第1話 絹大春季トライアル
風は、バックストレートの彼方から、トラックの出口に向かって吹いていた。
山の中腹で、トラックは高さ5mほどの強固な石垣にぐるりと囲まれていた。
バックストレートのほうには緑のフェンスが張られていて、精いっぱい背伸びをすると、山の下の町、絹山市を一望することができた。
地形の関係か。
風は、トラックの向こうからホームストレートの手前へと、対角線に吹くのが常だった。
今も薫る、春の、さわやかな風。
通常は心地よいであろうその風が、分厚い大気の壁となって襲いかかってきて僕を苦しめていた。
「……っ!」
ゴールラインを駆け抜けて、僕はすべてから解放された。
惰性で、鮮やかなオレンジ色のタータンの上をしばらく走っていく。
やがてゆっくりと立ち止まり、息を吐きながら蒼天を仰ぐ。
鼓動が、心臓からこめかみへとつながっていた。
呼吸を繰り返しながら、僕は手を伸ばして紫色のスパイクのひもを緩めた。
手のひらにじんわりと浮かんだ汗が、やけに不快だった。
四月上旬。
私立絹山大学、陸上競技部練習トラック。
そこでは多くの陸上部員が部内の春季トライアルに参加していた。
4月とは思えぬ陽気の中、それぞれが自分の種目にエントリーして競技を行っている。
「高柳さん、10秒39。星島君、10秒86」
一人、ゴール地点に立っていたマネージャーのミキちゃんがタイムを読み上げた。
10秒86というと、インターハイでもせいぜい決勝7位というところだろう。
むろん、インカレの参加標準記録にも届かない。
(ふう…)
頭のてっぺんからつま先まで、どこにも悪いところはない。
コンディションはいたって普通で、別段、体調が悪いというわけでもない。
要するに、これが実力で、僕はそんなレベルの選手なのだった。
「そこどいて。次の人来るから」
長髪をかきあげながらミキちゃんは冷たく言ったけど、それはまあいつもどおりだ。
トラックの上から外の芝生のほうへ、僕は歩いていった。
遠くのほうでロングジャンプをしているのが見えた。
参加人数の少ない投擲系の種目は、トライアルをすべて終えたようだ。
絹山大学陸上部の、肩口に赤いラインが入った白いジャージを着る。
トラックは、内側のレーンを中長距離チームが。
外側のレーンをスプリントチームが使っていた。
スタートしたばかりの1500mの選手たちが、すさまじいスピードで目の前を駆け抜けていった。
「星島、お前相変わらずスタートひでえな」
よいしょっと芝生の上に腰を下ろすと、一緒に走ったキャプテンに声をかけられた。
3年生の、高柳智之。
うちの大学は、伝統的に3年生がキャプテンになる。
「そうですかね」
「なんか前よりひどくなってっぞ」
偉そうな表情で、高柳さんは先輩ぶって鼻を鳴らした。
「そうですかね」
「まあ、あれだ」
一瞬、沈黙して、
「まあ…、なんだ。まあ頑張れや」
いいセリフが思い浮かばなかったらしい。
高柳さんは基本的に残念な人である。
キャプテンとアホを両立する人なのだが、そのスプリントは素晴らしく、全国的にも有名な選手だ。
去年の日本選手権では決勝6位。
シンプルに言えば、日本で6番目だ。
むろん、トップアスリートと呼んでも差し支えないだろう。
僕なんかとは大違いだ。才能が違うのである。
(才能、か…)
僕も、小学校のころは神童と呼ばれていた。
意気揚々と中学校に入り、3年のときに全中で優勝。
中学歴代8位の10秒79をマークした。
将来、世界陸上、そしてオリンピックに出る。
漠然とそう思っていたし、きっとそうなると思っていた。
しかし、高校に入ってからはまったく伸びなかった。
分かりやすく壁にぶつかり、中学校のときに出した記録すら更新できず、結局、東北大会の決勝7位が最高で、インターハイには一度も出場することができなかった。
一言で済ますとすれば、早熟だったのだろう。
陸上の世界ではよくある話だ。
だけど、僕は。
全国的にも陸上の名門として知られる絹山大学に、わざわざ普通入学で入った。
部員数52名。
うち、中・長距離ブロックは10名、フィールド専門が5名、マネージャーが2名。
残りの35名が短距離ブロックの、まさにスプリント王国である。
