第185話 望外の
女子400m予選が近づいてきて、みんなでわいわいとスタンドに戻っていく。
いよいよ、杏子さんの出番だ。
強めのアップを繰り返して、体を戦闘モードに切り替えて。
リュックを背負って、いざ出陣。
「よーし!」
ドスンとぶつかってくる。
充電です…。
「はい、今日は特別に、おでこにキス!」
「えー…」
「えーじゃないでしょ!」
「みんなの視線が・・・」
「ほら、時間ないから!」
きょろきょろと周囲を見回して、軽くおでこにちゅっと。
「よーし!日本記録出しちゃうぞ!」
フンスと鼻息荒く出ていった。
杏子さんは、6組。
そのあと、女子1万メートル決勝があって、男子100mの予選へと続く。
「ヘイヘイ、星島君」
亜由美さんに呼ばれる。
まあ、大体、用件は分かっているけれども。
「あたしにもいっちょお願いね」
「はあ」
軽く、亜由美さんを抱きしめる。
しばらく充電すると、離れ際に、ほっぺたに軽くキスをされた。
少しだけ、亜由美さんは恥ずかしそうな表情だった。
「サンキュっ」
「が、頑張ってくださいね」
亜由美さんが、軽く手を振って戦いの舞台に出かけていく。
僕だってみんなと一緒に亜由美さんを応援したいが、もうすぐ出番だから仕方あるまい。
「いいね、若いって」
肩のストレッチをしながら本間さんが言った。
「こっちは、星島君以外はおっさんばかり…」
「おれだってまだ23歳ですよ!」
後藤さんが言って、暗やみの中に男臭い低い笑いが響いた。
ひたすら、丁寧にアップを続けていく。
ドリルをして、息を弾ませつつ体を温めていく。
テレビ局のアナウンサーと、ちょっとだけ話をする。
サブトラックの外から声をかけてきたファンに、軽く手を振る。
時折、携帯テレビでチェックしていると、杏子さんは2着で予選を突破した。
日本記録とはいかなかったが、堂々の準決勝進出だ。
「いえーいっ!」
笑顔でくるくる回りながら戻ってきて、ドスンと僕にぶつかる。
再充電。
なんというか、杏子さんがいると絵が違う。
周囲が華やぐというか。
「頑張りましたね」
「今夜はご褒美エッチね!」
「そういうこと言わなきゃ、もっと評価上がると思うよ…」
指摘すると、ぶーっと膨らむ。
杏子さんが手早くダウンを終えて、スタンドに戻っていく。
女子1万メートル決勝がスタートするのだ。
決勝だから僕もスタンドで見たいけど、そうもいかない。
「お、頑張ってるぞ。ラスト3周」
またしばらくアップを続けていると、テレビを覗き込んで本間さんが言う。
亜由美さんは、序盤から先頭グループで頑張っている。
スピードがあるから、スパート勝負にも結構ついていけるかも。
まだ抜け出してる選手はいないので、これは混戦か。
ラスト1周勝負になりそうな…。
「あ」「お」
そう思ってたら、向こう正面で亜由美さんが先頭に出た。
残り1000mからのロングスパート。
これは面白い。
先頭グループは、亜由美さんを入れて、6人。
それが少し縦にばらける。
若干、遅れてきたのが2人。
ぐるっとホームストレートに戻ってきて、残り2周。
ここでエチオピアの選手が前に出る。
優勝候補の選手。
ケニアの選手も、2人出た。
亜由美さんが4番手に落ちる。
さすがに前に付いていけないが、必死で追う。
「むー」
前が3人固まって、10m離れて亜由美さん。
残り1周の鐘が鳴る。
ケニアの選手が一気にスパート。
それにエチオピアの選手も付いていく。
だけど、3番手のケニアの選手が伸びない。
「お、お、お…」
残り200m地点で、追いついた。
冷静に、そこで少しためる。
カーブを曲がって直線、そこに勝負をかける。
「うほっ!いけっ!いけっ!」
後藤さんが叫ぶ。
抜くか。
抜けるか。
抜いた、抜いた、抜いたっ…!
「うおおおおおおっ…!」
鏑木亜由美。
得意技は後ろ回し蹴り。
銅メダル獲得っ…!