
何かいいことを言おうと、一瞬思ったが、結局、僕は素直に言った。
「自分一人で走ってるんじゃないってことを、初めて実感できた気がします」
ありきたりのセリフだ。
ありきたりのセリフだが、素直に、本当に素直に、僕はそう思った。