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短編集

逃げ水

 きつい陽射しの真っ直ぐなアスファルトの道を、私は車で行く。

 陽炎の立ちそうな真夏の真昼。仕事でなければ出歩いたりしない、そんな日だ。


 高速へ乗り入れた。道は空いている、他に車の影はない。制限速度を前後する程度のスピードで私は進む。

 少し先に黒っぽいものが見える。近付くと消え、いつの間にかもっと先へ移動している。

 逃げ水だ。蜃気楼の一種、らしい。

 子供の頃に初めて見た時、訳もなくぞっとしたのを今でも覚えている。

 行けども行けども決して追いつかない水たまり。おぞましさあるいは強烈な疎ましさみたいなものを、子供心に感じた。

 今はそれほどでもないが、不快感の影とでも言うべきものは身体の中に残っている。


 有り体に言うなら私は『得意先へ行く営業担当者』である。

 別になりたくてなったのではない。ただの結果、偶然である。

 大体『フツーの会社にお勤めして、営業担当者になりたいな』という夢を持つ子供はまずいない。そんな夢を持つ子供は相当変わっているか歪んでいるか、どちらかだろう。私は凡人だし、凡な子供だった。だから当然そんな夢など持たなかった。

 じゃあどんな夢を持っていたのだと問われると困る。別に……どんな夢も持っていなかった。それが正しいのかもしれない。

 一応、お花屋さんになりたいとかケーキ屋さんになりたいとか、もう少し大きくなってからは看護師や保育士、公務員など、大人しめの女の子がいかにも言いそうなことを言ってお茶を濁してきた。が、心の底からなりたいと思っていなかった。

 そもそも、その職業がどんなものなのかほとんどわからないのに、気楽に何々になりたいなどというのにためらいのような感情があったのは確かだ。世の中の人が何故、そんな単純に職業に対して夢が持てるのか、私にはよく理解できなかった。

 だからといって無職でふらふらするほどの度胸はない。親が裕福な訳でもない。男たちが競って貢がずにはいられないような、凄みのある美女でも決してない。『学校』というところから押し出された後は、自分の食い扶持くらい自分で稼がなくてはならないだろう。

 私は人並みに就職活動をし、めでたいのかめでたくないのか知らないが、今勤めている会社に決まった。基本的に真面目で人当りも悪くない私は、この地味な中堅メーカーにとって使いやすい人材と見られたのだろう。入社以来営業に配属され、そこそこやってきている。どちらかといえば保守的な業界なので、女性の営業担当者は少ない。そのおかげか取引先でも可愛がってもらえ、広い意味でメリットがあっただったろう。この会社の採用担当者の期待通りの人材だったということだ。


 真っ直ぐな道を車で行く。

 行く手には逃げ水。近付くと消え、また向こうに現れる。繰り返し。見るともなくそれを見ながら私は、仕事の段取りやノルマのことなどをぼんやりと考えていた。

 ふと、逃げ水がさほど怖くなくなったのはいつからだろうと思った。

 漠然と、大人になってからだと思っていたが。いつからなのか何故なのか、私はちゃんと知っている……気がした。知っていてあえて触れない、触れるべきでないという戒めめいたものが無意識にある気がした。

 私は唇をかみしめる。

 触れるべきでないという警告を無視し、私は私へ、その事実を不意に突きつけた。忘れていた、あるいは忘れたことにしていた己れを、静かに鋭く咎めるよう……に。


 中学生の頃。私は自分の影が怖かった。

 比喩的な意味ではない。光の下に立つと現れる、あの影が怖かったのだ。黒々と足元にうずくまる、あるいは斜めからの光に長々と伸びる灰色の、あの影だ。

 理由は不明。

 ある瞬間から急に、とにかく怖くなったのだ。たとえるならば、どれほど逃げても必ず追いかけてくる質の悪いストーカーにまとわりつかれている怖さ、とでも言えるだろうか。

 もちろん四六時中おびえていた訳ではない。そんな状態ならまともな生活は送れないし、私が心を病んでいると周りの者も思うだろう。私が病んでいると思えば、家族も対処するように動く。が、私が影におびえているなど誰も気付かなかった。私自身『影が怖い』ことを忘れている時間の方が長いくらいなのだから、当然と言えば当然だ。本人すら忘れているものを、他人が気付くなどまずない。

