第123話 夜
その夜、ふと目が覚めると、隣で寝ているはずのミキちゃんの姿がなかった。
トイレでも行ったのだろうか。
瞼を閉じたまま戻ってくるのを待っていたけど、なかなか戻ってこなかった。
時計を見る。
3時過ぎだ。
もぞもぞと起きだして、寝室を出てリビングを覗いてみる。
いた。
ソファーに座ってノートパソコンに向かっている。
歩いていって液晶ディスプレイをそっとうかがうと、陸上のビデオを見ていた。
古い映像だった。
僕に気付いて、動画を閉じるとイヤホンを外してさらりと長髪をかき上げる。
「起こしちゃった?」
「ううん。何見てたの?」
「昔のビデオ」
「ふーん。見せて見せて」
「いいけど…」
何かと思ったら、ミキちゃんが世界ユースで銀メダルをとったときのビデオだった。
海外の映像らしく、アナウンサーが英語ではない言語で何かしゃべっている。
たぶん、イタリア語とかポルトガル語とかそのへんだ。
古いビデオから起こしたのか、少し映像の質は悪かった。
それでも、現役時代のミキちゃんの走りを見ることができた。
「すごい」
思わず僕は呟いた。
ミキちゃんの走りを見るのは初めてだったが、それは中学1年生の走りではなかった。
何歳か、年齢をごまかしているんじゃないかと思ったほどだ。
でかい黒人選手の中に、一人、小さなミキちゃん。
鮮やかなスタート。
ぐいぐいと加速していって一気にトップに立つと、後半も落ちそうで落ちない。
中学生だけにパワーはないけど、全身がバネみたいだ。
しなる鞭のような感じ。
表現は難しいが、氷上を滑るような、空を飛んでいるような。
そんな感じで、女子スプリントの完成型がそこにあるように思えた。
天才。
二文字で片付けてしまうのはどうかと思うが、まさしくそれだった。
今まで僕は、新見や加奈のことを天才だと思っていた。
しかし、まさかその上がいるとは思っていなかった。
フィジカルが足りないだけで、技術的には今の新見のはるか上をいっていた。
中1でここまでできるのは、天性以外の何物でもないだろう。
(こりゃすごい…)
繰り返し映像を見る。
5レーンの、優勝した黒人選手との差はほんのわずかだった。
3レーンがミキちゃん。
6レーンの選手が3位に入り、これがクリスティアーネ・ベッカーだ。
内側から中学1年の日本人がすっ飛んできたら、それはびびるに違いない。
ゴールしたあと、真っ先に駆け寄って何か言葉をかけている。
このときはまだ英語はさっぱりなようで、ミキちゃんはただ、無邪気な笑顔。
今みたいにひねくれてない、自然な表情だ。
だけど、これから約半年後。
不世出の天才は、事故のせいでトラックから姿を消してしまうことになる…。
「このころがピークだったかもしれないわね」
見ていると、ミキちゃんはそんなふうに言った。
「そっかな?」
「そう思うようにしてるの」
「そっか…」
「走ってたのが夢みたい。もう記憶が薄れてきてて、これが本当に自分なのか…」
「実感がない…?」
「そうね」
寂しそうにミキちゃんは言った。
記憶の中で薄れゆく、過去の実体験。
だからときどき、こうして昔を懐かしんでいるのだろう。
自分の過去を忘れないように、だ。
「ミキちゃん」
ぎゅっと、手を握って水沢さんみたいに見つめてみる。
「おれが必ず、ミキちゃんをまた世界に連れてくから」
そのとき、僕は初めてそれを口に出した。
「え、うん…」
「とにかく、絶対連れていくから」
「うん。期待してる」
柔らかく微笑んで、ミキちゃんはキスをしてくれた。
ほかの、誰でもない。
僕が、ミキちゃんを世界に連れていく。
その夜、僕はそれを心の底から誓った。