第166話 目撃
白い雲が何度も流れていって、競技はどんどん進行していった。
女子400mは、52秒05の自己ベストで杏子さんが完勝。
今シーズンに限って言えば、小林由紀との対決は杏子さんに軍配が上がった。
若い杏子さんが、小林由紀に追いついたという感じだ。
「さあ、いよいよ最終種目です」
午後6時、司会の声が響く。
2日間にわたって行われた日本スーパーグランプリの最終種目は、女子100mだった。
CMでも、この種目にスポットを当てて放送していた。
「出てきた出てきた」
いつの間にか、後ろに十文字と本間君と詩織ちゃんがいた。
金子君やベースマン、知香ちゃんも店を閉めて観戦に来ている。
宝生さんや水沢さんの姿は見えないが、きっとどこかで見ていることだろう。
横井もいたし、マネージャーの悠子ちゃんもいる。
長距離ブロックの子もそろって観戦している。
みんな、注目しているようだ。
「沙耶ちゃん、筋肉付いたなあ」
聡志がつぶやく。
「足太くなるの嫌だなんて言ってたのに」
確かに、以前と比べて太ももの筋肉がかなり発達している。
筋トレをかなり増やしていたようだ。
それに、練習嫌いだったのだが、サボらなくなった。
ちゃんと毎日、誰よりも遅くまで頑張っている。
陳腐な表現だが、生まれ変わったかのように、熱心に練習している感じだ。
「むしろ、ケガしてよかったのかもしれないわね」
ミキちゃんがつぶやいた。
「そういうところもいろいろ含めて、初めて真剣になれたみたいだから」
「そっか…」
そうだといいなと思った。
そうだったら、僕も少しは救われる。
「ここにきて調子もぐんと上がってるみたいだし、楽しみね」
確かに。
勝負という意味では、面白いレースになりそうだ。
「さあ、始まるぞ」
ライバル勢の動向も気になるところだが、いよいよ、スタートだった。
風が、夏の夕暮れの中を静かに吹き抜けていく。
いい風だった。
僕のときもこのくらい吹いていてくれればと思うくらい、絶好の追い風だ。
「いいねいいね。まさしく追い風だね」
後ろから知香ちゃんの声が聞こえた。
ちょっと振り返ってみると、マネージャーの詩織ちゃんと一緒に体を左右に揺らして踊っている。
ざわめきの場内の中、選手紹介が始まる。
何しろ、粒がそろった非常にハイレベルなレースなのだ。
「第1レーン、北条沙織、庭沼南高校所属。自己ベスト11秒55」
1レーンの北条は、去年、2年生でインターハイを制した。
この夏は連覇を目指している期待の若手だ。
新見沙耶の持つ高校記録を塗り替えるか、期待されているニューエイジである。
「第2レーン、山本幸恵、ライテックス所属。自己ベスト11秒36。前年度日本選手権優勝者」
山本幸恵はライテックスのベテランだ。
イメージは、クールな侍。
去年の日本選手権チャンピオン。
もちろん、優勝と世界陸上の代表入りを虎視眈々と狙っている。
「第3レーン、宮本真帆、絹山大学所属。自己ベスト11秒48」
ちょんまげ真帆ちゃんは、絶賛成長中の新鋭だ。
100mでの代表入りはちょっと難しいかも。
だけど、ここでいいタイムを出して4Kのメンバー入りをアピールしたいところ。
11秒5を切ってきたし、間違いなく、絹山大学の次を担うタレントだ。
「第4レーン、鈴木恵美子、辰川体育大学所属。自己ベスト11秒43。本年度関東インカレ優勝者」
鈴木は、関東インカレで自己ベストを0秒21も縮めて優勝し、周囲を驚かせた。
今まで大した戦歴はなかったが、今シーズンはすこぶる好調。
はまると怖い一発屋だ。
ここでもジャイアントキリングを起こせるか。
「第5レーン、山田千晶、アサミアスリートクラブ所属。自己ベスト11秒29。本年度日本選手権優勝」
本格化した大和撫子。
今年、堂々の日本歴代3位をマークした。
日本選手権で優勝し、B標準を突破しているので、世界陸上代表に選ばれるか。
大舞台にめっぽう強く、安定性抜群なので、今回もいいレースをするのは間違いない。
「第6レーン、前原加奈、絹山大学所属。自己ベスト11秒25」
加奈は、粗削りの大器といったところだが、例によって緊張してカチカチになっている。
千晶さんとは正反対で、大舞台に弱い。
安定性皆無なので、例によってドタバタ走ることになるだろう。
何だろう、日本歴代2位の記録を持っているのに、この期待感のなさは。
「第7レーン、相川佑菜、三春屋所属。自己ベスト11秒62。本年度関西インカレ優勝者」
この子のこと全然知らないけど、可愛い。
「第8レーン、新見沙耶、絹山大学所属。自己ベスト11秒23。日本記録保持者」
新見は、日本選手権に出ていないので世界陸上は無理。
しかし、とにかく頑張って奇跡の復活を狙いたい。
というか、女子の選手紹介、なんでこんなまじめなの。
僕の時はひどかったのに…。
「on your mark」
選手紹介が終わると、スターターの合図でスタンドに静寂が広がっていく。
選手がスタートラインにつく。
緊張感が伝わってきて僕は思わず息を飲み込んだ。
夏の暑さも忘れ、ぎゅっと手を握り締める。
