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対角線に薫る風  作者: KENZIE
194/206

第194話 男子100m準決勝

時間が迫ってきて、アップのペースを上げていく。


テレビ局の人に声をかけられたり、様子を見にきた本間さんや後藤さんとおしゃべり。

コールの時間がやってくる。

何かもう、ものすごく長いような気もしたけど、やっぱりあっという間だった。


杏子さんは僕の30分くらいあとなので、ハードに身体を動かしていた。

その横を、キングダム・テイラーが歩いていく。

世界記録保持者。

第1組なので、もうスタジアムに向かうようだ。


今はまだ、静かな世界。

サブトラックに、小さく風が吹く。

いよいよ、男子100mの準決勝が始まろうとしている。

僕もあと、10分ぐらいだ。

落ち着きなく体を動かすのを、稲森監督が腕組みをしながらじっと見ていた。


「そろそろか」


「はい」


そして、運命の時間。

出番だった。


「星島、頑張って」


「うす」


18時20分。

杏子さんの声援を背に、僕はバッグを担いで競技場へと向かった。

監督と別れて招集所へ。

どきどきしながらコールを受けて、小さな部屋で自分の出番を待つ。


アメリカの若武者ギルバート・ガードナーがすぐ近くにいて、目を閉じて瞑想していた。

ドレッドヘアのジャマイカ人、ダミアン・ロドリゲスが声高に誰かとしゃべっている。

フランスのマイケル・アーロンは、ずっと一人でブツブツつぶやいている。

独特な雰囲気の中にたたずむ8人。

この中から、2人しか決勝に残れない。

あとはプラスで拾われるかどうか、といったところだ。


(お)


1組は、世界記録保持者のロジャー・キングダムが制したようだ。

モニターを見ていると、2組はクインシー・ロジャースが1着。

さすがにこの辺は、決勝を外さない。


(よーし)


そしていよいよ。

プラカードを持った係員が呼びにきた。


ぞろぞろと、通路を抜けてトラックに出る。

カメラがあちこちで僕たちの姿を狙っていた。

徐々に視界が開けていって、目に飛び込んできた夜のスタジアム。

いつもより巨大で、そしていつもより迫力があった。


(ふぉーっ…)


見たこともない、すさまじい人の数。

ずうっとバックストレートのほうまで、とにかくびしっと席が埋まっていた。


大きなうねり。

スタジアムの世界観が僕に襲いかかってきて、僕は立ち尽くした。

予選のときとは違って、それは、緊張感を強いる何かだった。


(……っ!)


雰囲気に身震いしながら、レーンの上に出る。

僕は3レーン。

大外じゃなくてよかったけど、今日は右側だけではなく左からも、前後からも視線が刺さっているような気がして、だいぶ緊張した。

夕方の雨に濡れたスタジアムが、やたら他人行儀だった。


(大丈夫大丈夫)


あえて大きく深呼吸をして、それからスターティングブロックを調整する。

軽く飛び出して、ジャマイカのダミアン・ロドリゲスとすれ違うようにして戻ってくる。


スポーツドリンクで口の渇きをとる。

気のせいだろうが、味がとても薄い。

肩を動かして、ジャージを脱いでかごに入れる。

日本代表のユニフォーム姿になると、選手紹介が始まる。


1レーンを空けて、2レーンがスイスのヨハン・オイラー。

30歳のベテランスプリンターで、自己ベストが10秒02。


「ノゾミン・オシジーマっ、ジャプァーンっ!」


3レーンが僕。

カメラが目の前にやってくるが、3レーンでよかった。

外側のレーンだと、カメラが来るのをずっと待っている感じ。

何だかとても緊張してしまうのだ。


4レーンが、好調のダミアン・ロドリゲス。

生粋のジャマイカ人で、200mでは世界歴代2位の記録を持つ。

100mの自己ベストは、9秒71。

こちらは世界歴代3位。


5レーンが、ポニーテールのローランド・バトラー。

9秒台のベストを持つバハマの選手。

バハマは、いわずと知れたカリブ海の陸上王国だ。


6レーンが、アメリカの若武者ギルバート・ガードナー。

まだ21歳。

学年的には僕より1つ下だから、本間君と一緒だ。

世界ジュニア金メダリスト。

ベストタイムは、9秒84。

次の世界のトップを担う逸材だ。


7レーンに、フランスのマイケル・アーロン。

白人で初めて9秒台をマークした選手。

世界大会で決勝にしょっちゅう残っている。

200mでは銅メダルがあったはずだ。


8レーンが、南アフリカのレジー・クリューガー。


そして大外が、ブラジルのアントニオ・ルイス・ダ・シルバ。




「on your mark」




拍手と歓声の中、選手紹介が終わると、もうスタートだった。


2、3度、軽くはねて、それからスタートラインに向かう。

いつもどおりの感じだった。

ゴールラインを見て、それから手を付いてスターティングブロックに足を乗せる。

再度、ゴールラインを見て、それから息を吐いて下を向く。

男子100m準決勝3組。



「set」




号砲とほぼ同時、最高の反応だった。

最初の数歩、ぐっと力を入れて爆発しようとした瞬間、もう一度号砲が鳴らされた。

僕の心臓は止まりそうになった。


フライングだ。


やばい、僕は思った。

僕ではないと思う。

僕ではないと思うが、ちょっと早かったような気がする。

びくびくしながら戻り、スタートライン後方に待機する。


「……」


警告か、失格か。

緊張しながら待っていると、係員が赤い札を持ってきて僕の前に立ち、ぱっと札を挙げた。

失格の札だった。


終わった。


一瞬そう思ったが、係員が赤い札を示していたのは、僕ではなかった。

隣のレーンの選手だ。

3レーン。

ジャマイカのダミアン・ロドリゲスだ。


「……っ」


声にならない声をあげて、ダミアン・ロドリゲスが両手で大きく頭を抱える。

何か言いたそうな顔をして係員のほうを見たが、結局は何を言うでもなかった。

あからさまに肩を落とし、係員に付き添われてしぶしぶトラックをあとにしていった。


(う…)


やばい。

ああなりたくない。

一生に何度も味わえないであろう大舞台で、フライングなどしたくない。


しかし逆に言えば、速い選手が1人消えたわけで、チャンスはチャンスだ。

日本人初のファイナリストになれるかもしれぬ…。


(やべ…)


それまでは無心だった。

しかし、この瞬間にさまざまなものが表面に出てきてしまい、僕の心臓が揺れ始めた。


恐怖と、欲だった。

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