 たとえば学校や塾などからの帰り道。

 一人で歩いていると、アスファルトに自分の影が落ちているのに、不意に私は気付く。途端にぞっとする。今度のテストのこととかクラスの友達のこととか、ちょっと気になる男の子のことなんかをぼんやり考えている自分の、無防備さを突きつけられた気がする。影が、そんな私を冷ややかにあるいは可笑しそうに、目でない目で見ている。

 いや、見ている、気がする。そして、私にとっては重要なあれやこれやが、影にとっては取るに足りない馬鹿馬鹿しい事柄なのだと知る。

 いやそれは正しくない。

 馬鹿馬鹿しいと影が感じている、ような気がするのだ、強烈に。その刹那、羞恥とも憤怒ともつかない激情が私の胸に吹き上がる。

(代わってやるよ……)

 冷笑めいた笑みを含んだ、気味の悪い、それでいて甘やかすような声で影は私を誘う。誘う、声が聞こえる気がする。

(恥ずかしいのだろう。腹が立つのだろう。ならばそんな馬鹿馬鹿しいこととは無縁に暮らせる、そういうものになればいい。私がお前と代わってやれば、それで済む話だよ、わかるだろう?)

 恐ろしくなり、私は走り出す。へらへら笑うような風情で当然影はついてくる。さながら、ぴったりと寄り添うように。

 建物の陰などへ飛び込み、それが作る大きな影に飲まれて自分の影がわからなくなるまで、私はおびえ続けたものだ。

 誰かが私のそばにいる時は、影は大人しい。普通の影のふりをする。ある時私は明確にそれに気づき、影のずる賢さに腹が立った。私を馬鹿にし、おびえさせ、代わってやるよなどと猫なで声で私を誘う得体のしれない存在の癖に、隣で笑っている同級生の影と同じ儚いもののふりをしている。今にも放課後の黄昏の光に溶けそうなふりをしている。でも私が彼女と別れて一人になったら、途端に口でない口でにやにやと笑い、私をおびえさせる筈だ。

 怒りが吹き上がる。私はお喋りの合間に影を睨みつけた。険しすぎる視線に気付いた彼女に、どうしたのと訝しそうに訊かれ、さっきそこに変な虫がとか何とか、ごまかしたこともある。

 あの感覚を説明するのは難しい。

 思春期によくある情緒不安定の一種、だと考えるのが一番妥当で簡単だろう。そんな言葉でくくられるのは、私としては不本意で不愉快だったが、じゃあ一体何なのだと問われると返答に詰まる。私は確かに影の声を聞いたし、影の冷笑を見た。少なくとも、聞いた、見た、気がする、個人的には強烈に。その恐ろしさ・気味の悪さは私にとって本物だった。本当の本気で怖かった。が、どう説明しても自分以外の誰のもわかってもらえないだろうことも、私は知っていた。

 影におびえながらも私は、はた目には何事もなく成長し、高校生になった。

 電車通学をするようになり、新しい環境になじむのにも忙しく、しばらくは薄気味の悪い影のことを気にしている余裕もなかった。

 考えようによれば健全なことだろう。もし、そのまま綺麗に忘れ果て、二度と思い出さなかったとすれば。

 しかし、どんな目新しい環境へ飛び込んでも、慣れてしまえばそれは日常だ。高校生が日常になった頃、私は再び影のにやにや笑いに気が付いた。

 中学生の頃より、私は少し背が伸びていた。着ている制服のデザインも当然変わった。高校生の私の背丈の、高校の制服を着た影が道にいて、にやにや笑って私を見ているのに、私は以前と同じように唐突に気付いた。ぎくりとした私へ、影は物分かり良さそうにささやく。

(お久しぶり。本当はずっとそばにいたんだけど、お前にとっちゃお久しぶりだろう。思い出してくれて嬉しいよ)

 中学生の頃よりは、私だって頭が回るようになっていた。

 おびえることは影をいい気にさせ、あちらのペースへ引きずられる結果になる。それに気付いた私は、あえて影を無視することにした。内心どれほど気味悪く思っていても、表情に出さないよう努めた。むろん影には私のささやかな抵抗なぞお見通しのようだったが、冷たく無視し続ける私へ、少しづつ少しづつ、影はちょっかいをかけてこなくなった。にやにや笑いが間遠になり、囁き声が薄れ始めた。

(まあ、好きにするがいい。お前は所詮、私とは離れられないのだから)