毎年のようにインカレチャンピオンや日本チャンピオンを輩出していて、インターハイに出場した経験すらないのは、僕を含めてほんの数人だった。
そこまでして、陸上が続けたかったのか。
今となってはもう、自分でもよくわからない…。
「お。沙耶だ」
キャプテン高柳の声に、スタート地点を見る。
しかし、100m先の人物など、誰が誰だか判然としない。
高柳さんはもう、とにかくアホみたいに目がいいのだ。
アホみたいに、というと高柳さんがアホじゃないように聞こえるけど…。
「……」
黙って見ていると、やがて、はるか遠く。
スタートラインで号砲が鳴って、選手が走り出した。
それが新見だということはすぐに分かった。
筋力は男子に劣るので力強さはないが、正面から見ていてもほとんどブレがない。
まるでトラックの上をすーっとスケートで滑っているような、スプリントのお手本のような走りだ。
約11秒後、隣のレーンを走る山田千晶さんをあっという間に置き去りにして、新見沙耶はゴールラインを駆け抜けた。
千晶さんも日本のトップクラスにいるアスリートなのだが、正直、ものが違う。
「新見さん、11秒21。山田さん、11秒81」
マネージャーのミキちゃんが、淡々とタイムを読み上げる。
新見沙耶が走り過ぎた瞬間、風が僕の頬を撫でたけど、それはどこか他人事だった。
(うはあ…)
感心するやら感嘆するやら、僕は思わずぽかんと口を開けた。
ゴールラインの後ろのほうまで走っていって、一言、二言、新見沙耶と山田千晶さんが言葉を交わす。
千晶さんはそのままスタート地点に向かって歩き出して、新見はゴール地点へと戻ってきてミキちゃんの手の中の計測機を確認した。
僕からは見えないが、11秒21と出ているはずだ。
新見は笑顔を浮かべて、覗き込むようにミキちゃんを見た。
「本当?ちゃんと計った?」
さらりとした明るめのショートヘアで、腰まで届く黒髪のミキちゃんとは対照的だ。
白いTシャツに藍色のハーフパンツ姿で、オレンジ色のタータンの上によく映える。
「計ったわよ」
と、無愛想にミキちゃん。表情も対照的だ。
「本当に?」
「うん」
「間違いない?」
くどい新見に、短気なミキちゃんがぴくりと眉を持ち上げた。
「バカにしてるの?」
「あはは。ごめんごめん」
新見は謝りながらさわやかな笑顔を見せた。
いかにもスポーツマンらしい快活な性格で、そういうところも魅力的だった。
「私はただタイム読んでるだけ。計ってるのは計測器」
「あはは。そうでしたそうでした」
笑顔のまま、ミキちゃんと軽くやりあう。
今の女子100mの日本記録は、新見自身の持つ11秒23。
公認の記録会じゃないから正式記録にはならないけど、やや強めの向かい風の中で、11秒21というのはとにかくとんでもない記録だ。
スポーツ記者がいたら大騒ぎするだろう。
SNSに写真付きで載せたら、それなりに話題になるはずだ。
ネットニュースのトップに載るかも…。
(はー……)
なんとなくみじめになって、僕は緑色の芝生を引っこ抜いてはほうり投げた。
芝生の下から小さな虫が顔を出して、慌ててどこかへ逃げていった。
まるで、今の僕の気持ちみたいに。
「沙耶、すげえじゃん。ドーピング?」
新見本人の代わりに高柳さんが大騒ぎする。
脱いだスパイクを両手に持って、拍手みたいにばんばんと底をぶつけている。
「絶対ドーピングだ。ドーピングドーピング!アハハハハ!」
子どもだなあ。高柳さんを見て僕はそう思った。
というか、アスリートに対して、冗談でも言ってはいけない言葉だ。
自分もアスリートのくせに。
つまり、アホ…。
「空飛びそうなくらい速かったぜ。そのままどっか飛んでくかと思った。アハハハハ…」
「空を飛ぶ夢はよく見ますけどね」
新見が大人の対応をすると、高柳さんは鼻の穴を膨らませた。
「へーえ!沙耶って意外とエロいんだな!」
「え?」
「空飛ぶ夢って性的欲求不満なんだってよ!」
はい、レッドカード。
「あゆさーん!キャプテンがセクハラするんですけどーっ!」
即座に、新見が亜由美さんを呼ぶ。
フィールドの中央付近で柔軟をしていた長距離ブロックの鏑木亜由美さんは、聞き取れなかったのか、こっちを向いて耳に手を当てた。
「えーっ?」
「キャプテンがセクハラするんですーっ!」
「せくはらーっ?」
「ミキちゃんのお尻触ろうとしてましたよーっ!」