いいレースになるような気がした。
「set」
スタートと同時に、加奈がわちゃっと立ち上がった。
ほかの7人が爆発的な勢いで飛び出す。
横一線。
加奈以外、横一線だ。
横一線のまま、横一線のまま…、横一線のままダーっと一気に加速していく。
盛り上がるスタンド。
これは好レースだ。混戦で、誰が抜け出てもおかしくない。
「おおっ」
しかし中盤で抜けたのは、やはり大舞台に強い千晶さんだった。
そしてもう一人、大外の新見沙耶だ。
「おおおっ!」
徐々に、マッチレースの状態になっていく。
両者とも、一歩一歩のストライドはさほど大きくなかった。
しかしそのぶんピッチが早かった。
むちのように足がしなって、身体を前へ前へと押し進めていった。
真帆ちゃんや山本幸恵の走りも、決して悪いわけではなかった。
しかし、千晶さんと新見の走りがそれ以上によすぎた。
「素晴らしい…」
辛口のミキちゃんが、舌を巻く。
それほどのスプリントだった。
まるでそのまま、2人だけでどこまでも走っていってしまいそうな。
永遠に並んで走っていきそうな時間が、しばらく続いた。
しかし、終盤、その瞬間は訪れた。
均衡状態を打ち破ったのは、新見沙耶だった。
わずかばかり前に出ると、すすっと先頭に立ち、千晶さんを半歩リードする。
序盤の加速も素晴らしかったが、終盤のスピード維持も素晴らしかった。
筋力がついたためか、最後まで軸がぶれなかった。
あの事故から、1年半。
土壇場で、新見沙耶は復活した。
久しぶりの大舞台で不死鳥のように舞い上がり、先頭でゴールを切った。
「……っ!」
観客の視線が記録ボードに集まって、一瞬後、スタンドは狂乱の渦に巻き込まれた。
あまりの歓声に新見が驚いて記録を確認して、驚いて目を見開き、笑顔で両手を挙げた。
速報、11秒15。
「うおおおおおおおおおおーっ!」
速報タイムは、堂々の11秒15を表示していた。
日本人初の11秒1台だった。
「うおおおおおおーっ!」
「ひょわああああーっ!」
「きゃあああああーっ!」
人はなぜ、心から感動すると、声を上げたくなるのだろうか。
僕らはみんな立ち上がって叫んだ。
「ばんざーい!ばんざーい!」
後ろで知香ちゃんと詩織ちゃんが万歳を始めて、僕らもつられて万歳をした。
あのミキちゃんが、満面の笑顔だった。
場内アナウンスが何か言っていたが、地鳴りのような歓声で聞き取れなかった。
普段と違って数万単位の歓声だったので、とにかくものすごかった。
国内の大会では珍しい、スタンディングオベーション。
日本記録樹立を祝うファンファーレが鳴り、花火が上がった。
すぐに追い風0.9mと表示され、正式記録が11秒14に訂正されてまたスタンドが沸いた。
新見はもう、顔中が笑顔だった。
花火がぼんぼん上がり、大歓声の中、笑顔で手を振りながらスタート地点に戻り、何人かと握手をして、千晶さんと抱き合い、真帆ちゃんのちょんまげを軽く触って笑う。
それから、リクエストに答えて記録ボードの前でやったぜポーズを決める。
ものすごい数の記者が、新見の周りに群がってシャッターを切った。
「うおおおおおおーっ!」
聡志がぶんぶんとタオルを振り回して、それが織田君にびちびちと当たった。
「見に来てよかったーっ!」
酔っているのか、暴れながら喜びの声をあげる。
数万人の気持ちを代弁しているかのようだった。
2着が千晶さんで、11秒23。
終盤にリードを許してしまったが、これも従来の日本記録タイとなるものすごい記録だ。
そして3着が山本幸恵で、11秒34。
真帆ちゃんが11秒41の4着。
前の2人に引っ張られたのだろうが、二人とも文句なしのいいタイムだ。
国内の女子100mでは、過去にないハイレベルなレースだった。
最高のレース。
とにかく、最高のレースだった!
「あ、千晶さん!」
「ちあきさーん!」
最高のレースを演出した千晶さんが、笑顔で僕たちに手を振る。
負けて悔いなし、千晶さんも素晴らしいパフォーマンスだった。
千晶さんがいなければ、今日のこのレースは成り立たなかった。
「ばんざーい!」
「大和撫子ばんざーい!」
何だかよく分からないけど、とにかく万歳をする。
千晶さんは拍手をしながらトラックを出て、くるりとトラックを向く。
そして、いつものように丁寧にお辞儀をした。
「さすが!」
「さすがだなあ!」
何から何まで、天晴れだった。
この、奇跡の復活の瞬間。
ちょうど、6時のニュースの時間だったこともあって、テレビ局各社が新見復活・日本記録誕生をニュースで流したらしい。
しかも達成の瞬間、いくつかの局ではニュース速報を流したようだ。
新見はそのまま、杏子さんとマスコミの人に拉致されて東京へ。
NHKの夜9時のニュースに生出演し、10時ごろから日付が変わるまで各局のスポーツニュースを渡り歩き、翌朝の情報番組にも何本か出て、午前中のワイドショーをはしごした。
とにかく、ドラマチックな復活劇に列島が大きく揺れて、新見沙耶の名前は世界にまでとどろいていったのだった。