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対角線に薫る風  作者: KENZIE
123/206

第123話 夜

その夜、ふと目が覚めると、隣で寝ているはずのミキちゃんの姿がなかった。


トイレでも行ったのだろうか。

瞼を閉じたまま戻ってくるのを待っていたけど、なかなか戻ってこなかった。

時計を見る。

3時過ぎだ。


もぞもぞと起きだして、寝室を出てリビングを覗いてみる。

いた。

ソファーに座ってノートパソコンに向かっている。


歩いていって液晶ディスプレイをそっとうかがうと、陸上のビデオを見ていた。

古い映像だった。

僕に気付いて、動画を閉じるとイヤホンを外してさらりと長髪をかき上げる。


「起こしちゃった?」


「ううん。何見てたの?」


「昔のビデオ」


「ふーん。見せて見せて」


「いいけど…」


何かと思ったら、ミキちゃんが世界ユースで銀メダルをとったときのビデオだった。


海外の映像らしく、アナウンサーが英語ではない言語で何かしゃべっている。

たぶん、イタリア語とかポルトガル語とかそのへんだ。

古いビデオから起こしたのか、少し映像の質は悪かった。

それでも、現役時代のミキちゃんの走りを見ることができた。



「すごい」



思わず僕は呟いた。

ミキちゃんの走りを見るのは初めてだったが、それは中学1年生の走りではなかった。

何歳か、年齢をごまかしているんじゃないかと思ったほどだ。


でかい黒人選手の中に、一人、小さなミキちゃん。

鮮やかなスタート。

ぐいぐいと加速していって一気にトップに立つと、後半も落ちそうで落ちない。

中学生だけにパワーはないけど、全身がバネみたいだ。

しなる鞭のような感じ。

表現は難しいが、氷上を滑るような、空を飛んでいるような。

そんな感じで、女子スプリントの完成型がそこにあるように思えた。



天才。



二文字で片付けてしまうのはどうかと思うが、まさしくそれだった。

今まで僕は、新見や加奈のことを天才だと思っていた。

しかし、まさかその上がいるとは思っていなかった。

フィジカルが足りないだけで、技術的には今の新見のはるか上をいっていた。

中1でここまでできるのは、天性以外の何物でもないだろう。


(こりゃすごい…)


繰り返し映像を見る。


5レーンの、優勝した黒人選手との差はほんのわずかだった。

3レーンがミキちゃん。

6レーンの選手が3位に入り、これがクリスティアーネ・ベッカーだ。


内側から中学1年の日本人がすっ飛んできたら、それはびびるに違いない。

ゴールしたあと、真っ先に駆け寄って何か言葉をかけている。

このときはまだ英語はさっぱりなようで、ミキちゃんはただ、無邪気な笑顔。

今みたいにひねくれてない、自然な表情だ。


だけど、これから約半年後。

不世出の天才は、事故のせいでトラックから姿を消してしまうことになる…。


「このころがピークだったかもしれないわね」


見ていると、ミキちゃんはそんなふうに言った。


「そっかな?」


「そう思うようにしてるの」


「そっか…」


「走ってたのが夢みたい。もう記憶が薄れてきてて、これが本当に自分なのか…」


「実感がない…?」


「そうね」


寂しそうにミキちゃんは言った。


記憶の中で薄れゆく、過去の実体験。

だからときどき、こうして昔を懐かしんでいるのだろう。

自分の過去を忘れないように、だ。


「ミキちゃん」


ぎゅっと、手を握って水沢さんみたいに見つめてみる。


「おれが必ず、ミキちゃんをまた世界に連れてくから」


そのとき、僕は初めてそれを口に出した。


「え、うん…」


「とにかく、絶対連れていくから」


「うん。期待してる」


柔らかく微笑んで、ミキちゃんはキスをしてくれた。


ほかの、誰でもない。

僕が、ミキちゃんを世界に連れていく。

その夜、僕はそれを心の底から誓った。

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