第13話 大和撫子生誕記念
その後、僕と加奈はこっそり競技場を抜け出て、プレゼントを買いに行った。
監督に見つかったら大目玉なので、ご飯も食べずに急いで競技場へ戻る。
プレゼントをバッグにしまってスタンドに向かうと、競技はだいぶ進んでいて、女子400mハードルが行われている最中だった。
ゴール前のスタンドに、うちの陸上部が陣取っている。
僕たちもそこに移動した。
「お。どこいってたんだよ」
ハギワラサトル…、じゃなくて橋本聡志が僕を見つけて言った。
陸上競技は、基本、個人のスポーツ。
出番はばらばらだから、固まって行動する必要はあまりないのだが、どこにも姿が
見えないのでいぶかしく思っていたらしい。
だけど、僕の横に座った加奈を見て、聡志はふんと鼻を鳴らした。
「なんだ。いちゃついてたのか」
「プレゼント買いにいってたんだよ」
「ああ。何買った?」
「秘密。ハギワラは?」
「誰だよ、ハギワラって」
「橋本のロシア語読み」
「ロシア人では、アーリマセン!」
びしびしと、聡志は僕の胸にチョップをした。
ロシア人っぽく言いたかったらしいけど、そんな器用な物真似を期待してはいけません。
不器用ですから。
基本、面白い人ではないからね。
人のことは言えないけど…。
「もうちょっとロシア人っぽく言えよ」
言うと、聡志は顔をしかめた。
「ロシア語取っとけばよかったか。ハラショーしか知らねえもんな」
「第二外国語、何だっけ?」
「ドイツ語」
「一緒か」
「星島、何かしゃべってみろよ」
「グーテンターク」
「それだけ?」
「グーテンターク。ダンケシェーン…」
新見と千晶さんに笑われた。
でも、ほとんどの大学生にとって、第二外国語はこんなものです。
一通り、競技が終わったのは4時過ぎだった。
稲森監督が全員を呼んで総括して、後片づけをし、それで現地解散となった。
だけど、下っ端の僕らが大学まで荷物を運んで片付けることになって、僕と聡志とミキちゃんは1年生を率いて絹山駅に向かった。
「うー。腹減ったな」
結局、昼は何も食べていない。
そればかりか朝も軽くしか食べていないので、お腹が空いて仕方なかった。
「さっさと終わらせて行こうぜ、サトル」
「だから誰だよ、サトルって」
「ロシア語でおね」
「…ピロシキ!」
その場にいる全員、無反応。
まあ、面白い人ではないので…。
「今度まで勉強しとけ。な?」
「おう…」
電車に乗って二駅、金谷山駅で降りてキャンパスへ。
小さな駅で、駅前にはコンビニが1軒と自販機が数台と大衆食堂しかない。
郊外の山の上で、大学以外には何もないようなところだ。
金谷山駅から坂を上っていくと、正面左手に講義棟やら学生協やらサークル棟がある。
右手には野球場やらサッカーのグラウンドがあり、陸上部のトラックもある。
陸上部のトラックは金谷山駅から見れば一番手前だ。
「はい、お疲れさん」
アスファルトの道路から、階段を降りてトラックへ。
記録会に出なかった選手たちが練習をしていて、そのうちの何人かが僕たちのほうに走ってきた。
「新見はどうだった?」
やはり気になるらしい。3年生の荒川陽次さんが息せき切って尋ねてきた。
「追参でした。11秒09」
答えると、荒川さんは驚いたようにぴゃっと両手を挙げた。
何それかわいい。
「11秒09!?」
「11秒09」
「マジでか!すげーな、見たかったなあ!」
そりゃそうだ、普通、驚きます。
日本記録が11秒23なんだから。
「カメラ入ってましたから、あとで動画見れると思いますよ」
「そか。しかし、11秒09かあ!」
数名で、わいわい言いながら戻っていく。
僕の結果を聞きたがる人間など誰もいない。
悲しいかな、それが現実だった。
荷物を部室に片付けて、ようやく僕たちもそこで解散になる。
そのまま帰る者もあり、ついでに軽く練習していく者もあったが、僕と聡志と加奈は、千晶さんの誕生日会に直行することにした。
トラックの入口の階段を上り、道路に出るとキャンパスのほうに坂を上っていく。
日曜日の夕暮れ。
学生の姿はまばらだが、どこか遠くのほうから演劇部の発声練習の声が聞こえてくる。
「ね、準備とか大丈夫なのかな?」
加奈が、大きな身体を曲げるようにして僕の顔を見た。
「準備?」
「ケーキとかさ」
そんなこと、僕に聞かれても困る。
「さあ。誰かするんじゃないの」
「食べ物とか大丈夫かな?」
