第160話 夏に舞う風
招集所には、既に僕以外のメンバーが全員そろっていた。
コールを受けて、少し待っていると、係員に促される。
バッグを背負いなおしてミキちゃんを見ると、ミキちゃんはただ、うなずいた。
「頑張って」
「うん」
ミキちゃんと別れ、係員の誘導で競技場の中へ。
今日のスタンドは、超満員だった。今まで見たこともないくらいの人数だった。
(こりゃすごい)
キャッチコピーが効いている。
「世界記録1種目につき、抽選で1名に1億円プレゼント!」
「日本記録1種目につき、抽選で1名に1千万円プレゼント!」
「20種目で世界記録が出たら、総額20億円!」
20種目で世界記録なんて、そんなの出るはずがない。
そもそも世界記録は無理だ、誰もがそう思っている。
だけど、世界記録は無理でも、日本記録なら1、2種目くらい出てもおかしくない。
そうなると1人か2人、1千万円が当たるわけだ。
客数が2万人だったら、わりと当たりそうじゃない…?
誰もがそんなふうに考えるわけ。
それで、この盛況ぶりである。
別に、お金の力で呼んでいるわけではなくて、ただ背中を押しているだけだ。
来ない人は、どうしたって来ない。
迷っている人に、来たらいつもと違う何かいいことがありますよ、と背中を押してあげる。
それが大事だと、ナニワのあきんどが言っていた。
モノではなく、体験を売る。
それが新しい時代の商売なんだそうだ。
そして、もっと大事なのは、来た人たちを満足させることだ、とも言った。
満足させられるかどうか、僕には分からない。
分からないが、とにかくやらねばならぬ。
お客さんには悪いが、そんなことを気にしている余裕はないからだ。
(舞ってるってほどではないかな?)
肝心のトラックは、少し向かい風のようだった。
だけどさほどでもないので、気にするまでもないだろう。
コンディションはまずまずといったところ。
十分にA標準を突破するチャンスはある。
「よーし。ビール飲みたいから、今日は早めにゴールしちゃうぞ」
後藤俊介が言って、ちょっと笑いが起きる。
まだちょっと時間があったので、僕はスパイクをとりだしてピンを締め直した。
それが終わったころに、レースの準備が整って、僕はレーンに出た。
予選会1位の僕が、王者の5レーンだった。
スターティングブロックをセットして、軽くスタートしてみる。
動きは、悪くないと思う。
ほどよい緊張感もあって、いいパフォーマンスを見せることができそうだ。
とにかくもう、ここまできたらやるしかない。
やるしかないのだ。
(よっしゃ)
自慢のオーダーメイドスパイクを履いて、ジャージを脱ぐと選手紹介が始まる。
「第5レーン。10秒22で予選会1位、本年度日本選手権第3位。女の敵すなわち男の敵、充電器っ、星島のぞむ~っ!」
拍手と、若干の笑い声が起きる。
誰なの、人の集中を削ごうとしているのは。
「第6レーン。10秒23で予選会2位、本年度日本選手権第2位。ウホッ、ウホホッ、ウホウホッ、ゴリラ、後藤俊介~っ!」
まあゴリラよりはいいけど。
とにかく4レーンが本間隆一、6レーンが後藤俊介。
実力者に挟まれたかっこうだ。
前半、何とかついていって、後半にどうにか巻き返したい。
本間隆一や後藤俊介は、後半それほど速くないことは分かっている。
この中で後半が一番強いのは僕。
だからこそ、大事なのは加速だ。
とにかく序盤から中盤の加速が大事だ。
「on your mark」
そして、いつものルーチン。
100m先に漂うゴールラインは、今日も他人行儀だった。
タータンが目に青い。
やがて、競技場が徐々に静まり返っていき、そのときを、ただ沈黙とともに待つ。
「set」
号砲と同時に、僕の最後の戦いが始まった。
競技場に歓声が戻り、まず、先手をとったのは本間隆一だった。
だけど今日は調子がいまいちなのか、日本選手権のときのような爆発的な加速力はない。
何とか、食らいついていく。
後藤俊介もそれほどではない。
風が。
どこからか飛ぶように走ってきて、僕の耳元をかすめて後方へと消えていく。
本間隆一から、一歩ほど遅れている。
だけど前みたいに大きなリードは奪われていない。
後半でじゅうぶん巻き返せる。
隣の後藤俊介とは並んでいる。
本間隆一の調子がどうのというわけではないのだろう。
つまり僕がいい走りをしているということだ。
「のぞむく————ん!」
聞こえたような、聞こえていないような。
相変わらず、加奈がバカでかい声で応援してくれている気がする。
軸をつくって、地面を押す。
まっすぐに。
何か、いろいろなことを考えているようで、何も考えることができなかった。
ただ前へ。
未来へと、僕は足を伸ばしていった。
焦るな、焦るなと心の中で何度もつぶやきながら、中盤から追い上げ体制に入る。
ドライブフェイズ。
つなぎの走り。
かなりうまくいった。
本間隆一とはほとんど差はない。
温存していたハムストリングスの筋肉を使って、僕は一気に追撃にかかった。
ギアチェンジが、ガチっとはまった。
いける。
いけそう。
逸るが、硬くならないようにリラックスに努める。
本間隆一との差が徐々になくなってきた。
これは、いけそうだ。
どんどんゴールが近付いてきて、これはきついかと思ったところで本間隆一をとらえた。
抜き去ったのとゴールと、ほぼ同時だった。
だけど、10センチほど僕のほうが前に出ていたように思えた。
「……!」
速報タイムを見ると、10秒19の数字が出ていた。
A標準に、わずか0秒01届いていなかった。