第191話 女子100m予選2組以降
「さー、次だ、次だよ!」
杏子さんがぐっと力を入れる。
続いて2組目に登場した千晶さんにも、もちろん準決勝進出の期待がかかっている。
「山田は、この1年でぐんと伸びましたなあ」
と加納コーチ。
確かに、ぐんぐんとよくなっている感じだ。
「冬場の走り込みがよかったな」
稲森監督がつぶやくと、杏子さんが得意気な顔でぐいっと乗り出した。
「あたしが指導してあげたんだよ!」
「そうか。来年から監督代わるか?」
「ほほーん?」
なぜだか、ちょっとうれしそうな杏子さん。
「ま!やってあげてもいいけどね!」
「よし。じゃあおれがアサミACの社長だな」
「いいけど、借金だらけだよ。大丈夫?」
笑いの中、第2組が始まる。
さあ。
今度は千晶さんだ。
観客席から見ると、一番向こうの2レーン。
初めての世界陸上に、走る大和撫子、山田千晶が登場した。
表情は、落ち着いているだろうか。
半分腰を浮かせて、杏子さんが手を振った。
「ちあきーっ!」
声援は、届いているだろうか。
準備が整って選手紹介が始まった。
「チアキィ・ニャマーダ、ジャパァーンっ!」
大きく、みんなで拍手をする。
大丈夫だ。落ち着いているようだ。
そして。
2レーンの千晶さんの隣、3レーンに彼女はいた。
おなじみの、黄色のユニフォーム。
褐色の弾丸。
女子100m史上、最強と呼ばれている選手。
「クリネスティアーネ・ベッカーっ、ジャメーイカっ」
大きな声援。
チャレンジ陸上以来、千晶さんとは二度目の対決だ。
最高峰は、リラックスした様子で出番を待っている。
さらには、1つあけて5レーンにアメリカの若手選手。
6レーンにはアフリカ最速といわれるナイジェリアの選手がいる。
正直、きつい組だ。
予選の中では一番きつい組だと思う。
「on your mark」
スタジアムが静まっていく。
落ち着きなく、杏子さんが僕の膝を撫でる。
選手たちがスタートラインについて、静止。
ごくんと、杏子さんが息を飲む音が聞こえてくる。
一時停止。
「set」
号砲が鳴って、再生。
世界が動き始め、スプリンターが早送りのように加速していく。
6レーンが速い。
アフリカ最速のナイジェリアの選手。
序盤からぽーんと抜け出して素晴らしい加速を見せつける。
アフリカ系の選手で、スタートから早い選手は珍しい。
7人が追って、中盤、ベッカーがやってくる。
すすすっと前に出て一気に先頭。
ジャマイカのベッカーが抜けた。
それをアメリカとナイジェリア、さらには日本が追う。
千晶さんも悪くない。
千晶さん、脚色がいい!
「うっ、うっ、うっ」
杏子さんが唸る。
離されそうで離されない。
ベッカーは抜けてしまったが、千晶さんが粘る。
わずかにナイジェリアの選手が前に出たが、アメリカの選手と並んでいる。
「ちあきーっ!」
「いけーっ!」
最後、ほんのちょっとだけ先着を許してしまっただろうか。
ベッカーが悠々と一着。
ナイジェリア、アメリカの選手に続いて、千晶さんは4番手でゴールした。
惜しい。
あとほんのちょっとだった…!
