第178話 女王との邂逅
一方、女子100mの予想は簡単だ。
大本命は、褐色の弾丸、クリスティアーネ・ベッカー。
26歳になり、油の乗っているベッカーの一人旅でまず間違いない。
去年のダイヤモンドグランプリでは、圧巻の7戦全勝。
年間チャンピオンに輝き、陸上競技の年間最優秀選手にも選ばれた。
今はちょっと、負ける姿を想像できない感じだ。
「あ、ベッキーだ」
見つけて、加奈が言った。
それだとちょっと、あれな感じの別人になってしまう気がする。
「おしゃべりしてこよっと」
そう言って、まさに駆け出そうとした加奈の首根っこを、加納コーチが慌てて捕まえる。
ミキちゃんがいないぶん、誰かがしっかり手綱を握っていないといけない。
頑張れ、48歳!
「うゆ?」
当の加奈はきょとんとした表情だった。
「おしゃべり、駄目。練習」
なぜか片言の加納コーチ。
それはちょっと違うぞ、48歳…。
「おしゃべり、ちょっとだけ?」
「駄目。昼ご飯、抜き」
「じゃあ、練習…」
加奈が肩を落とす。
よく分からないが伝わったようだ。
向こうもチームで動いている状況なので、押しかけていっても迷惑だろう。
その後、僕らもチームで動く。
軽目の調整なので無理はしない。
意外と試合前の練習でケガをしたりする選手が多いのだ。
目的は、今の状態をキープすることなので、無理は禁物だ。
「ハーイ」
しかし、午前中、大過なく過ごして昼食に戻ろうとしていたときだった。
バックを背負ってサブトラックを出ると、ベッカーのほうからコンタクトをとってきた。
数人の取材陣を背負っている。
しかも、ベッカーが声をかけたのは、ほかの誰でもなく、この僕だった。
思わず、慌てて周りを見回す。
後ろの誰かに声をかけた…、わけではないようだった。
どう見ても、視線が僕を向いている。
「ミー?」
自分を指差してみると、ベッカーは白い歯を見せて笑った。
「イエス。ミキのスペシャル、そうよね?」
「ウ、ウイ」
なぜかフランス語で答えながら、僕は慌ててうなずいた。
少し離れたところで、日本チームの選手たちが物珍しそうに見物している。
さっきはおしゃべりしてくるとか言っていたのに、加奈も近付いてこない。
なんかビビってるみたい。
「英語できる?」
「ちょ、ちょっとだけ」
「ミキはどこ?まだ来てないの?」
非常に分かりやすく、しゃべってくれる。
それなら何とか。
中学生レベルだし。
「ええと、彼女は、昼に来ます、あさっての。飛行機で」
「OK、あさってね。ええと、彼は今、注目の日本人スプリンターの一人よ。名前は確か、ノゾミン」
「ノゾミン?」「ノゾミン…」
ベッカーに説明されて、周囲の記者やテレビクルーが慌ててプログラムをめくる。
日本国内でも、ほぼ無名。
世界的に見たら完全に無名。
いくら専門の記者とはいえ、知っているわけがない。
僕らがエジプトのスプリンターの名前などまったく知らないのと同様だ。
実績のない、3番手4番手の選手ならなおさらね。
「今回の日本チームは侮れないわ。特にカナッペと、この間、日本記録を出したサヤはね」
ベッカーが言って、取材陣がざわつく。
「サヤなら知ってるぞ。ニミだ、サヤ・ニミ」
事情通らしく、はげ頭の記者が言った。
「誰だ?」
「このあいだニュースになっただろう。大怪我から復活して日本記録を出した」
「知らないな。それがヌミ?」
「そうそう」
「カナッペというのは?」
はげ頭の記者が肩をすくめる。
すると別の記者が、
「日本にいたとき、よく食べていたアイスクリームの名前と一緒」
「アイスクリーム?」
「変な名前だな」
「しかし、なかなかにうまい」
例えばの話。
僕が、パナップってやっぱりグレープが一番美味しいよね!
などと杏子さんあたりとくだけておしゃべりするのとは発言の重みが違う。
女子100mの女王が、記者たちの前で、日本人の名前を挙げて侮れないと言ったのだ。
普段から、アンテナを張って選手の一挙手一投足に注目している記者の人たちが、その言葉を聞き逃すわけもない。
「あった。これじゃないか、カナ・メーハー」
記者の一人がプログラムを示して、数人が覗き込む。
何となく滑稽な様子だ。
「カナ・メーハー?」
「日本人にしてはでかいな。187センチ」
「ベストは、11秒2台か」
「大したことはないように思えるが」
「タイムでは分からない底知れない部分があるということ?」
「そのとおり。不気味な存在よ」
ベッカーがうなずく。
恐らく、クリスティアーネ・ベッカーの目に映っているのは加奈や新見ではないはずだ。
かつて、世界ユースで、内側から飛んできた中学1年生の女の子。
長谷川美樹の影が、加奈や新見の姿を必要以上に大きく見せていたようだった。