 薄笑いの混じった声音で捨て台詞のようにそう言うと、影はある日、にやにや笑いと囁きを止めた。……勝った。私はそう思った。

 その頃、私は恋をしていた。

 同じクラスの少年で、いつもきちんと制服を着ている静かな男の子だった。目立たないが、よく見るとすっきりとした綺麗な顔立ちなのに気付き、私の心は激しく震えた。誰にも気付かれていない宝物を見付けた、そんな風に思った。

 影を黙殺し切ったのが、私の中でちょっとした自信になったのかもしれない。それとなく彼に近付き、自分からデートに誘ったりもした。

 アミューズメントパークでデートして、指先だけで手をつなぐ程度の、ままごとのようなお付き合いが始まった。ままごとみたいなお付き合いでも、私にとっては大冒険だった。

 私は自分が、これほど激しく心を動かす人間なのだとその時初めて知った。

 その頃の私は、彼が笑顔を向けてくれれば有頂天になり、彼が眉をひそめれば、何か気に障ることをしてしまったのだろうかと不安になって泣きそうになる、そんな状態だった。私の世界は彼一色に染まり、彼は私の世界のすべてといっても過言ではなかった。頻繁に浮き沈みする自分の心と付き合うのに忙しく、影に悩まされていたことなど芥子粒ほども思い出さなくなっていた。

 健全なことなのかもしれない。そのまま二度と思い出さなかったのであれば。


 彼との関係が日常になる前に、私たちは別れた。


 私は彼が好きだったが、彼は私が、嫌いではなかった。

 この熱量の差は結局、最後まで埋まらなかった。

 彼には元々、ずっと好きだった幼馴染の女の子がいた。

 しかし彼女は他の人と付き合い始め、彼は彼女を諦める為、私と付き合い始めたらしいのだ、はっきりとは言わなかったが。

 しかし私たちが付き合い始めてしばらく経った頃、本命の彼女が彼氏とひどい喧嘩をし、別れる別れないという話にまでなってきたのだそうだ。

 彼は浮ついた。

 元々二人は幼馴染、彼女の愚痴を聞いてあげたり慰めたりしているうちにうまくゆきそうな感触になってきて……私が邪魔になった、と。

 当然そんなあからさまな言葉で別れを切り出された訳ではないものの、彼のたどたどしい言い訳と、今まで聞かないふりをしてきたあれこれの噂から私は察した。言い訳を並べる彼の口許と、持ち重りのする荷物をながめるような彼の冷たい瞳の色を見ているうち、私は諦めた。たとえ泣いてすがったとしても彼の心は戻らない。というよりも、そもそも彼の心は私にはない。過去にもなかったし今ももちろんない。ないものをねだっても仕方がないではないか。


 家に帰り、自室にこもって私は泣いた。

 面白いほど涙が出てくるのに、あきれるのを通り越して私は感心した。というとずいぶん落ち着いているみたいだが、当然そんなことはない。あまりに傷付き、傷の痛みすらまともに感じられない状態だったのだろうと今なら思う。頭は痛みを受け止められないが、身体は素直に痛みに反応している、とでもいう状態だったのだろう。

 しかしいつまでも部屋にこもって泣いてもいられない。家族だって変に思う。もう十分変に思っているかもしれないが、これ以上こもっていると様子を見に来られる。訳を訊かれる。そして慰められるだろう。

 有り難いけど煩わしい。みじめな傷口が無造作にさらされ、そこへ塩を塗り込められるような気がした。

 家族の目を避けるように、私はバスルームへ逃げ込んだ。


 頭からシャワーで湯を浴びつつ、やはり泣いた。

 薄黄色いバスルームの灯りの下、お湯にまぎらせながら何度も涙をぬぐっているのに後から後から出てくる。

 さすがにうんざりしてきた。いい加減疲れてもきた。悲しいから泣けてくるのか、泣いているから悲しくなってくるのか、段々わからなくなってきた。

(代わってやるよ)

 いっそ懐かしい気のする囁き声が、不意にそう言った。思わず涙を呑んだ。

(代わってやるよ、ずっと前からそう言ってるだろう?辛いのだろう?苦しいのだろう?可哀相に、もう泣かなくていい。私がお前と代わりさえすれば……そんな苦しみを忘れ、夢も見ないで眠れるのだからね)

 私は足元を見た。

 お湯は床に落ちて緩やかに排水口へ向かって流れている。その流れるお湯に浮かぶように、黒々と影がわだかまっていた。バスルームの灯りが作り出す影とは明らかに違う。それは光源の反対側に、淡く伸びているのだから。

