第170話 ブラジル戦の記憶
翌朝、起きてみると外はよく晴れていた。
夏の暑い日差しが戻り、庭の水たまりがあっという間に消えてなくなっていく。
草のにおいが夏らしく漂ってきた。
これは、午後は相当に暑くなりそうだ。
「さ、ちょっと動くかね」
杏子さんがリーダーとなって、午前中はいたってまじめに練習。
体を動かして調子を維持するのと、あとは細かい技術的な確認だ。
世界陸上まで1カ月を切っているので、今から走力が付くということはほぼない。
しかし、今、持っている力が60だとして、世界陸上で60出せるか50しかだせないか。
あるいは40しか出せないか、ちょっとだけ上乗せして61出せるようになるか。
それはこの1カ月が重要になってくる。
とにかくみんな頑張ってほしい。
もちろん僕も、インカレがあるので怠けてはいられない。
練習あるのみ。
聡志が一緒だといつもぐだぐだだが、今回は本間君がいるので締まった練習ができた。
「やることは、びしっとやるんですね」
汗だくになりながら、本間君が感心して言った。
まあ普段はぐだぐだなわけだけど、僕らだってやるときはやるのだ。
「ま、浅海軍団だからね。緩急はびしっとついてるよ」
「緩が多いけど…」
千晶さんが呟いて、笑いが起きる。
「浅海軍団はそうだけど」
と織田君が補足。
「村上道場は急だけですよ。急、急、急ときて急!」
「でもおかげで、オーストラリアっ!」
汗だくの真帆ちゃんが踊る。
加奈も踊り、新見も踊る。
いいよなあ、世界陸上。
羨ましい…。
僕は出ないんだけど、それでも一緒に午前中いっぱい練習。
ゆでダコのようになって別荘に引き上げてくる。
練習のサポートは詩織ちゃんがしてくれて、お料理はミキちゃん担当。
ナイスコンビネーションだ。
午後。
ちょっぴり辛い冷麺とスタミナ丼を食べて、若さで回復すると、砂浜へ突撃。
相変わらず、ビーチには人がいなくて、すっかり凪いだ海は泳ぐのに最適だった。
もうプライベートビーチに認定してもいいでしょう。
まあ、民家も少ないし、広くないし、穴場だね。
「あれ。ミキちゃんは?」
少し泳いで帰ってくると、ミキちゃんがいるはずのビーチチェアに加奈が座っていた。
「あ、なんか別荘戻ってるって」
「そか」
隣に座ると、加奈がクーラーボックスからささっと飲み物をとりだしてくれる。
変な飲み物じゃないか、思わず警戒してしまったけど、普通のコーラだった。
ありがとうといって受け取ると、ぷしゅっと蓋を開けてぐいっと飲む。
何というか、久々のコーラで最高にうまかった。
ミキちゃんの前では、炭酸は飲めません…。
「お腹すいてない?大丈夫?」
立ち上がって、加奈が笑顔でじりじりと距離を縮めてくる。
ちょっと不気味だ。
「さっき食べたばっかだろ」
「そだっけ。肩でも揉む?」
「何だよ。気味が悪いな」
「えへへ。聞きたいことがあって」
「何だよ」
「あのね、どうやったら緊張しないで走れるか、教えて」
「今さらか」
「みんなに聞いて回ってるのっ!」
簡単に言うけど、そんなの人それぞれだし、僕だって緊張しないわけじゃない。
まったく緊張しないのも困るわけで。
「てか、お前さ、なんで毎度毎度あんなにガチガチになるわけ?」
聞いてみると、加奈は唇をとがらせた。
「だって、ほら、緊張しちゃうんだもん」
「うーん」
まるきり答えになっていないけど、コーラをちびちび飲みながら僕は唸った。
なかなか難しい問題だ。
「サッカーはやってて緊張しなかった?」
「しない」
「ふーん。なんでだろ」
「だって、キーパーだもん」
当然、みたいな顔で加奈は言った。
「意味分からんけど、キーパーだと緊張しない?」
「だって、ボール、いつ来るか分かんないでしょ?」
「うん」
「100mって、スタートするの分かるじゃん」
「ごめん、もうちょい分かりやすく」
「だから、ほら、注射と一緒でさ。くるぞ、くるぞ、もうすぐくるぞって思ったら」
「ああ…、なんとなく分かった」
注射か。
大して痛くもないのに、苦手な人多いよね。
あれと同じことか?
「待ってるうちにどきどきしちゃう」
「そっか。それは確かにあるかもなあ…」
「だからね、ロングジャンプとかのほうが合ってると思う。自分のタイミングでできるし」
「その理屈でいくとPKも駄目?」
「あ、PKは得意だったよ」
加奈はぐいっと胸を張った。
「PKはいいのかよ」
「だってあれは、止めれなくても仕方ないもん」
ヒントが、与えられた気がする。
僕はちょっと考えて、じっと加奈を見た。
とても大事な役割を、与えられたような気がした。
「仕方ないっていうのは?」
「だって、PKってほとんど決まるでしょ」
「うん」
「だから、駄目でもともと。うまく止めたらヒロインになれる!」
「よし。じゃあその感覚でいけ!」
「え。伝説の中指セービング?」
今の会話の流れで、どうしてそうなるのか。
よく分からないけど、どんな伝説なのかちょっぴり気になった。
「そうじゃなくて、駄目もとで」
「駄目もとで?」
「お前、陸上始めて何年?」
「えと、2年。2年半?」
「それっぽっちだろ。失敗しようがビリだろうが、恥ずかしいことなんてないじゃん」
「そっかなあ…?」
「第一さ、お前、今、世界で上から何番目だと思ってるんだよ」
一瞬、加奈は考えてから言った。
「…下のほう?」
「10秒台で走ったことは?」
「ない」
「世界大会に何回出た?」
「0回?」
「それが分かればもう分かっただろ」
「はうん?」
「お前、チュニジア人のスプリンター、誰か知ってるか?」
「ううん。知らない」
「そうだろ。それと一緒で、10秒台出したこともない初出場の日本人選手なんか、誰も知らないし注目しないから。注目を集めるのはベッカーに任せとけばいい。日本人なら新見に目がいくから」
「そっかな。そっかな?」
女の子らしく、加奈は首を傾けた。
くそ、ちょっとだけかわいい・・・。
「一生懸命やってるのはみんな知ってるし、失敗してもいいから、今は経験積むのが大事なんじゃないの。だいたい、今までさんざん失敗レースしてきてるんだから、今さらもう恥ずかしいことないじゃん」
「あ。それ、村上さんにも言われた…」
「そうだろ」
「そっかあ。やっぱそうなんだ…」
「言っとくけど、ミキちゃんの言うことはほぼ正しいんだからな。嫌ってないで素直に耳を傾けろよ」
「え~?別に嫌ってないけど」
「…前に嫌いだとか言ってたじゃん」
「やーねえ。何年前の話してるの!」
どこぞの奥様みたいに、手をひらひらさせて笑う。
そんなに昔のことじゃ、ないと思うんだけどね…。
「まあいいけど…、とにかく駄目もとで、PK戦と同じ要領」
「なるほど」
「失敗上等。まかり間違って予選突破したら万々歳。その気分でいけ!」
「ちょっと待って!」
「ん?」
「メモする!」
わざわざ、メモするようなことではないと思う。
だけど、加奈はごそごそとバッグをあさって手帳を取り出し、一生懸命ペンを走らせた。
気になってちょっと覗いてみると、伝説という2文字が見えた。