第15話 村上美樹、辣腕を奮う。
やがてリビングに姿を現したのは、新見沙耶とミキちゃんだった。
ミキちゃんはそのままキッチンに来て、杏子さんの興味は新見に移ったらしい。
羨ましいことに、横に座ってほっぺたにキスをしたり体をべたべた触ったりする。
新見も、杏子さんのお気に入りの一人なのだ。
杏子さん、人にくっつきたがる人なんだよね。
「ちあきーっ、こっち来て座んな」
「え、でも」
「あんた主役だろーっ?」
もう、何かもうね。
逆にすがすがしいです。
キッチンに来たミキちゃんは、エプロンをつけて長い髪を束ねると、無表情のまま、千晶さんをしっしと手で追い払った。
これは文字どおり、追い払ったのだった。
「ごめんね。大丈夫?」
「大丈夫です」
千晶さんがリビングに向かって、キッチンには僕とミキちゃんが取り残された。
丁寧に手を洗って、ミキちゃんは冷蔵庫をじいっと覗き込み、何か思案顔で食材の下ごしらえを始める。
僕はただそれを見ているだけだった。
料理なんかできないけど、一応、聞いてみる。
「何か手伝う?」
「いい」
ミキちゃんは振り返りもせずに答えた。
邪魔かと思ったけど、追い払われないということは、いてもいいということだろうか。
「何つくるの?」
「適当に。から揚げとかサラダとか」
「そっか…」
いすに座って、何となくミキちゃんの料理姿を後ろから眺めた。
ポニーテールがよく似合っていた。
ミキちゃんが動くたびに、リズミカルに左右に揺れている。
しばらく眺めて、それから近づいていって鍋の中身を覗き込むと、パスタがお湯の中で躍っていた。
半分だけ、ミキちゃんが振り返ってそれからまた前を向いた。
「ごめん。邪魔?」
「別に」
同時にいろいろつくっているらしい。
タイマーが鳴って、鍋からパスタをあげる。
フライパンで手早くソースをつくってパスタをからめる。
そして丁寧に皿に盛りつけると、ミキちゃんはその皿を僕に差し出した。
食べろということらしい。
僕は驚いてミキちゃんを見たけど、相変わらず、仏頂面だった。
「え。食べていいの?」
「お昼食べてないんでしょ。2時間くらいはかかるから」
「やった。ありがとう!」
ミキちゃんがつくってくれたのは、ほうれん草とベーコンのクリームパスタだった。
ハーフサイズで、量は少ないけど美味しそう。
さっそく、いただきますを言って一口食べたけど、文句なしに美味しかった。
今までの人生で食べてきたパスタの中で、一番旨い。
「うまーい!」
「そう」
「ミキちゃん、すごい上手だね」
ミキちゃんは僕を一瞥したけど何も言わなかった。
無言で大量のポテトサラダをつくって、少し冷ましてから冷蔵庫に入れる。
そして、既に空っぽになっている僕の皿を見てちょっと眉を持ち上げた。
「もう食べちゃったの?」
「うん。美味しかった、ごちそうさま」
「お粗末様」
ぱっと僕の手から皿を奪い取ってシンクにつけると、再度、ミキちゃんは料理に取りかかった。
いつの間にか、イカの下ごしらえが終わっている。
さらに、から揚げをつくろうとしているところだった。
そこには、リズムがあった。
そしてミキちゃんは、そのリズムの上を流れる美しい旋律だ。
いすに座ったまま、何となく見とれていると何度か目が合った。
ミキちゃんは何も言わなかったけど、気になったのか、何度目かのときに口に出した。
珍しく、少し穏やかな表情だった。
「暇そうね」
「ん?」
「向こう行ってたら」
「うん。でも、ミキちゃん淋しいかなと思って」
「別に」
「だよね…」
こういう性格もあってだろう、ミキちゃんにはほとんど友達がいないようだ。
いつも一人だし、誰かと仲良く話をしている姿もあまり見かけない。
「ミキちゃんは、何で陸上部に入ったの?」
試しに聞いてみたけど、反応はなかった。
聞こえていなかったのかもしれない。
それとも話したくないのかなと思っていると、少したってから、ミキちゃんはぼそりとつぶやいた。
「昔、選手だったから」
初耳だった。
もっとも、ミキちゃんのことは何一つ知らなかったけど。
「ふうん。長距離?」
「短距離」
「ああ。だから詳しいのか…」
「星島君、高校どこだっけ」
珍しく、会話が弾む。
空気の抜けたサッカーボール程度に、弾みます。
「宮城県立、仲浜高校。聞いたことある?」
「ないわね」
「吹奏楽部が有名だよ。陸上はさっぱりだけど」
「ふうん。全中で優勝したのに、声かからなかったの?」
「高校?」
「埼玉星明とか」
埼玉星明は、名門中の名門だ。
毎年、インターハイの総合優勝を争っているような高校である。
インターハイは、出場できて当たり前みたいな。
「いや。話は来たんだけど、遠いなあと思って」
「宮城から埼玉なら、全然遠くないじゃない」
「まあ、今考えればそうなんだけど、地元でいいやって思ってさ」
「もったいない」
「今考えればね。個人競技なんだし、どこ行っても同じじゃんとか思って」
「同じってことはないでしょう」
「うん。調子乗ってたんだよね…」
中学時代は、監督もコーチもいなかった。
陸上のりも知らない、世界史の先生が顧問でいるだけ。
もちろん練習を見に来るわけでもないので、ずっと自主練みたいな感じだ。
練習はすべて自分で考えて、適当にやってきた。
スプリントも自己流。
それでうまくいっていたので、高校生になっても大丈夫だろうと思っていたのだ。
高校時代は監督がいたけど、さほど陸上に詳しい監督ではなく…。
「今、うまくいってるからって、次もうまくいくとは限らないのよ」
ミキちゃんの的確な指摘。
「そうそうそう。それはね、高校時代に痛感した…」
「それで、うちに入ったわけね」
「うん。まあそんな感じ」
もっとも、大学に入っても、それはほとんど変わらなかった。
普通入学で陸上部に入る選手は、二軍とは言わないが一軍半くらいだろうと自分自身で思っていて、ずっと気後れしていたからだ。
でも、今はミキちゃんが味方してくれている。
おかげで少しは、錆びついていた歯車が回り始めているのだろうか。
「でも、それで納得したわ」
ちらりと振り返って、ミキちゃんは僕を見た。
「え、何?」
「あんなでたらめな走り方の理由」
「そうですか…」
「あれであんなタイム出すんだから、不思議よね」
褒めているのかけなしているのかよく分からなかったけど、うれしかった。
僕のことをちゃんと見てくれている人が、今は、少なくとも一人、いることが分かったからだ。