 恐ろしさに硬直した。ついに捕まった、私の影のふりをした魔性に。頭の隅で虚しくそうつぶやく。

(代わってやるよ)

 影は再び囁く。甘く優し気に。罠だとわかっている。だけど抗えなかった。

「……代わって」

 半ば以上無意識に、私はそう言っていた。


 逃げ水をにらみながら私は車を運転している。

 そろそろ一般道へ降りなければならない。


 あの時。

 私がそう言った途端、足元の影は消えた。

 まるで逃げ水のように。

 そして涙は止まった。生まれて初めての、死にたいほどの辛さ……耐え難い程の失恋の痛みは、一瞬のうちに冷たい記憶となっていた。不快ではあるが血を吹くような生々しさのない、まるでセーブされたデータのひとつ、とでもいうものになっていた。

 バスルームから出た私は静かに晩御飯を食べ、眠った。朝になったらちゃんと目を覚まし、いつも通りに身支度して学校へ行った。泣きはらした腫れぼったい顔ではあったがきちんと授業を受け、静かに帰宅した。


 そんな感じで私は、高校を卒業するまで暮らした。


 問われれば私は、付き合い始めた彼氏に、嫌いじゃないけどどうしても本気で好きになれそうもない、ごめん、自分の気持ちに嘘はつけない、と言われたのだと淡々と話した。

 なにそれ、だったら最初から付き合わなきゃいいのにとか、結局フタマタみたいなもんじゃないのとか、話を聞いた友達から言われた。私は、正直な人だよねと他人事のように言って苦笑いした。心を何処かに置き忘れたような私の様子に、周りのみんなはかえって同情を募らせた。私と親しい女の子だけだが、彼を見る目も冷ややかになった。

 私としてはそういう反応は、少し迷惑だったが。『失恋』は私にとって不快なデータのひとつであり、もはやそれ以上ではなかったのだから。

 私が変わった(というより、感情の起伏がほぼなくなった)ことを、家族も級友たちも気付いていた。が、たとえわずかな期間でも付き合った彼氏に、まるでいらない荷物をひとつ捨てるように振られた傷心のせいだろうと勝手に納得してくれているようだった。


 彼は結局、意中の人とうまくいかなかったらしい。

 しばらく経って、よりを戻したい……ようなことをほのめかされた。苦笑いで黙殺する私の態度に、さすがに彼は己れの身勝手を恥じたらしく、それ以上は何も言ってこなかった。

 『己れの身勝手を恥じる』程度の理性はある男で良かった、と私は思った。それすらない恥知らずなら、たとえひとときでもそんな男に本気で恋をした、私が恥ずかしいではないか。


 感情を何処かへ置き忘れたように過ごしながら私は、実はその間、ゆっくりと己れが蓄積してきた記憶や経験のデータを整理していた。

 別に意識してそうしていたのではない。データ整理だと気付いたのは、その作業がすべて終わり、整理されたファイルを有効に使えるようになってからだ。高校を卒業し、短大へ進学する手前くらいの時期だった。

 これまでの『私』という女の子から逸脱しない程度を計算し、私は『私』という生きた人形へ『感情のゆらぎ』とか『愛嬌』とかいう華やぎを加えてみた。例えば、にっこり笑って見せたり流行(はやり)をチェックしている様子を見せたり、ちょっとしたジョークを言って見せたり。

 それだけでずいぶん人づきあいがスムーズになった。ここ一二年、周りの人たちを必要以上に緊張させたり気を遣わせたりしていたことを改めて知った。特に、家族が目に見えて安心したのがわかった。

 私は『私』をやり続ける自信を深めた。

 奇妙な言い回しかもしれないが、そう表現するのが一番しっくりくる。

 影の誘いに乗り、代わって、と言って以来、私の中から感情らしい感情が消え果てた。具体的にどういう理屈なのかはよくわからなかったが、私は確かに影と『代わって』もらったのだろう。つまらないことに心を乱すなどどいう面倒なことは、確かにあれ以来、私には縁がなくなった。心静かに穏やかに、毎日を過ごしている。

