第177話 足技を出さないので本気ではない
翌、木曜日は雨。
ブリスベンの冬は、乾燥していて雨が少ないようだ。
降水量は絹山市の半分くらいで、9月の日中の平均気温は25度前後。
運動するにはちょうどいいくらいで、マラソンなどは行いやすいかもしれない。
「お。晴れてきたんじゃないか」
朝食を食べて部屋で休んでいると、晴れてきたようだった。
本間さんがベランダに出て空を見上げる。
僕もベランダに出てそれに倣ったけど、雨雲は遠く彼方へと駆け抜けていったようだ。
「準備しておくか」
本間さんがイヤホンを外しながら言う。
弟の本間秀二もそんな感じだけど、兄もいつも何か聴いている感じだ。
弟と同じく、何か、本間さんは独特の世界を持っている。
雄弁ではないが、後藤さんとはわりと仲がいいようで、けっこうおしゃべりしている。
「さ、いこう」
すぐに電話が鳴って、8時半出発という連絡が来た。
5分前に降りていくと、もうみんなそろっていたので出発する。
何だか人が増えているなと思ったら、いつの間にか、長距離のメンバーも合流していた。
初日に行われる女子マラソンの選手、それから女子1万mの選手だ。
「亜由美さん、おはようございます」
「あ、おはよ」
歩きながら、亜由美さんにあいさつをする。
将来の女子マラソンメダル候補だが、今大会でも頑張ってほしい。
「星島君、あとであたしも充電お願いね」
こっそり、亜由美さんが笑顔で耳打ちしてくる。
あいまいに笑っていると、長距離の女の子が数人、口を挟んできた。
「充電って何?」
「あ、知ってる!充電でしょ」
「何それ?」
「うんとね、星島君にぎゅってしてもらうといい記録が出るんだって」
「へーえ」
僕は思わず赤面した。
こんなところまで話が伝わっていたとは想像もしていなかった。
「それでね、キスするともっといい記録出るんだって」
「うっそーっ!」
「ほんとほんと。沙耶ちゃんとはエッチまでしたんでしょ?」
「キャーッ!それであの記録!?」
その場にいた全員が新見を見る。
いきなり、自分に話が回ってきたので、相当慌てたのだろう。
新見はぶんぶんと手を振って否定した。
「にゃ、ないですないです」
「ホント?怪しいってみんな言ってるよ」
「ないですよ、全然。手もつないだことないよね」
「うん。全然」
慌ててコクコクとうなずく。
日本が誇る新見沙耶だ。
変な噂が出ては困る。
「それに星島君、彼女いますし」
「いーや、彼女がいたって平気な男は大勢いる!」
「カーッ…!」
誰かの言葉をきっかけに、いきなり亜由美さんが叫んで女の子たちをチョップし始めた。
「しまった!あゆの古傷を…っ!」
「フォーッ…!」
亜由美さんが暴れ出した後ろで、杏子さんがうれしそうに笑いながら手を叩いていた。
やっぱりこの人の仕業か…。
やいやいやりながら競技場まで歩いていく。
雨上がりのサブトラックで、今日も各国の選手が体を動かしていた。
サブトラックの向こう側に、アメリカチームがいる。
かつては短距離王国と言われ、世界大会でメダルを量産してきた国だ。
しかし、最近の没落ぶりは見ていて悲しくなるほどである。
前回の世界陸上では、個人種目での金メダルはゼロ。
辛うじて、銀メダルが1つ、銅メダルが2つあっただけである。
かつての有力選手は、半分はドーピングで、半分は年齢とともに消えてしまった。
今、世界のスプリントの主力はカリブに移っている。
ジャマイカ、トリニダード・トバコ、それからバハマ…。
「お。ガードナー」
アメリカチームの一人を、後藤さんが目ざとく発見した。
ギルバート・ガードナー。
短距離王国の復権をかけてアメリカが送り出してきた、23歳の若武者だ。
ガードナーは、今年の4月、いきなり9秒78を叩き出して脚光を浴びた。
前回の世界陸上では決勝7位。
特に目立った存在ではなかったのだが、一気に急成長して、このまま世界のトップに駆け上がろうかという勢いだ。
「今シーズン、ガードナーと走ったけど、あれはすさまじいな」
「そうっすね。加速がすごい」
本間さんと後藤さんが雲上人の会話をする。
「ダイヤモンドグランプリ呼んでくれないかな」
「200mなら呼んでもらえますかね」
「だといいけど」
すごい話をしているなあと思いながら聞いていると、おなじみの、赤と黒と黄色のジャージがサブトラックに入ってきた。
カリブを代表するスプリント王国、ジャマイカだ。
その中心は、男子100m世界記録保持者のキングダム・テイラーであろう。
今年で31歳。
年齢的に、あるいは最後の世界陸上になるかもしれない。
来年のオリンピックまでで、区切りをつけるはずだというのが大方の予想だ。
メディアの予想では、好調のギルバート・ガードナーが有利。
キングダム・テイラーが、レコードホルダーの意地でそれを迎え撃てるか。
大体、そんな感じである。
伏兵として、ジャマイカの小兵、ダミアン・ロドリゲス。
それと、村上道場メンバーにはおなじみ、ビデオで散々研究したトリニダード・トバコのクインシー・ロジャースの名前も挙げられている。
男子100mの状況は、概ねそんなところだ。