第186話 男子100m予選
亜由美さんが、でかい仕事をやってのけた。
「おおおーっ!」「やったやった!」「すげえっ…!」
間違いなく、メインスタンドと日本では大騒ぎになっているだろう。
しかし、サブトラックは静かなものだった。
亜由美さん、ダウンに戻ってくるかなと思ったが、なかなか戻ってこない。
インタビュアーに捕まってるのかも。
メダルとっちゃったからね。
世界各国のインタビュアーがいるわけだし。
「やったな、おめでとう」
本間さんに言われる。
おめでとうと言われても、僕がとったわけじゃないんだけど。
まあ、直の先輩なわけだし。
「ど、どうも」
「うほっ、最後の伸びがすごいな」
リプレイを見ながら、後藤さんが興奮する。
アップを再開すると、女子1万mに出た選手が続々と戻ってくる。
それからさらにしばらくすると、プレスらしき人に囲まれた亜由美さんが見えた。
いつまでもメディアにつかまっている。
そりゃそうか。
それだけ、でかい仕事をしたのだ。
世界で3位だよ。
何百万、何千万人もランナーがいて、その3番目。
すごすぎて理解できない…。
「よし。行ってくる」
「ガンバ」「ガンバです」
刻々と時が過ぎていって、いよいよ1組の本間さんがコールに出かけていった。
徐々に、出番が近付いてきていた。
時間は凝縮され、空間は狭くなっていく。
もうすぐ僕も呼ばれることだろう。
ついに、このときがやってきた。
熱い夏の、集大成だ。
「よし、おれもいく」
「がんばです」
後藤さんもスタジアムに向かっていく。
サブトラックの人影は少なく、寂しい感じになってきた。
雰囲気としては、どうだろう。
深夜の高速のサービスエリアみたいな感じだろうか。
スタジアムのほうからは、時折、歓声が聞こえてくる。
風はほとんど吹いていなかったが、たまに肌を撫でる風は冷たかった。
(……)
無心で、オーダーメイドスパイクのピンを締め直す。
調子はいい。
うまく超回復にはまったのか、身体もよく動いていてコンディション的にはベストだ。
客観的に見て予選突破は難しいと思う。
だけど、負けるにしても、この大舞台で何かつかんで帰ってきたい。
加納コーチの言葉じゃないけど、とにかく勉強だ。
来年のオリンピックのためにも、何でもいいからたくさんの収穫を得て日本に帰りたい。
経験をする。
それだけではなく、その経験を肉化する。
それが重要だ。
「よし、そろそろいくか」
「あ、はい」
あっという間に、時間だった。
鷹山コーチに付き添われて、サブトラックを出る。
まだ、自分が今から世界大会のレースの走るんだという実感を得られていなかった。
何だか夢の中の大地を歩いている感じで、感触がなかった。
だけど、最終コールを受けて。
係員に誘導されてトラックの中に入ると、それらすべてが急激にのしかかってきた。
スタンドで見る観客の多さと、トラックの上で見るそれとはまったくの別物だった。
(うへ)
これが、世界だ。
実感して、僕は武者震いをした。
別にびびったわけじゃない。
中学生のころから、ずっと夢見ていた舞台。
そこに立つことができて、まさしく言葉どおりの武者震いだった。
(よし…)
8人の選手がぞろぞろと、通路を通ってレーンまで歩いていく。
この組では本命のジャマイカの選手は4レーン。
バハマの選手は2レーンで、僕は大外の9レーン。
観客の視線にさらされるような気がしてちょっと苦手なレーンだ。
無性にのどが渇いて、僕はバックからペットボトルを取り出して水分を補給した。
それから大きく息を吐いて、いつもどおりスターティングブロックを調整した。
ピカピカ光る、新品のスターティングブロックだった。
軽く、出てみる。
身体は軽い。いい感じだ。
戻ってきて、心を落ち着かせながらスパイクを履いて丁寧にひもを結ぶ。
いつもどおりのルーチンだった。
ジャージを脱ぐと、いつもどおりのタイミングで選手紹介が始まった。
(ふう…)
いよいよ、スタートだった。
僕は大きく、深呼吸をして目を閉じた。
世界陸上初日、男子100m予選。
3着+3。
ついに、そのレースが始まる。
(近っ)
国際影像のカメラが、目の前で僕の姿を映す。
「ノゾミン・ホシジーマっ、ジャッパーンっ!」
どんな表情をすればいいのか分からなかったが、右手でガッツポーズをしておいた。
レースに赴く前の杏子さんのガッツポーズがかっこよくて、それを真似たのだ。
だけど、してから急に恥ずかしくなった。
似合わないことはするもんじゃない…。
「on your mark」
始まる。
スターターの合図でスタートラインにつく。
9レーンなので、真横から撮るアーム型のカメラが僕のすぐそばにきた。
緊張はさほどしていなかったが、何だかそんなことばかり気になって落ち着かなかった。
浮ついているのかもしれなかった。
狭い舞台に、乗せられてしまったような感覚。
僕の世界はもはや、万華鏡を覗いているかのようにものすごく小さくなってしまっていた。
だけど、徐々に静まり返っていくスタジアムのどこかで、子どもの泣き声が聞こえた瞬間。
その瞬間に、世界がふわっと広がっていつもどおりに戻った。
大丈夫。
言い聞かせて、スタートラインに手を添えて、一つ大きく呼吸をする。
ゴール地点を目視してから、頭を垂れる。
いい意味で、頭の中は空っぽだった。
「set」
号砲とほぼ同時に飛び出すと、世界がまた急激に狭まった。
リアクションはまずまずだった。
軸をまっすぐに、斜め上へ飛び出すイメージ。
スタートから序盤の加速は、自分でもよくできていると思った。
足が軽かった。
例の、オーダーメイドのスパイクもその機能を十二分に発揮しているように思えた。
大事な大事な、加速フェイズ。
一気に、トップスピードまでの加速を図る。
重心移動。
低く飛び出して身体を起こして前を向いたとき、僕の視界には誰の姿も映らなかった。
いや、何かが見えているようで何も見えていなかった。
悪くない。
身体の動きはかなり切れているような気がする。
追い風なのか、スピードにも乗れているようだ。
確信はないけど、いまだかつてないスプリントをしている直感があった。
(いけ、いけ…)
中盤を過ぎても、誰も前に出てこなかった。
ミキちゃんに口酸っぱく言われたとおりに、足が流れないように骨盤の下から前へ。
バネのように足を回転させ、温存していたハムストリングスを使って爆発させる。
内燃機関のようだ。
身体を前方に押しやり、減速を最小限にとどめると、もうゴールが見えてきた。
(……っ!)
終盤、さすがに世界のトップアスリート。
イン側の選手が、ぐぐっと前に出たのが分かった。
それが1人なのか2人なのか、あるいは3人なのか、判然としなかった。
とにかく誰かが前に出て、ほかの誰かと並ぶような形でのフィニッシュだった。