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交際8年の彼女は、後輩のために俺を深海へ突き落とした

作者: 熾星
掲載日:2026/11/05



 回収作業中だった三億円相当の極地研究サンプルカプセルが、牽引装置から外れ、冷たい海の底へ沈んでいった。


 調査船「しらかば」では緊急会議が開かれた。北辰極域調査機関が二年かけて集めた研究成果だ。失えば、その後の研究計画も予算の審査も大きな影響を受ける。


「明日、誰かに潜ってもらい、カプセルを回収する必要がある。機関では乗組員のために高額の傷害保険も用意している。危険な任務だが、頼める人間はいないか」


 船長はそう言って、潜水士たちの前に紙片を並べた。担当者は抽選で決めるという。


 俺は相沢航平。潜水チームで最も経験を積んだ潜水士だ。同じ調査隊で働く桐谷紗季とは、交際して八年になる。今回の任務が終わって帰港したら、婚姻届を出そうと約束していた。


 俺が引いた紙には何も書かれていなかった。ほっと息をつき、周囲を見回すと、後輩の白石怜央が青ざめた顔で紙片を握りしめていた。今にも泣き出しそうな彼を見て、紗季が動いた。


 彼女は俺の手から紙片を取り上げ、怜央の手に押しつけた。


「怜央の代わりに、航平が行けばいいわ」


 紗季は、何でもない仕事を割り振るような口調だった。


「航平が一番経験を積んでいるし、去年の深潜水訓練でも成績はトップだった。あなたが担当したほうが成功率も高いし、無事に戻ってこられる可能性も高いでしょう?」


 会議室のあちこちで、小声が交わされた。


「桐谷リーダー、白石にはずいぶん甘いんだな。危険な仕事を恋人に押しつけるのかよ」


「八年も付き合って、結婚するって話までしてたのにな……」


 怜央は周囲の声など聞こえないかのように、紗季に抱きついた。


「紗季さん、ありがとう。いつか必ず恩返しします」


 二人の姿を見た俺は、思わず笑った。


 手元の紙片を丸め、怜央の顔めがけて投げつけた。



1



 紙片が怜央の頬に当たって床へ落ちた。彼は頬を押さえ、傷ついた子供のような顔で俺を見た。俺は冷めた目で見返した。


「大げさに騒ぐなよ。ただの紙だろ。それくらいで泣きそうな顔をするなら、どうして潜水チームに入ったんだ?」


 怜央は唇を噛み、紗季のほうへ視線を向けた。彼の目が赤くなっているのを見た途端、紗季の表情が険しくなった。彼女は俺の前まで来ると、ためらいもなく頬を張った。


 乾いた音が会議室に響いた。左頬に熱が広がり、耳の奥までじんじんと痛んだ。周囲の隊員たちは一斉に口を閉じたが、誰も紗季を止めようとはしなかった。


「男だからって、痛くないわけじゃないでしょう。怜央だって同じ人間よ。自分が殴られたら嫌なくせに、どうして彼には我慢しろなんて言えるの?」


 紗季は俺を睨んだまま、怜央の頬に触れた。


「ほら、赤くなってる。航平、怜央に謝って」


 俺は頬を押さえ、彼女を見つめた。


「謝るのは俺じゃないだろ。そもそも、くじ引きで担当者を決めると船長が言ったんだ。怜央が引いた以上、本人が任務を引き受けるのが筋だろう」


「あなたが行ったほうが成功率が高いのは事実でしょう?」


「経験があるからって、危険な仕事を全部押しつけられてたまるか。怜央だって資格審査を通って、潜水チームに入ったんだ。危険を承知で選んだ仕事だろ」


 紗季は鼻で笑った。


「あなたは早くにご両親を亡くしたから、誰かに守ってもらうことを知らないのかもしれない。でも、自分が苦労したからって、ほかの人まで同じ目に遭わせようとしないで」


 会議室の端で、誰かが小さく息を呑んだ。


「親のことまで持ち出すのは、さすがにひどいだろ……」


「黙ってろ。こっちまで巻き込まれるぞ」


 俺は拳を握った。八年付き合ってきた恋人から、こんな言葉を聞かされるとは思わなかった。


「桐谷リーダー。今の発言は撤回してくれ」


「どうして? 間違ったことは言っていないわ」


 紗季は怜央を背中にかばい、さらに言葉を重ねた。


