第174話 もう既に犬のような
「わ、さむっ」
飛行機を降りるなり、新見が震えた。
南半球なので、もちろんオーストラリアは冬だ。
しかも既に20時を回っていたので、ジャージではちょっと肌寒い感じだった。
「お腹すーいたっ、お腹すーいたっ」
加奈が、オーストラリアでも例の歌を披露する。
だけど今日は僕も同意だった。
機内食は食べたけど量が少なくて、ミキちゃんに持たされた笹かまで空腹をしのいだのだ。
ありがとう、商工会の人たち。
「どっかで何か食べてくのかな?」
みんな、やっと着いたという感じで疲弊しているのに、加奈だけ元気だった。
「選手村に食堂あるから、そこまで待っとけ」
それを小耳に挟んだ加納一郎48歳が答えて、加奈はぶりぶりと体を動かした。
「あーん。のぞむくん、何か食べるの持ってない?」
「お前、おれの笹かまほとんど食べただろ」
「だって、お腹すいたんだもん!」
「だっての意味が分からん」
僕らにとっては普段どおりのやりとりだったのだが、ツボに入ったらしい。
後藤俊介がゲラゲラ笑って、そのほかのメンバーからも笑いがこぼれた。
少し、みんなのテンションが上がっているのが分かった。
その後、また面倒な手続きをあれこれさせられて、そこでテンションが下がる。
いい加減、嫌になってきたところでようやく終わり、ぞろぞろと空港の外に出る。
あちこちに世界陸上の看板やポスターがあって、いよいよなんだなあという感じがした。
「はい、皆さんこっちですよ」
コーディネーターみたいな人がいて、案内されてシャトルバスで選手村へ。
10分ほどで到着したけど、市街地からは少し離れていた。
「よいしょっと。お疲れさま」
新見がハムっとあくびをして、それが千晶さんにうつる。
監督コーチ陣も含め、みんな途方もなく疲れていた。
明日の朝にミーティングをすることにして、とりあえずは解散。
新設された選手村は、要するに普通のマンションだった。
コーディネーターみたいな人に案内されて8階までエレベーターで昇る。
鍵を開けて部屋に入ると、リビングが広かった。
ベランダだけで僕のアパートの部屋くらいある。
お風呂もむだに大きくて、10畳くらいのベッドルームが2つあった。
世界陸上が終わったら、高級マンションとして売り出すらしい。
「いい部屋じゃん」
一通り、見て回って後藤俊介が言った。
3人部屋で、僕は本間隆一、それから後藤俊介と一緒。
「ほしじまーん」
とりあえず、ソファーに座って休憩していると、ドシーンと部屋のドアが開いた。
無遠慮に杏子さんが入ってくる。
ノックなどありません。
異性の部屋なんだけどね、一応…。
「焼き肉しよ!」
到着して、荷物を置いたら元気になったらしい。
杏子さんは笑顔で僕のところにやってきて、例によってひざの上にまたがった。
本間さんと後藤さんの視線が痛かった。
「焼き肉、焼き肉」
「うん。ご飯食べてからね」
若干、日本語がおかしいので、本間さんが首をかしげた。
「焼き肉って?」
「あ、ゲームです」
焼き肉というのは、杏子さんが勝手にそう呼んでいるだけ。
人類史を体験する携帯機用のゲームだ。
マンモスがのっしのっしと歩いているような、旧石器時代。
いろいろな動物がいて、仲間と協力して狩りをする。
ドングリなどの木の実や貝類の採集をしたりもできる。
とにかく狩猟採集で食糧を確保して、村を発展させていくゲームだ。
「ふうん。面白そうだな」
本間さんが興味を示すと、杏子さんはうれしそうに言った。
「うちの村、牧畜が始まったもんね!」
「え。どうやったの?」
「オオカミの群れ全滅させると、子どもが出てくるから捕まえるの」
「おお」
ヒツジを捕まえて家畜にしようとしても、夜中に野生の動物が来て食べられてしまう。
牧畜をするにはどうすればいいんだろうねと話していたところだ。
「なるほど。先にオオカミを家畜にするのね」
「捕まえて戻ってくると、名前が犬に変わる」
「ふんふん」
「星島は、あたしの犬になって!」
言うと思った…。