第156話 フィジカルモンスター
ノックをして、ドアを開けて加奈が顔を出す。
その後ろから、にゅっと顔を出したのは、前キャプテンの十文字だった。
珍しい組み合わせだ。
「前原に、幅跳びやらせてみていい?」
十文字が言う。
許可を取りにきたらしい。
十文字はかつて跳躍系もたしなんでいた男なのだ。
「許可とらないとダメだって言うからさ」
「ダメですよね?」
恐る恐る加奈が尋ねる。
「前原さ、タッパあるし向いてると思うんだよ」
「ケガしたら大変だし」
「パワーもスピードもあるしさ」
「もうすぐグランプリもあるんですけど」
「ちょっとだけやらせていい?」
「ちょっとだけやってみていいですか?」
なかなかいいコンビネーションだ。
ミキちゃんは、少し考えているふうだった。
「監督には?」
「聞いたら、村上に聞けって言われた」
「ふうん…」
ずいぶん、信頼されているものだ。
しばらく、ミキちゃんは思案顔だった。
だけど、十分注意してやるぶんには幅跳びぐらいならいいだろう。
そんなふうに考えたのか、条件付けで許した。
「きっちりアップをして、ケガに注意してやること」
「はい!」
「了解!」
十文字と加奈がばたばたと戻っていく。
静寂が戻ると、くりんと新見が振り向いた。
ものすごく目がきらきらしていた。
「見に行かない?」
気になるらしい。
新見はミキちゃんにひざで詰め寄った。
「ちゃんと見ててあげないと、ケガするかも!」
「フォームチェックは?」
「練習終わって…、あ、ミキちゃんちでご飯食べてから!」
途中で思い付いて、新見は満面の笑みを浮かべた。
ミキちゃんは呆れた表情をして、それから僕を見て、また新見を見て突き放した。
「また?」
「いいじゃん、ねえ、ねえ、ねえ!」
「今晩はカップラーメンの予定だけど」
「あーん。そんなこと言わないでよう」
やいやい言いながら、3人で階段を下りていってアップに合流する。
すぐに始めるのかと思ったら、加奈はちゃんと短距離ブロックの全体練習をこなした。
しかも、いたって真面目な顔で。
最近は、練習に集中できているみたい。
何というか、ミキちゃんの教育が行き届いていると思った。
十分、後輩の手本になれてる感じがする。
成長したんだなあ…。
「よーし、やろやろ」
その後、十文字の号令で走り幅跳びのピットに移動。
当然、専門的な技術が簡単に身に付くはずもない。
とりあえず、助走から踏み切るところまでの練習を何本かしただけだ。
見物人が何人も集まってくる。
自分の専門分野だけに、稲森監督も腕組みをして見守っていた。
「じゃ、いきまーす」
軽く手を上げて、加奈が助走を切る。
短距離と幅跳びの助走とは、大差ないのか似て非なるものか。
僕にはよく分からないけど、とにかくスピードはすごかった。
イノシシのように走ってきて、踏み切り板のだいぶ前でばすんと踏み切る。
びゅーんと低い弾道で跳んでいって、中腰で着地して最後にべちゃっと前に倒れ込む。
まるでヘッドスライディングしたみたいになって、加奈はがばっと顔を上げた。
「うえーっ。ぺっぺっぺっ」
砂が口の中に入ったらしい。
「アサリみたいになったあ」
笑いが起こったけど、それは、詩織ちゃんと悠子ちゃんが記録を計るまでだった。
「6m55ですかね」
詩織ちゃんが言って、周囲の笑いがとまった。
本人は何も気付かずにまだぺっぺとやっている。
これは明らかに、幅跳びのほうが世界に近かった。
この場合の世界というのは、つまり、金メダル争いという意味だ。
「あ、悠子ちゃん、そこからじゃない」
しかし、すぐに十文字が訂正する。
どうやら、踏み切った場所から計っていたらしい。
跳躍種目は、踏切バーから計るのだ。
「踏み切り板の前から。そう、そこ、垂直に」
十文字が手で左を示して、きちんと、正確な位置から計り直す。
「6m02」
「そうだろ。いきなりそんな跳べるわけねえよ」
なぜか、勝ち誇るように十文字が笑った。
女子走幅跳の現在の日本記録は6m80だ。
7m跳べば、世界大会で金メダルが狙える。
初心者がいきなり6m55も跳べるわけがないのだ。
だけどすぐに、十文字が首をひねった。
「うん?でも跳んだことは跳んだ?」
正式に計れば6m02だ。それは間違いない。
だけど、実測で6m55の跳躍をしたことも確かなのだ。
踏み切りが合っていれば…。
「前原、もっぺん跳べ、もっぺん!」
それに気付いて、慌てて右手で助走路を示す。
「そんで、もうちょい高く跳んでみろ!」
「高く?」
「気持ち、高く!」
「気持ち高く?」
「そうだ!」
「ハイテンションでってこと?」
「いや…、気持ち…、えーい、そうだ!ハイテンションでぶわーっといけ!」
「イエーイ!」
踊りながらバタバタとジャージの砂を落とし、加奈が助走路に戻っていく。
それから、またものすごい勢いで走ってくる。
注目の踏み切りは、板の15センチぐらい手前。
ロングジャンプの世界では、めちゃくちゃ手前だ。
今度は少し高い跳躍か、しかしまた中腰で着地する。
つんのめりながらも、加奈はうさぎ跳びをするみたいに前にびよんと跳んだ。
踏切が甘い。
それに、無駄の多過ぎる着地だ。
「あはは。今度はべちゃってならなかった」
笑っているのは、加奈だけだった。
悠子ちゃんと詩織ちゃんがメジャーで計測する。
気になったのか、十文字が砂場まで歩いていって詩織ちゃんの手元を覗き込んだ。
「6m52です」
いたって冷静に詩織ちゃんが読み上げる。
ちなみに、今年の日本選手権の優勝記録が6m50くらいだったはずだ。
「うおーい!うおい!幅跳びやろうぜ幅跳び!」
十文字が興奮気味に肩を揺さぶって、加奈の頭ががくがくと揺れた。
「はわわ」
「金とれるぞ、オリンピックで金!」
「はわわわっ」
「ちょっと練習したら7mいけるぞ!」
「はにわわわわわわわわっ…!」
十文字が興奮するのも無理はない。
誰が見たって、潜在能力が高過ぎるのだ。
見ていたギャラリーは驚くやら呆れるやらだったが、稲森監督は無言だった。
軽く帽子をかぶりなおすと、ミキちゃんにひそひそ耳打ちをする。
それで、何も言わずにくるりと背を向けて戻っていった。
「はい。今日はここまで」
ミキちゃんが手を叩いて、十文字が悲しそうな顔をする。
「え、なんで?」
「今シーズンは100m一本。いいわね」
「でも…」
「でも?」
「いえ。何でもありません…」
ミキちゃんににらまれて、十文字の心は折れた。
だがとにかく、加奈はまた新たな可能性を示してくれた。
それがものすごく楽しみであり、一方では無性に悔しかった。
僕がもがいている泥沼の中で、一見、のろまそうな亀が優雅にすいすいと泳いでいる。
そんな悔しさだった。