「怜央は経験が足りないの。深潜水の成功率だって、あなたより低い。だったら、経験のある人が担当するのが合理的でしょう?」


 怜央は目を潤ませたまま、控えめな声で口を挟んだ。


「航平先輩、僕だって本当は行くつもりでした。でも、今の自分の技量では、皆さんに迷惑をかけるかもしれません。先輩なら安心して任せられると思ったんです」


 俺は呆れて笑った。


「訓練のとき、俺に枠を譲れって何度も頼んできたのは誰だった? 潜水チームに入りたくて必死だったくせに、危険な任務が回ってきた途端、経験不足を理由に逃げるのか」


 怜央の顔から血の気が引いた。


 周囲の隊員たちも、さすがに黙ってはいられなくなったようだった。


「白石は、どうやって選抜を通ったんだ?」


「抽選で決まった担当者を、今になって変更するのはおかしいだろ」


 紗季は周囲を見回し、鋭い声を上げた。


「もういい加減にして。みんな、黙って」


 それから船長に向き直った。


「船長、今回の回収作業は航平に任せたいと思います。最も経験のある潜水士ですし、成功率を考えれば妥当な判断です」


 船長はすぐには答えず、俺と紗季を交互に見た。やがて、静かに口を開いた。


「抽選で担当者を決めるという話だったはずだが……。桐谷リーダーの意見はわかった。人員配置については、こちらで改めて確認する。無事にカプセルを回収できれば、追加報奨金の申請も検討しよう」


 会議が終わると、隊員たちは次々に部屋を出ていった。何人かが俺に声をかけようとしたものの、紗季と怜央が近くにいるのを見て、結局そのまま通り過ぎていった。


 俺も帰ろうとしたが、二人に呼び止められた。


「航平、報奨金の話を聞いたでしょう? 今回の仕事を引き受ければ、かなりの額になるはずよ。私たち、もうすぐ結婚するんだから、家も車も結婚式も、これからお金がかかることばかりでしょう。少しでも余裕ができたほうがいいと思わない?」


 さっき俺を殴ったことなど、もう忘れてしまったらしい。紗季は何事もなかったような顔で話していた。


 怜央も、すぐに口を挟んだ。


「ご家族から援助を受けられない人は、自分で頑張るしかないですもんね。でも、今回の報奨金があれば、先輩もずいぶん楽になると思います」


 彼は言い終えると、慌てて口元を押さえた。


「すみません。余計なことを言いました」


 その顔には、謝罪とは裏腹な得意げな色が浮かんでいた。


「どうせ航平先輩には、失うものもないんですし。仮に何かあったとしても、悲しむ人なんて――」


「白石怜央。今の言葉、もう一度言ってみろ」


 怜央が肩を震わせた。紗季はすぐに彼をかばうように前へ出た。


「わざとじゃないでしょう。まだ二十六歳なんだから、言葉の選び方がわからないことだってあるわ。先輩なら、少しくらい大目に見てあげたら?」


「二十六歳で世間知らず、か。ずいぶん便利な言い訳だな」


 怜央は紗季の袖をつまみ、弱々しい声を出した。


「紗季さん、僕、本当にそんなつもりじゃ……」


 紗季は困ったように息をつき、彼の肩を軽く叩いた。


「わかったわ。怜央、航平に謝って。明日の任務を代わってもらうんだから、これ以上、関係を悪くする必要はないでしょう」


 怜央は俺を見たが、すぐには頭を下げなかった。しばらくして、突然こめかみを押さえ、目を閉じると、紗季の肩へ倒れ込んだ。


「どうしたの? 昼間、外に出たときに冷えたのかしら。風邪でも引いた?」


「少し、頭がくらくらするんです……」


 怜央は弱々しく答え、紗季の肩に頭を預けた。紗季は彼を支えたまま、俺に視線を向けた。


「航平も、そろそろ戻って準備しておいて。明日の午前十時が潜水に最適な時間帯だから、遅れないでね」


「俺は引き受けるなんて言ってない」


 紗季の足が止まった。


「これは仕事の指示よ。船長から潜水チームの人員配置を任されているのは私なの。拒否すれば、契約上の責任を問われることになる。サンプルカプセルは三億円相当なのよ。あなたが一生働いたって、簡単に払える金額じゃない。いい加減、わがままを言うのはやめて」


