第171話 一つの夢の話
波打ち際から、楽しそうな声が聞こえてくる。
例によって、みんなでイルカとシャチにまたがって落としっこをしていた。
何だっけ。
加奈の持ってきたイルカとシャチ。
名前付いてたんだけど、忘れちゃった。
「やー。美味しそうなの飲んでるじゃん」
髪から水を滴らせながら、杏子さんが戻ってくる。
手帳をパタンと閉じて、加奈が顔を上げた。
「あれ。杏子さん負けたんですか?」
「負けた。真帆に負けた」
「えへへ。じゃああたし行ってきます!」
立ち上がって、加奈はうれしそうに走っていった。
杏子さんはクーラーボックスのふたを開けたけど、すぐに閉じ、手を伸ばして僕のコーラをひったくった。
「一口ちょーだい」
本当に一口だけ飲んで、杏子さんはすぐに僕に戻した。
今年の杏子さんは、何ていうのか分からないけど、右側しか肩ひもがない水色のビキニ。
何かの拍子にずれてしまいそうだけど、今のところは大丈夫なようだ。
どういう構造になっているんだろう。
「あ、そうだ」
珍しく、杏子さんがネックレスを付けていて、それを見て僕は思い出した。
「杏子さん、お願いがあるんですけど」
「ほーん?」
「あのですね。ミキちゃんに、何かアクセサリー的なものを贈ろうと思うんですけど」
「ほほーん」
ビーチチェアに座り、タオルで髪を拭きながら杏子さんは僕を見た。
「指輪?」
指輪はちょっとハードルが高いです。
「いや、ネックレスかイヤリングか。どんなのがいいのかなーって」
「聞いてみればいいじゃん」
「聞いたら要らないって言うと思って」
「ああ。じゃあさりげなく聞いてあげよっか?」
「おお」
「あれでしょ。好みというか、どういうのが好きなのか傾向が分かればいいんでしょ」
「そうですそうです」
「任せなさい。神戸のさりげない女王とはあたしのことよ!」
「神戸出身じゃないでしょ。兵庫の…、聞いたことない郡部じゃなかった?」
「うるさーい!星島だって仙台県のくせに」
「ないよ、そんな県!」
そんな話をしていると、ミキちゃんが別荘のほうから戻ってきた。
別に、急ぐことでもない。
僕のいないときに、話の流れでこっそり聞いてくれるものだと思っていた。
しかし、杏子さんはごほんとせき払いをすると、無意味に立ち上がってまた座った。
落ち着かない様子に、ミキちゃんが眉を動かす。
嫌な予感がしたけど、制止するわけにもいかなかった。
「あのさあ、ミキが彼氏からもらうとしたらさあ、どんなアクセサリーもらいたいワケ?」
さりげがありすぎて、僕は思わずがくんと首を落とした。
そうだった。
油断してすっかり忘れてた。
この人、ぎこちない女王なんだった…。
たぶん、自分でもまずいと思ったのだろう。
杏子さんは慌てて手を振って言い訳をした。
「いやね、何というかさ、アサミACでも何かそういうのやっていこうかなってさ」
「アクセサリーを?」
「そうそう。例えばさ、新見沙耶モデルのネックレスみたいな?」
口調がおかしいもん。
「そういうのも?いいんじゃないかって?思うんだけど?ミキのもつくる?」
「いいえ」
無表情のミキちゃん。にべもない。
「じゃあさ。もらえるとしたらどんなの欲しい?」
「要らないです。あまり興味ないので」
「だよね…」
杏子さんは、ここで心が折れたようだった。
ちょびっと肩を落としていたけど、ぱっと顔を上げて話題を変える。
「そういや、もうコーラなかった?」
「ありますよ」
「飲みたいな。あたしもコーラ、飲みたいな」
「持ってきましょうか?」
「おねがーい」
「分かりました」
ミキちゃんが快諾して、来た道を戻っていく。
別荘まで200mくらいの上り坂を、テクテクとゆっくりと上っていった。
その背中が遠ざかったところで、僕は杏子さんに抗議した。
「全然さりげなくないじゃないですか!」
あれはひどすぎる。
だけど、杏子さんに反省の二文字はなく、ぷくっとほっぺたを膨らませた。
「だって!意外と難しかったんだもん!」
「それに、おれの前で聞かなくたっていいでしょ!」
「うるさーいっ!」
「この、ぎこちない女王が!」
「う、うるさいうるさいうるさーいっ!」
ばさばさと、足元の砂をお互いの足に足でかけあう。
じたばたとみっともない戦いを続けていると、水沢さんが微笑を浮かべながら戻ってきた。
真夏の日差しの下、まぶしそうに目の上に手をかざしてじゃれ合う僕たちを見る。
「どうしたんですか?」
「いや、それがさ」
杏子さんが事情を簡単に説明すると、水沢さんは二度、うなずいた。
「村上さんは、もっと実用的なもののほうが喜ぶかもしれませんね」
「実用的…、包丁とか?」
試しに言っただけなのに、水平に、杏子さんのチョップがばちーんと飛んできた。
意外と痛かった。
「包丁もらって喜ぶ女子がいるかっ!」
「でも、実用的って…」
「違うでしょ。実用的でも、もっと色気があるもんでしょ」
「例えば?」
「例えばさ、化粧品とか、下着とか」
「それは、アクセサリーなんかより数倍難易度が高いのでは…」
世の中の多くの男性にとって、未知の世界だ。
「本人に聞いてみるとか?」
水沢さんに言われたけど、僕は首を振った。
「たぶん、別に何も要らないって言うと思う」
「ああ。言いそうですね」
水沢さんが手を打って賛同した、そのときだった。
ミキちゃんが慌てた様子で別荘のほうから走ってきた。
一体、何があったのか。
いやそれより走って大丈夫なのかと心配になったが、息を切らして砂浜まで来る。
そして、左手のコーラを杏子さんに差し出して、すうっと深呼吸をした。
「どしたの?」
杏子さんが聞いてコーラのふたを開けると、予想どおりぶしゅっと少しこぼれる。
慌てて、杏子さんがそれをミキちゃんに渡す。
なぜ渡した。
だけどミキちゃんは受け取って、一口、コーラを飲んで僕を見た。
「監督から電話きて」
「ん?」
「玉城さんが、代表辞退したって」
「え?」
思わず、目を丸くする。
「ひざ、痛めてたらしいけど、本格的に駄目そうだって」
「あー」
そういえば、玉城豊は日本選手権は決勝を棄権した。
それ以後、どうも見かけないと思ったら、そういうことだったのか。
「それで、代わりに、星島君が追加で選ばれた」
「え?」
「世界陸上。短距離代表」
「すごいっ!」「やったじゃん!」
僕が喜ぶ前に、水沢さんと杏子さんが喜んでくれた。
なのでタイミングを逸してしまったけど、僕は大きく両手を上げて砂浜に倒れ込んだ。
空は今日も真っ青だった。
世界陸上。
僕が、夢の、世界陸上代表だ。
「うおーっ!」
目の前に転がり込んできた幸運を実感し、咆哮する。
杏子さんに身体をばしばし叩かれる。
おでこを何度もチョップされて、起き上がって反撃すると、うれしそうなミキちゃんの笑顔が飛び込んできた。
間違いなく、世界一の笑顔だと思った。