第193話 決戦へ
午後、急激に天気が崩れ、ブリスベンに雨が降り出した。
大粒ではないが、降ったりやんだり、ぐずついたお天気だった。
アフタヌーンセッションまでにはやんで欲しい。
僕らは雨女の新見をベッドに鎮座させ、その前に正座し、加奈に祈祷の踊りを踊らせた。
「雨、やめさせてたまれーっ!」
加奈の日本語が若干おかしいのはともかく。
杏子さんと二人で、ははーっとひれ伏して貢物を奉げる。
「差し入れのおにぎりとから揚げの、余ったやつでございます」
「あたしは、日本から持ってきた、とっておきのチョコスナックでございます」
「うむ。苦しゅうない、望みかなえて使わす!」
ささっと貢物を隠しながら、新見はびしっと窓の外を指差した。
全員が注目するが、そんなすぐに天気が変わるわけがない。
そう思っていたら、5分もたたないうちに雨足が強くなってきた。
雨が地面や窓を叩く音がうるさくて、会話がしづらいくらいだった。
「えーい。チョコ返せ!」
「やだやだやだっ」
杏子さんと新見がじたばたと争う。
だがそれも束の間だった。
たくさん降って満足したのか、空が徐々に明るくなってくる。
1時間くらいすると、雨はすっかりやんでしまった。
新見は得意満面だった。
「ほら、ほら、ほらっ!」
ほっぺたにチョコがついているのが可愛い。
窓を開けて、確認してみたけど、確かにやんでいる。
貢物のおかげか、加奈の祈祷のおかげか、あるいは天の気まぐれか。
「やんだ」
「やんだね」
「おらそんなのやんだ」
例によって、杏子さんに首を絞められる。
ギャグには厳しい…。
「ず、ずみまぜん…」
「うむ。いこか」
「あい」
あまりのんびりしていられない。
僕と杏子さんは準備をして、千晶さんや加納コーチらと一緒にスタジアムに向かった。
決戦の、土曜日だ。
世界のトップが本気になる舞台。
胸を借りるつもりはない。
いいレースをして、星島望ここにありというところを見せたいところだ。
「星島、やるぞ」
杏子さんが、きらきらした強い瞳で、雨に濡れて輝く並木道を見つめていた。
僕も、大きくうなずいた。
「そうだ。やってやりましょう」
「よーし。やるぞ!」
杏子さんが、ぎゅっと拳を突き上げた。
僕もまねて、拳を突き上げて杏子さんに合わせる。
杏子さんはうなずいて、ふんと鼻を鳴らして、のしのしと歩いた。
「あれ。オチは?」
気になったので尋ねてみると、杏子さんはミキちゃんみたいに眉を動かした。
「ん?」
「いや。オチはないのかなって」
「え。ないでしょ。そんなもん…」
「なんだ。つまらん」
「う、うるさいうるさいうるさーいっ!」
じたばたと争う。
今のところ、二人ともリラックスした状態だった。
ブリスベングリーンヒルスタジアムのサブトラック。
顔を出すと、既にたくさんの選手が身体を動かしていた。
男子100mの選手もちらほらいたが、十種競技や女子ロングジャンプの選手、男子800mの選手が主だった。
タータンは、雨で濡れている。
雲は白く、ところどころ青空が透けてみえる。
とりあえずは大丈夫だろう。
このままのコンディションを保ってもらいたい。
「よーし。いくよっ!」
トラックの上に出ると、気合を入れて、杏子さんはぐるんぐるん肩を回した。
おしゃべりしながらトラックの外を歩き、軽くジョグをして体と気分を温めていく。
濡れないようにシートを敷いて、ストレッチ。
杏子さんとじゃれながら、千晶さんが持ってきてくれたドリンクを飲む。
軽めのダッシュとドリル。
また軽くストレッチ、ジョグ。
そうこうしているうちに日が傾きはじめ、徐々に、徐々にではあるが時間が迫ってきた。
準決勝は2着+2の非常に厳しい条件。
当然、世界のトップといえども真剣だ。
ベストタイム9秒台を持っている選手が、容赦なく落とされる。
それが準決勝の舞台。
どんなにあがいても、たったの8人しか残れないのである。
サブトラックの上、あちこちで僕のライバルたちが身体を動かしている。
ジャマイカチームはバックストレートの左。
アメリカチームはその反対側だ。
アメリカチームの中では、やはりギルバート・G・ガードナーの動きがいい。
非常に調子がよさそうだ。
ジャマイカチームではダミアン・ロドリゲスがよく見える。
この2人と同じ組で走るのだが、何というか、とにかくみんな速そうだ。
だってさあ。
ヨーロッパナンバーワンとかさあ。
アフリカナンバーワンとかさあ。
世界一とかさあ。
そんな選手がごろごろ集まってるんだよ。
僕は、日本の3番手なわけで…。
「あと1時間か」
大きく息を吐くと、杏子さんが僕を見た。
「ん?どないした?」
「いや、もうすぐだなって」
「緊張してきたんだ」
「ちょっと」
「よーし。いろいろ揉みほぐしてあげる!」
「いいから」
「あ、そだ、早めに充電!」
どすんとぶつかり、頭をぐりぐりされる。
何というか、最初のころはあんなにドキドキしていたのに、このごろはもう慣れました。