 俺は彼女の背中を見つめた。


 初めて高リスクの任務に選ばれたとき、紗季は俺以上に不安がっていた。一晩中眠れず、翌朝には目の下に濃い隈を作っていた。


「潜水チームにはあんなに人がいるのに、どうして航平なの? あなた、私と一緒にいたくて、わざわざ元の部署から移ってきたばかりでしょう。もし何かあったら、私はどうしたらいいの?」


 彼女は本気で、自分が代わりに行くとまで言い出した。


 俺は安全対策が整っていること、厳しい審査を通過して潜水チームに入ったことを説明し、彼女を安心させようとした。


 それでも紗季は納得せず、二日間も口をきいてくれなかった。出発直前になってようやく現れた彼女は、目の下に隈を作り、手作りの御守り袋を俺の手に押しつけた。


 指先には小さな絆創膏が貼られていた。理由を尋ねると、同じ宿舎で暮らす女性隊員が教えてくれた。


「紗季って、普段はお守りなんて信じてないんだよ。それなのに、航平のために自分で作ったんだって。中には無事を願うお札も入れてあるらしいよ」


「機材の点検は終わったの? こんなところで、いつまで話してるのよ」


 紗季は顔を赤くして割って入り、隊員を連れていった。


 俺は手の中の御守り袋を握りしめた。彼女が無事を願ってくれている。そのことが、何よりも心強かった。


 あの頃の紗季は、俺が危険な任務に出るたび、本気で心配してくれた。


 今では、その気持ちも遠い昔のことになってしまったらしい。


 会議室の扉が再び開き、紗季と怜央が戻ってきた。怜央は弁当箱を持っており、俺の前に置くと蓋を開けた。


「航平先輩、これ、料理人に頼んで用意してもらったんです。明日は潜水するんだから、ちゃんと体力をつけないと。僕の代わりに任務を引き受けてくれるお礼です」


 中には、きれいに盛りつけられたサーモンの刺身が入っていた。


 見た瞬間、胃の奥がひっくり返るような感覚に襲われた。俺は思わず顔を背け、えずいた。


 怜央の目に涙が浮かんだ。紗季は俺を睨みつけた。


「航平、何をしているの? 怜央はあなたに感謝したくて用意してくれたのよ。そこまで偉そうに振る舞う必要がある?」


「俺がいつ、代わりに任務を引き受けるって言った?」


 俺は弁当箱を指さした。


「それに、八年も付き合ってきたんだ。俺が魚介類のアレルギーを持ってることくらい、知ってるだろ。怜央が知らないのは仕方ないとしても、お前は俺の恋人だ。それすら覚えていないのか?」


 紗季は言葉を失った。怜央は慌てて頭を下げた。


「すみません。感謝の気持ちを伝えたくて、一番いい食材を選ぶことばかり考えてしまって……。紗季さんも、僕が刺身を用意したことは知らなかったんです。だから、彼女を責めないでください」