「あーっ、Dカップだったら勝ってたのにっ!」
杏子さんがわめいて笑いが起きる。
別にもう1人抜かしても3着なんだけどね。
勝ってないです。
しかし、初めての世界で、堂々たるレースだった。
しばらく待っているとタイムが出たけど、千晶さんは11秒28。
文句なしの、素晴らしいタイムである。
3着のアメリカの選手が11秒26なので、本当にあとちょっとだ。
「あ、Dカップじゃ無理か。Gカップぐらいないと…」
また杏子さんが言ったが、とにかく、千晶さんは素晴らしい走りだった。
大舞台に強いところをいかんなく発揮。
ベストは尽くしたので、あとはプラスで拾われるかどうか。
「結果はともかく、安定してますなあ。タイムにばらつきがないし、大舞台でも臆さない」
と加納コーチ。
千晶さんがお気に入りのようだ。
「前原にも見習ってほしいところだな」
稲森監督が嘆くのも無理はない。
今のところ、手薄なインカレを12秒03の平凡なタイムで優勝しただけ。
そのほかの大きな大会では毎回、着外だ。
プレッシャーで力が発揮できない選手はいるものだが、加奈ほど顕著なのは珍しい。
「ん?何だありゃ?」
その加奈が最終7組に登場すると、加納コーチが変な声をあげた。
「寒いのかな?でもそんなじゃないし?」
目深にかぶったキャップはまあいいが、両手に、分厚い手袋をはめている。
「あれは、サッカーのキーパー用の?」
加納コーチの言葉に、稲森監督が背伸びをして様子をうかがった。
「そうらしいが…」
「なんでまた?」
「キーパーやっていたのは知ってるが、分からん」
稲森監督も首もひねる。
確かに、いつだったか。
PK戦のつもりで駄目もとでいってみろと、アドバイスした記憶がある。
でも、僕の言いたかったのはそういうことじゃない。
何かちょっとはき違えているような気がする。
いや、形から入るのも一つの手か?
「でも、何か落ち着いてますかね」
加納コーチがつぶやく。
確かに。
観察してみると、前の組が終わってトラック上に姿を現しても、加奈はいつものようにガチガチにはなっていなかった。
比較的、リラックスして、スターティングブロックの調整をしている。
しかし、手袋のせいでちょっとやりにくそうだ。
見ているとじれったくなって、さっさと外せと叫びたくなった。
選手紹介が始まって、ようやく加奈は手袋を外して帽子を脱いだ。
大外、8レーン。
電光掲示板に移った加奈の表情は、リラックスしている感じだった。
いや、むしろ、いつになく、きりっと集中しているようにも見える?
「いい感じじゃないですか」
「うむ…」
コーチ陣もそう言って、いよいよ注目のスタート。
加奈が初めて、世界の舞台に立った。
「on your mark」
何か、妙にドキドキする。
加奈と再会してから2年。
あのときは、二人がこんなところにいるとは思ってもみなかった。
趣深いというか、感慨深いというか、とにかくありがとうチュニジア。
「set」
号砲とともに、加奈は電光石火で飛び出した。
あっという間だった。
あっという間に先頭に立つと、加奈は185センチの大きな体をパワフルに使ってぐいぐいと加速していった。
ベッカーのように、爆発的な加速。
10秒台のベストを持つ選手たちでも付いていけていなかった。
後半、誰かが追いすがるかと思ったが、付いてこれる選手はあまりいなかった。
予選とはいえ、まさに独壇場だった。
最後、キョロキョロと左右を確認しながらゴール。
1人に抜かれたけど、3位の選手と並ぶようなフィニッシュだった。
あとで聞いた話によると、一度やってみたかったそうだ。
大外の8レーンで右側は誰も走っていないのだが、そっちのほうまで確認したのはご愛敬。
速報タイム、11秒11。
1が4つ並んだ!けどこれはジャマイカの選手。
加奈は3着で11秒29だったけど、かなり余裕残し。
これは素晴らしい、文句のつけようがない走りだった。
きっちりフィニッシュまで走れば、11秒1台もあるかもしれない…!
「よし!」
珍しく大きな声で、稲森監督は自分のひざを叩いた。
「やっと自分の走りができた」
「やりましたね!」
「やったやった!」
「いいぞーっ!」
できの悪い子ほどかわいいというが、みんなで拍手をする。
応援団は大騒ぎだった。
ライバルは自分を成長させてくれる。
戸川先生が言っていた言葉であり、よく使われるフレーズだが、真理だ。
ほかのスポーツでは見えにくいが、陸上だと記録が残るから明らかである。
一人が壁を突破すると、ほかの選手も次々と壁を突破して、結果、競技レベルが大きく向上することがあるのだ。
それが今、大きく現れているのが女子100mだと思う。
千晶さんがぐっと力を付けて好記録を連発。
新見が復活して日本人初の11秒1台。
真帆ちゃんや、その下の世代にも影響を与えている。
その起爆剤になったのが、加奈ではないだろうか。
「やったよーっ!」
でかい声で、僕らに向かって大きく手を振る加奈。
とにかく、満面の笑みだった。