「だからおれは知らないっての」
繰り返すと、加奈は唇をとがらせてばたばたとアスファルトを踏みつけた。
土煙が舞う。
「何それ。無責任すぎ!」
「そんなこと言われても誘われただけだもん」
「なんでちゃんと聞いておかないの!」
「お前から聞いたんだよ!」
「…ああ!」
ポンと手を叩く加奈。
どうしてこう、バカばかりなのか…。
キャンパスを横切って、金谷山駅とは反対の北門から出て、大学のある山を歩いて下りる。
15分ほど歩けば、杏子さんのマンションに到着だ。
18階建ての高級マンションで、うちの安アパートとは大違い。
金谷山駅からは2キロぐらいでちょっと遠いが、この辺は地下鉄の東西線が走っていてひらけている。
しかも、杏子さんのマンションは駅近くだった。
「いいとこ住んでるなあ」
と、聡志がマンションを見上げる。
もちろん、聡志のアパートなんかとも比べ物にならない。
僕のアパートも似たようなもんだけど…。
「いいとこだよなあ。これ押すのかな?」
「そうじゃね。押せ押せ」
「お前押せよ」
「お前が押せよ」
「あたし押そっと!」
「どうぞどうぞ」
「なんか違うな…」
エントランスでドアを開けてもらって、エレベーターで11階へ。
隅っこにある1105号室が浅海杏子さんの部屋だった。
もう、エレベーターホールとか通路とか、ホテルみたいで普通のマンションとは違う。
だって、1階に郵便受けがあるだけの部屋(?)があるんだよ。
そこだけでうちの部屋の何倍もあるんだもの。
びしっと監視カメラが付いてて、チラシ配りなんかできる雰囲気じゃないし。
「おーう。入って入って」
玄関のドアを開けて出てきた杏子さんは、早くも少し酔っているようだった。
いつも明るくて愉快な杏子さんだが、酔うとそれがさらに顕著になる。
今日もさっそく、僕の顔を見るとにへらと笑った。
「お泊まりセット持ってきた?」
「何の話でせう」
「あはははは。照れちゃって」
要するに酒癖がよろしくない。
杏子さんはウヒヒと笑いながら僕の顔を覗きこみ、歩いていくとオレンジ色のソファーにどすんと座った。
中に入ったのは初めてだけど、やたらと広いリビングとキッチンだ。
ベッドルームは別なのか、奥のほうに扉がある。
キッチンでは、千晶さんがせっせと料理の準備か何かをしていた。
自分の誕生日会のはずなのに…。
「星島、こーこ」
おずおずとリビングに足を運ぶと、杏子さんが自分の横を手でバンバンと叩いた。
聡志と加奈は杏子さんを恐れてキッチンに避難。
的確な判断だといえよう。
これは学生・社会人を問わず、飲み会での基本的な常識ともいえる。
すなわち、酔った先輩のそばからは離れるに限る。
「はーやく!」
「は、はい」
だけど、名指しされてしまったので仕方あるまい。
歩いていって、おそるおそる隣に座ると、杏子さんはぴたりと体を密着させてきた。
これはちょっとうれしかった。
「ちあきーっ、グラスと氷ちょうだーい」
「はーい」
「それと何かつくってーっ」
「はーい」
何かがおかしい。
グラスと氷を運んできた千晶さんと目が合う。
千晶さんは眉毛を動かして、軽く笑って戻っていった。
こういう扱いには慣れているのかもしれない。
「よーし。お姉さんがお酌してやるからな」
指でぽいぽいとグラスに氷を入れると、杏子さんは手を伸ばしてブランデーのボトルをつかんだ。
極めて雑に、どばーっと注ぐ。
適当にかきまぜて、ブランデーが少しこぼれたのか、指を僕の口元に持ってくる。
「舐める?」
「いや…」
「あははは。舐められるほうがいいってか」
もう無視するしかない。
自慢じゃないけど、あまりアルコールは得意ではない。
それはアスリートだからという理由ではなく、単に体質によるものだろう。
匂いだけで酔ってしまう気がする。
ビールとかならともかく、匂いがきついお酒は駄目なのだ。
「星島、今日、自己ベストだったんでしょ」
杏子さんに言われて、ちょっと驚いた。
僕の自己ベストなんて誰も知らないと思っていたからだ。
「よく知ってますね」
「よかったじゃん」
「あ、はい」
「はい、じゃあ、乾杯」
チンとグラスを鳴らす。
僕はちょっとだけ飲んで、それから皿の上のカシューナッツをかじった。
杏子さんはじーっと僕を見ていたけど、ふいに僕の首に腕を絡ませてきた。
その距離、約30センチの超接近遭遇だった。