 一応、鈍い快不快はある。

 たとえるなら、靴下越しに感じる靴の中の異物感のような嫌な感じとか、テレビにちょっと好きな俳優が映った程度の嬉しさ、みたいなものだ。

 しかし、リアルで激しい、息をするのも苦しい程の強烈な感情は、あの日のあの時以来私の中から消え果てた。そんなつまらないことに心を乱していた頃の自分が、もはや前世の記憶のように茫漠としている。

 その薄い感情のまま生きていても私自身は一向に構わないが、周りの者は変に思うようだ。それも……過去のデータと照らし合わせ、わからなくもない。だから私は『私』をやり続ける為、少し努力することにした。寿命がくるまで死ぬつもりがないのだから、『私』という名の生きた人形をこの社会に適応させ、過不足なく人生を全うさせなくてはなるまい。それが第一番目の仕事、ミッションだろう。その場合、良きにつけ悪しきにつけ、必要以上に目立つのは得策ではない。蓄積データの整理をし、私はそう結論した。私は自分を『環境が変わって明るくなった』娘、という風にプロデュースした。

 プロデュースはおおむね成功した。身近な人達は皆、時にはミーハーな顔も見せる穏やかで大人しい娘、という『私』に安心した。社会というか世間というか、そういうものの中で違和感をかもし出さなくなった私を適当に放っておいてくれるようにもなった。

 私は安堵した。自分のプロデュースが正しいらしい、という自信も深めた。

 正直、やや面倒だったが。

 私に興味を持つ男性も、時たま現れるようになった。大人しくてなんとなくお母さんぽい雰囲気の、でも適当に俗でちょっと底が浅そうな女の子に安心する、甘えん坊の男性というのはそれなりにいるものだ。私……いや。私がプロデュースした『私』はそんな女の子に見えるらしい。

 彼らの望みは大体わかる。彼にリーダーシップを取らせるように振る舞いつつ、実はたっぷり甘やかす。そうすることで彼を満たし、私から離れられないよう……繋ぐ。要するに彼らは、そういう女にゆるやかに繋いでいてもらいたいのだ。

 彼らの望みは大体わかるが、わざわざそんな複雑な関係を構築するのは煩わしい。そもそも構築したいとも思わない。その労力に見合うなにがしかのものを、そういうたぐいの甘えん坊の男が持っている可能性はほとんどないし、甘えん坊の男を飼いならして楽しむような趣味など、元からない。

 時には、そこまで箸にも棒にも掛からぬ甘えん坊でもない男性が近付いてくることもある。仕事が軌道に乗った頃の、結婚願望が芽生え始めた真っ当な男性のうちの何パーセントかに、『私』のような地味な娘に『人生の良き相棒』の姿を見る人がいる。学生時代より社会人になってからの方がもて始めたことでもそれがわかる。私のプロデュースする『私』は、いわゆる『いいお嫁さんになりそうな娘』なのだ。

 悪くないな、と私は思った。

 夫を持ち家庭を持つのは、煩わしい反面人生を全うする為の強力な保険になり得る。今の社会制度上有利な面が多いし、『既婚・子持ち』になれば世間からの雑音も減る。相棒に相応しい男性がいるのなら、結婚も悪くない。

 そして付き合い始めた人がいる。いや……いた。

 彼は、担当している取引先に勤めている五つ年上の男性だった。仕事の後、ちょうどお昼ですね、一緒に昼飯でも食いませんかと誘われたのがきっかけだった。

 彼は社会人として節度のある、好もしい男性だった。

 自分の仕事の話をし始めるとかなり熱っぽくなることから考えて、仕事に対して熱意や誇りを持っている様子だ。

 時には会社や同僚の悪口も言うが、話を聞く限り、何もかもを他人のせいにして都合の悪いことから逃げるような、要領がいいだけの卑怯者でもなさそうである。お金の使い方などをそれとなく見る限り、極端な吝嗇(ケチ)でもなければ見栄っ張りでもない。

