第175話 ブリスベングリーンヒルスタジアム
翌朝は、8時起床だった。
本間さん、後藤さんと一緒に一階の食堂まで降りていくと、外国の選手でいっぱいだった。
こんなに大勢の外国人を見るのは生まれて初めてだ。
絹山くんだりでは、外国人を見かけることなど滅多にない。
「うー、ねむねむ」
バイキング形式の料理を適当にとってくると、おっつけ杏子さんたちもやってきた。
「おはようございます」
「はうーん。眠い…」
隣に座って、杏子さんがコテンと僕の肩に頭を乗せる。
「千晶、何か適当に持ってきて」
「はーい」
「オレンジジュース飲みたい」
「はーい」
年齢で言えば、年下の水沢さんや新見や加奈もいるのに、いつも千晶さんに言いつける。
たぶん、千晶さんと杏子さんは一生このままだ。
まあ、二人が納得しているならそれでいいんだけど。
「何時までやってたの」
ぶどうの皮をむきながら本間さんが言った。
小さく欠伸をして、杏子さんは両手で頬杖をついて本間さんを見た。
「何時だっけ。1時かな」
「ようやるな」
「マンモス狩りに行ったら、うちの犬全滅しちゃってさ。星島のせいで」
「杏子さんが変なとこに落とし穴掘るからでしょ」
「ちがわいっ」
杏子さんは僕のロールパンを手にとって、小さくちぎりまくった。
地味な嫌がらせだ。
わいわいおしゃべりしながら楽しく、残念ながらあまり美味しくない朝食を終える。
部屋に戻って少し休憩した後、準備をして選手村の玄関前に集合。
軽目の調整を兼ねて競技場の下見に行くのだ。
今日は、水曜日。
世界陸上は土曜日開幕なので、もう本当に決戦は目前だ。
「よし。全員そろったな」
と、短距離コーチの加納一郎48歳。
「先生、酒井君がまだ来てません」
男子400mの安原が手を挙げて言うと、加納コーチはぽりぽりと頭をかいた。
「誰が先生や。時間厳守!」
「まあまあ。細かいこと気にするとハゲますよ」
「もうこれ以上ハゲるとこないっ!」
笑いが起こる。
割と、みんなリラックスムードだ。
夜に着いたので分からなかったが、選手村は中心部から離れたところにあった。
海側に空港があり、中心部は海岸線から10キロほど離れたところにある。
選手村はそれよりもちょっとだけ内陸側だ。
「競技場って、どのへんなんですか?」
新見が言って、加納コーチが振り返る。
「そこだ」
「え、すぐそこ?」
「すぐそこ?」
コーチが新見の口調を真似て、それでまた笑いが起きる。
その笑いが乾かないうちに、本当にすぐ、僕らの視界にスタジアムが飛び込んできた。
選手村からほんの400mくらい。
美術館の庭みたいなレンガづくりの広場。
そこから200mくらい向こうに、競技場が鎮座していた。
「はー。きれいな競技場ですね」
水沢さんが感心する。
陸上競技場というと、どうしてもコンクリート打ちっ放しの建物が多い。
しかしここは外壁が薄い緑に塗られていて、きれいだ。
むき出しの柱などなく、滑らかなフォルム。
さすが、オーストラリアというか、かなり立派な建造物だ。
ブリスベングリーンヒルスタジアム。
それが、決戦の舞台だった。
ひとまず、並木に囲まれた道を歩いていく。
横断幕や看板の中を抜けて、サブトラックへ。
既に各国の選手が調整を行っていて、色とりどりのジャージで賑わっていた。
見覚えのある有名選手も少なくなく、世界に来たんだなあと実感できた。
「よし。トラック行ってみようか」
一通り、体を動かして温めると、加納コーチが言った。
スタジアムは木曜日の午後まで選手たちに解放されるらしい。
首から下げたパスを見せて入ると、中もまたきれいだった。
芝生は緑一色で、はげているところなどなく、美しく刈りそろえられていた。
タータンは濃いブルー。
観客席はタータンと同じ色で、全体の調和がとても美しい。
手を伸ばして、少しタータンの表面に触れてみる。
かなり硬いような気がした。
「硬い?」
「相当、硬いな」
本間さんも同じようにしていた。
シンプルに言えば、硬ければ硬いほどいいタイムが出やすいが、故障のリスクも高い。
地面を思い切り蹴飛ばして走っているわけだから、硬いほどケガが多いのは自明の理。
アスリートにとっては両刃の剣だ。
国立競技場もそうだが、いわゆる高速レーンというやつ。
「お互い、ケガには気をつけよう」
「はい」
少し、走ってみて感触を確かめる。
走った感じでは、そんなに硬さの違いは実感できなかった。
違いの分からない男なのだ。
だけど実際には、大げさに言えばタータンの下に地雷が埋まっているようなものである。
いつそれを踏むか分からない。
加奈だって、硬いレーンの国立競技場で肉離れをやった。
元キャプテンの柏木さんも、レース中に足を痛めてそれで苦労している。
そもそも、僕がこうやってここにいるのも、玉城豊が靱帯をやってしまったからだ。
「玉城さん、だいぶ悪いんですかね」
練習の合間に聞いてみると、後藤さんが小さくうなずいた。
「おっさんのくせに無理するから」
「おっさんなのは顔だけだろ」
本間さんが突っ込んで笑いが起きる。
「それに、後藤だっておっさん顔じゃないか」
「ひでえ。本間さん、何もそんな大きな声で言わなくてもっ…!」
「でも、俊ちゃんは年とったら味が出ていい顔になると思うよ」
杏子さんがフォローして、後藤さんはうれしそうにみんなの顔を見回した。
「聞いた?ねえ聞いた?」
「まあ全然あたしのタイプじゃないけどね」
「…っ!」
じたばたと、後藤さんと杏子さんが争う。
何だか、後藤さんとはうまくやっていけそうな気がした。
聡志あたりと同じにおいがするというか、いじられキャラというか。
たぶん、浅海軍団に加わってもすぐに馴染むことだろう。
「うう…」
生温かい目で後藤さんと杏子さんの漫才を見ていると、いきなり加奈がしゃがみ込んだ。
話の流れとは関係ないところで。
最初、何だろうと思った。
今度は一体何だろうと思ったけど、立ち上がる様子がなかったので慌てて駆け寄った。
またどこかやってしまったのかと思った。
「どうした?大丈夫?どこか痛いのか?」
「お腹空いた…」
バカの一つ覚えに、僕は思わずペシンと加奈の後頭部を叩いた。
加奈は僕を見上げ、唇を尖らせて抗議をした。
「いたっ。ひどーい、叩いたっ!」
「やかましい!」
「星島って、ああ見えてSなんだよ。夕べなんかいきなりロウソクで」
「ちょっとそこ。悪質なデマ流さない!」
杏子さんに指差し注意をする。
うちの問題児たちはこの期に及んでもいつもどおりだったが、とにかくみんな、異国の地で少しだけテンションが高かった。