大きな声で叫ぶような内容ではないが、効果は抜群だった。
亜由美さんはゆっくり立ち上がり、こちらに向かって歩き始め、それからだんだん駆け足になり、徐々にスピードを上げていった。
「とーもーゆーきーっ!」
最終的に、すさまじい勢いで走ってくる。
ものすごい形相で、せっかくの美人が台無しだ。
「ちょっ、触ってない、まだ触ってないいいっ!」
まだ、の意味は分からないが、慌てて高柳キャプテンが逃げ出す。
ひいひい言いながら、高柳さんは石垣沿いにトラックをぐるりと一周した。
しかし、いくら女子とはいえ、日本屈指の長距離ランナーにゴールを定めない追いかけっこで勝てるわけもない。
トラックの入口付近であっさり亜由美さんに追いつかれて、それはもう鮮やかな、美しいフォルムの後ろ回し蹴りを食らって吹っ飛んだ。
せいぜい、400mくらいがスプリンターの限界なのだ…。
「キエエエエーッ!」
高柳さんがふっとぶ映像に一瞬遅れて、亜由美さんのものすごいおたけびが聞こえてくる。
何か、弱みでも握られているのかもしれない。
うちの陸上部には美人が多くて、亜由美さんもかなり美人なんだけど、なぜか超絶キャプテン高柳と付き合っている。
絹大陸上部七不思議のうちの一つだ。
「勝手に私の名前出さないでよ」
高柳さんが亜由美さんにマウントをとられるのを確認してから、ミキちゃんが文句を言う。
眉毛がきりりと斜めになっていた。
「あはは。ごめんごめん」
新見はミキちゃんを軽くいなしながら僕の横に座った。
僕はちょっと緊張して新見を見たけど、新見の視線は僕には向けられていなかった。
「ミキちゃん、聞きたいことあるんだけど」
「何?」
「山倉先生のこと、グーで殴ったって本当?」
それはまた強烈な質問だ。
そして、それが事実ならかなりすごい事件だ。
だけど、その質問を完全に無視して、表情も変えず、視線すら合わさずに、ミキちゃんは右手でしっしと新見を追い払った。
一瞬、新見はきょとんとした表情を浮かべ、それから真面目な顔でミキちゃんを見た。
「ごめん。怒った?」
「監督が呼んでる」
「あ、そっか」
ミキちゃんの言葉どおり、100mのスタート地点で稲森監督が新見を呼んでいる。
やや分かりにくいが、座ってないでさっさと行け、のジェスチャーだったらしい。
「怒ってない?」
新見が念を押すと、ちらりとミキちゃんが新見のほうを見た。
「怒ってないわ」
「本当?」
「うん」
「絶対に?」
「…怒るわよ」
「あははは」
お約束に、新見が一人で笑う。
「じゃ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
「山倉先生の話はまたあとで!」
「いいから」
滞在時間わずか数十秒。
新見は立ち上がって、僕を見てちょっと微笑んで、そして軽やかに駆けていった。
ごく小さな風が、彼女のあとに残った。
新見沙耶は、とても魅力的だと思う。
いつもさわやかで明るくて、笑顔がとてもいい。
いかにもスポーツマンらしい健康的な子で、何を隠そう、僕はずっと前から密かに新見に憧れていた。
だけど悲しいかな、彼女にはまったく近寄れないのが現状だった。
ろくすっぽ口を聞いたこともなくて、僕と新見は単なるチームメイトにすぎなかった。
眩しすぎて、彼女をまっすぐ見つめることすらできなかった。
いわゆる、高嶺の花というやつだ。
何しろ、相手はトップアスリート。
それも、高校記録、ジュニア記録、日本記録を持ち、インターハイは3連覇。
さらに大学1年生でインカレを制し、日本選手権は高校2年のときから3連覇中という、規格外のトップアスリートだ。
当然、マスコミもそんな逸材をほうっておかない。
美人スプリンターとしてニュースやバラエティに引っ張り出されることも少なくないのだ。
1億人のアイドル…、とまではいかないが、1000万人くらいのアイドルなのである。
比するに、こっちはインターハイにすら出たことがない三流以下のスプリンター。
何というか、畏れ多くて近寄りがたい。
「のぞむくうううううんっ」
ぼんやりと新見の背中を見ていた、そのときだった。
トラックの入口のほうから大きな声が聞こえて、ジーンズ姿の女の子がこちらに向かってまっしぐらに駆けてきた。
それが、僕らの物語の始まりだった。