第11話 新見沙耶
内心、僕はガッツポーズをした。
追い風1.2mとはいえ、10秒台の世界で自己ベストを0秒22も更新することは、まさに大躍進と言ってもいい。
シーズン初戦、これはもう最高の入りだと思った。
「お疲れ様」
ゴール地点の横のほうで、ミキちゃんが待っていた。
少しはうれしそうな顔をしてくれてもよさそうだが、相変わらずの仏頂面だった。
「スタート、あれでよかったかな」
呼吸を整えながら聞いてみたけど、ミキちゃんはいつもの調子だった。
「ここからじゃ見えないでしょ」
「それもそっか」
「後半はバタバタしてたから30点」
さすがによく見ている、僕は軽く笑った。
こんなふうに笑ったのは久しぶりだった。
長い、暗く湿ったトンネルを一気に抜けたような気分だった。
たった2週間で、何が変わったというわけじゃないと思う。
気持ちの部分だ。
とにかく、まだまだ僕は速く走ることができる。
きっとそうに違いないと思った。
「なんかミキちゃんにお礼しないと」
「何で?」
「いや、いろいろしてもらったから」
「別に、私は、何もしてないじゃない」
ミキちゃんの眉毛が持ち上がったけど、怒っているわけじゃない。
多分、照れていたんだろう。
じゃあねと言って、ミキちゃんは忙しそうに仕事に戻っていた。
僕はその背中を生暖かい目で見送って、もらったスポーツドリンクを飲みながらあとの組を見守った。
男子B組は高柳さんが10秒23の好タイム。
アホだけど、さすがに全国レベルの選手だけある。
だけど、C組以降は全部追い風参考記録となってしまった。
公認されないタイムトライアルほど空しいものはない。
「よかったんだけどな…」
走り終わって、柏木さんがぼそりと呟く。
柏木さんは圧巻の10秒12だったのだが、それは徒労に終わった。
何秒で走ろうが、日本選手権や世界選手権の参加記録としては考慮されないのだ。
「あのくらい、柏木さんならいつでも出せるじゃないですか」
答えると、柏木さんはいかにもスポーツマンらしく快活に笑った。
「何だよ。自分が調子よかったからって」
「え、いや、そんなことないですけど」
「前半はよかったな」
「そうですか?」
「もう少し加速できたらもっとよくなるぞ」
「は、はい」
柏木さんは前キャプテンで、彫りの深い二枚目で、肩幅の広い見事な体の持ち主だ。
自己ベストは10秒11で、日本歴代5位。
絹山大学の堂々たるエースで、真面目ででしゃばらないけど、困ったときは任せとけという感じで頼りになる。
引っ張っていくタイプとは反対の、みんなの背中を押していくようなキャプテンだった。
現キャプテンとは、何もかも大違いだ。
欠伸をしながら頭をかいている高柳さんを見て、僕はため息をついた。
彼は、みんなの足を引っ張っていくタイプ…。
「お。出てきたぞ」
高柳さんの声で見ると、男子が終わり、女子A組が終わって、新見が登場するB組がレーンに姿を現した。
若干19歳で日本記録を塗りかえ、10秒台も期待されている天才スプリンターのシーズン初戦。
やはり、注目度が違う。
カメラを向けている人が大勢いた。
観客などいない記録会なので、ほとんど全員が出場選手のはずだが、一ファンに戻ってその勇姿を写真や動画に収めようと躍起になっている。
「サトル、賭けようか」
僕は隣に座る聡志に持ちかけた。
聡志は怪訝な表情だった。
「サトルって誰だよ」
「日本記録出たらサトルの勝ち。出なかったらおれの勝ち」
「どうせ追い参だろ。てかサトルって誰だよ」
「おれが勝ったら北方領土返せよな。代わりに山梨県やるから」
「ロシア人じゃねえし!てかおれの地元と交換すんな!群馬あたりにしとけ!」
政治的な意図は一切ないです。いろんな方、ごめんなさい…。
スタンドで携帯やデジカメを手にしているのは素人だが、本職のプレスも何人かゴール地点にいるようだ。
テレビカメラも入っていることから、注目度の高さが分かる。
日本記録は、11秒23。
果たして今回はどうか…。
(お…)
準備ができたようだ。
選手たちがスタートラインについて、競技場が奇妙に静まり返っていった。
そのとき、競技場内のほぼ全員の目が100mのスタートに注がれていた。
正確には、新見沙耶個人にすべての視線が集まっていた。
ほかの種目の選手も、競技を中断して100mに注視する。
一瞬の静寂の後。
号砲が鳴って、選手が一斉に飛び出した。
ゴール地点からだとよく分からないが、きっといつものように、スタートからいきなり頭一つ抜け出たのだろう。
スプリンターとして、新見沙耶は決して恵まれたフィジカルをしているとは言えない。
身長は165センチくらい。
体重は知らないが、アスリートとしてはいたって普通の体格だ。
では、技術的にはどうかというと、これも特徴的に際立つものは何もない。
ロケットスタートというわけではないのだが、すっとスタートして気付くともう頭一つ抜け出している。
そして中盤でリードを広げ、後半で相手を置き去りにしてしまう。
速さや力強さはまったく感じられないのだが、天才とは得てしてそういうものなのかもしれない。
高い技術を、それを目立たせることなく、当たり前のように発揮しているのだ。
「うおおおおぉーっ!」
「ひゃーっ!」
新見のゴールと同時にスタジアムが大きくどよめいた。
速報タイムは11秒09を示していた。
「あああーっ…」
だけどすぐに追い風2.3mと表示されて、歓声がため息に変わった。
ため息が、大きな拍手に変わる。
追い風2.0mなので、参考記録にしかならない。
しかし、すさまじいタイムだ。すさまじいタイムだ!
すさまじいタイムなだけに、風が、惜しかった…!
あとちょっとだったのに…!
新見は惰性でちょっとだけ走っていって、戻りながらタイムと風速を確認して、微妙な笑顔を見せた。
うれしさ半分、悔しさ半分といったところだろうか。
だが、追い風参考ながらもこの好記録に、記者たちは新見に一斉に群がった。
僕にはまるで、それが別世界の光景のように見えた。
「あーあ。なんか嫌になるな」
高柳さんが言いながら欠伸をした。
格の違いを見せつけられてしまったというか、そんな感じなのだろう。
僕も含めて、何人かは同じ気持ちだったと思う。
ただし、キャプテンのセリフとしては問題だ。
「さ、ダウン行くべ」
記者に捕まっている新見を除き、絹大短距離陣はメイントラックを後にする。
生ぬるい風が、無性に寂しかった。