 実に……良い夫になりそうな人材である。私は彼との結婚を考え始めた。

 しかしその頃から彼の目が、何故か哀しげになってきた。寂しさ、とでもいう表情がもやもやとただようようになってきた。

 私には理由がわからなかった。私たちは決して仲違いをした訳ではない。それどころか言い合いすらしたこともない。いつも穏やかに楽しく過ごしてきた。

 だけど彼の瞳はどんどん哀しげになってくる。

 まるで永遠にかなわぬ恋をしている人のような瞳の色だ。

 高校時代に付き合った男の子を、最後に見送った時の私の瞳はこんな感じだったのではないのか、と、ふと思った。


 別れ話があったのは、今日のような暑い夏の日だった。

 ドライブでもしようと彼に誘われ、高速に乗った辺りで切り出された。私は助手席に座り、シートベルトに縛られた状態でただ、前を向いていた。

 君の心が見えない。

 彼の言葉を要約するならばそれに尽きるだろう。

 私はそんな複雑な女じゃないけど、と、苦笑いまじりでちょっとおどけたように言ってみせたが、彼の表情は緩まなかった。

 どこが悪いとか気に入らないとか、そういうことじゃないんだ。

 難しい顔で彼は言葉を選ぶ。

 君はいい子だし仕事も丁寧だ。きっといい奥さんになると思う。そういうところに俺も惹かれたし、改めて考えても不満らしい不満はない。何が気に入らないんだって言われたらすごく困るんだけど……でも。君といるのが段々辛くなってくるんだよ。にこにこ笑っているのにすごく冷たい目をしていて、ぎょっとしたことが何度かある。何だか、入社試験の面接官の前にいるみたいってのか。この子はマジで俺のことが好きなんだろうか、それとも結婚するのに都合のいい男かどうかチェックしているんだろうかって。いやまあ、そんな計算くらい誰だってするし俺だってしなくもない。でもその、なんて言うのか……その観察ぶりが怖いくらい冷たい、ような気がして……。

 ぼそぼそと彼は言葉を続ける。

 私は無言で前を向いていた。乾いた私の目の前を、逃げ水が現れては消えた。

 何度も何度も繰り返し。

(遅いんだってば)

 誰にともなく私は心の中でつぶやく。

(私は影に代わってもらったの。私の心は逃げ水の底へ沈んだみたいなものなんだよ。逃げ水には……絶対追いつけないのよ)

 絶対追いつけない水の底に私は、私には持て余すほどの『感情』を沈めた。

 それで私は楽になったけど、私と深く関わりたいと思う人は私の中身がわからなくなって辛くなる……のだろうか?

 追っても追っても届かない、そんな虚しさを感じるのだろうか?

 新しい仮説として私は、私の中のデータファイルに書き込む。

(とても良い、夫候補者だったんだけどな)

 私は彼を諦めることにした。

 一瞬、目の前が激しく揺らぎ……逃げ水が迫ってくる、幻覚があった。


 ……そう。私はそれ以来、逃げ水を疎ましくは思っても切実に怖くはなくなったのだ。正確に言うのなら、おそらく影に『代わって』もらって以来なのだろうが、自覚したのは彼と別れ話をした真夏のドライブ以来だ。

 決して追いつかない幻の水底(みなぞこ)に、私の心は沈んでいるのだと自覚して以来だ。

 私はこれからも穏やかに淡々と生きてゆけるだろう、という、虚しさと紙一重の安堵がある。決して追いつかないし迫ってくることのない水の底に、私の生々しい感情たちは沈んでいる。もう二度と『心』だの『感情』だのという、野生の獣にも似た制御しがたいものにおびやかされることはないだろう。

 しかしこういう女は、どうやら結婚という保険を得るのに向いていなさそうだ。そのかわり、なんらかの仕事をして生きてゆく分には不都合なかろう。

 ビジネスに、激しい感情などいらない。

 すっきりとした冷徹なその世界は、とても私に向いている……多分。


 一般道へ降りる出口が近付いてきた。

 ウインカーを出し、車線を変える。

 二股になった道の分かれ目には、やはり逃げ水がわだかまっていた。


 一瞬私は、無駄を承知でその逃げ水の中へ飛び込みたい、強い衝動に駆られた。思い切りアクセルを踏み込み、車ごと飛び込んでしまいたい、と。


 だけど私はゆっくり大きく息をつき、そのまま静かに一般道へ降りた。


 真夏の陽射しに白く光るアスファルトには、ゆらゆらと陽炎が立っていた。


                  【おわり】

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― 新着の感想 ―
[一言] おそらくこの主人公とは違うものなのですが、私にも逃げ水のようなものがありました。 彼女とは少し違う形で記憶と感情を封じて、一昨年まで、すっかり忘れてしまっていたことがあります。 封じられた…
[良い点] こういったジャンルの方が、かわかみれいさまの本領なんですかね。以前読ませていただいた短編もそうでしたが、あまりに本格的だと感じました。 [気になる点] 感じたことをそのまま書きますので、か…
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