第145話 世界へ
とりあえず、予選は通ったのでよしとする。
まあ、及第点と言っていいだろう。
ジャージを着てシューズをはくと、トラックをあとにする。
少し降ってきそうかも。
湿気が、なんだか冷たい。
「お疲れ様」
「あ、うん」
例によって、トラックを出たところで、ぽつんとミキちゃんが待っていてくれた。
いつもいつも、ありがたい。
あとでちゃんとお礼を言おうと思いながらスポーツドリンクを一口飲む。
今度のは冷たくて美味しかった。
「お知らせがあります」
サブトラックに向かって歩き出すと、ミキちゃんが真面目な顔でそんなふうに言った。
何だかすごく気になる言い方だ。
僕はのどを鳴らしてスポーツドリンクを飲むと、ぺットボトルのふたを閉めた。
風が、静かにミキちゃんの髪を揺らしていた。
「な、なんだろ。嫌なこと…?」
「そうね。嫌なことではないけど、いいお知らせではないわね」
「何でしょう」
「1組で、後藤きゅん介が10秒17出したわ」
ミキちゃんが思い切りかんだのはともかく、僕はがっくりした。
代表選考について、おさらい。
①7月末までにA標準を突破しており、日本選手権で優勝すれば、代表確定。
これは分かりやすい。
亜由美さんがこのパターンだ。
②7月末までにA標準を突破して日本選手権で3位以内に入れば、代表内定。
これは、内定であって確定ではない。
でもまあほぼ間違いないだろう。
つまり、僕は日本選手権3位以内かつ7月末までにA標準突破が必須条件。
僕だけではなくて、みんなそう。
「なかなか、厳しいなあ」
「そうね。まだ調子も完全じゃないし…」
「うん…」
「でも、まだ代表決定まで1カ月あるから」
言いながら、ミキちゃんは髪をさらりとかきあげて僕を見た。
「とにかく、一つでも上の順位取れるように頑張って」
「うん。分かった」
「それと、結果がどうあれ一喜一憂しないように」
「もう既にしてしまった…」
「じゃあそれは忘れて。忘れたら今日はごちそうつくってあげるから」
「あ、忘れた。もーう忘れた」
スキップでダウンに向かう。
それから、ミキちゃんと一緒に近くのファミレスでご飯を食べる。
みんな大好き、驚きそうなハンバーグの店だ。
チーズハンバーグ皿を食べて戻ってくると、男子400mが始まるところだった。
そのときになってようやく、聡志とご飯を食べる約束をしていたのを思い出した。
しかし、聡志のほうもすっかり忘れていた。
最終組を走り終えて引き上げてくるときに、次の女子800mに出場する本多由佳里と会話をしたらしい。
「頑張ってっていったら、はい頑張りますって!」
ダウンを終えて、スタンドにいた僕のところにやってきて報告する。
それって、会話と言えるのだろうか。
僕はそんなふうに思ったけど、目を輝かせて報告する聡志を見ると何も言えなかった。
予選落ちをまったく気にしていないのが、すごいなと思った。
「お腹すーいたっ、お腹すーいたっ」
3000m障害を見ていると、加奈が大騒ぎしながらやってきた。
ちょんまげ真帆ちゃんと、金髪宝生さんが一緒だ。
それと、マネージャーの詩織ちゃんもいて、僕を見るとポケットから小さなビニールの包み紙に入ったものをくれた。
「はい。B標準突破したからごほうび」
「わーい」
ラムネだった。
昔懐かしい味で旨いのだ。
ま、B標準を突破しても意味ないんだけど、説明めんどいから省略。
「バナナでもたーべよっと」
ぺたんと椅子に座って、加奈はバッグからバナナを取り出してモグモグと食べた。
2本目のバナナを食べて、3本目を食べようとして真帆ちゃんに怒られている。
何かほほえましい。
トラックの上でもこんな感じでリラックスできればいいのにと思った。
「日本選手権出てないのにあれなんだけど」
応援に来ていた新見が、振り返って言う。
目がものすごく輝いているのは、西日のせいだけではないはずだ。
「最終日終わったら、ごちそう的なものはあるのかな?」
新見の言葉に、宝生さんがにこぱっと笑顔を見せた。
「姐御の料理、また食べたい!」
「あねご!」
「アネゴ!」
「姐御!」
何だ、この宗教は。
「その呼び方やめてくれない?」
教祖は不機嫌な表情だった。
「ミキちゃん!」
「ミキさん!」
「ミキ様!」
「ミキガミサマ!」
「人間ども、森から出ていけーっ!」
「神がお怒りだ!」
「あはははは」
絹大軍団は、例によってにぎやかだった。