 紗季はすぐに表情を引き締めた。


「船の上なんだから、食べられるものがあるだけありがたいでしょう。食べないなら、せめてこれに署名して」


 彼女は弁当箱を脇へ押しやり、書類を俺の前に叩きつけた。深海での潜水作業に伴う危険と、担当者が負う責任について記された確認書だった。


「署名しない」


「契約違反になったらどうなるか、わかっているでしょう。損害賠償を求められたら、あなたの人生はそれで終わりよ。よく考えなさい」


 俺は彼女を見つめた。


「お前も怜央も、俺には失うものがないって言ってたよな。だったら、返せない金を背負うことになっても、別に怖くない」


 紗季と家庭を築きたいと思っていた頃は、彼女のためなら多少の無理も受け入れられた。だが、今はもう、自分の命を差し出してまで彼女に認めてもらおうとは思わない。


「それから、俺が贈った家伝のペンダントを返してくれ。別れるんだから、お互いの持ち物はきちんと片づけよう」


 あのペンダントは、相沢家に代々伝わってきた翡翠の飾りだった。俺たちが付き合い始めた日、紗季の首にかけ、家の先祖が二人の仲を見守ってくれるよう願っていると伝えた。


 彼女は感動して俺に抱きつき、一生外さないと約束した。


 紗季は首からペンダントを外し、赤い紐を指に巻きつけながら、俺の目の前で揺らした。


「そういえば、これも返さないとね。あなたにとっては大切なものなんでしょう?」


 彼女は俺の目を見た。


「署名しないなら、これを壊すわよ」


「やれるものなら、やってみろ!」


 俺は手を伸ばしたが、紗季は身をかわした。翡翠は割れやすく、力任せにつかむわけにもいかなかった。


「別れるときに返すって約束はしたけど、私だって何年も身につけてきたのよ。多少傷がついたって、おかしくないでしょう?」


 俺は喉の奥が詰まるのを感じながら、彼女を見つめた。


「……わかった。署名する」


 紗季はようやく笑みを浮かべた。


「最初からそうすればよかったのに」


 怜央がペンを拾い、俺の手元へ差し出した。


「航平先輩、どうぞ」


 俺は彼の手を払いのけた。ペンは床に落ち、机の下へ転がっていった。


「お前に触られると、ろくなことがない。もういい。ペンダントなんていらない。親だって、俺がこんなもののために命を捨てることなんて望んでいないはずだ」


 紗季は怜央の手の甲を確かめた。赤くなっているのを見ると、再び俺を睨みつけた。


「航平、忘れたの? あなたのご両親の遺骨は、今も私の家の墓地に納められているのよ。当時、叔父さんも叔母さんも亡くなって、あなた一人じゃ何もわからなかったでしょう。うちの両親が葬儀も墓地の手配も手伝ったの。署名しないなら、今すぐ墓を移してもらうわよ」


 紗季は本当にスマートフォンを取り出した。


 俺の体から、すっと血の気が引いた。


 彼女の両親が俺に恩を施してくれたのは事実だった。両親が亡くなったとき、俺はまだ若く、何から手をつければいいのかもわからなかった。葬儀の手配から墓地のことまで助けてもらったからこそ、二人をきちんと見送ることができたのだ。


 その恩を、今になってこんな形で突きつけられるとは思わなかった。


「わかった。署名する」


 俺は床に落ちたペンを拾い、紗季の冷たい視線を浴びながら、自分の名前を書いた。


「ただし、これで最後だ。これから先、俺たちはもう他人だ」


 紗季は署名済みの書類を引き抜き、怜央に渡した。怜央は大切なものを受け取るように書類を手にし、紗季に笑いかけた。


「ありがとうございます、紗季さん」


「お礼なんていいのよ。あなたの代わりに任務を引き受けてくれる航平にも、感謝しないとね」


 怜央は俺に向き直った。


「ありがとうございます、航平先輩」


 俺は返事をせず、紗季に手を差し出した。


「ペンダントを返してくれ。もうお前には持っている資格がない」


 紗季は少しためらい、掌を開いた。赤い紐が指先に絡まり、翡翠が薄暗い照明を受けて淡く光っている。


 俺が受け取ろうとした瞬間、怜央が横から手を伸ばした。


「紗季さん、僕にも見せてください。きれいな品ですね。さすが相沢先輩の家に伝わるものだ」


 俺の返事を待たず、怜央はペンダントを取り上げた。俺は拳を握りしめた。


「わざとやってるのか?」


 怜央は紗季の様子をうかがい、ペンダントを返そうとした。


 ところが、俺の指先が翡翠に触れた瞬間、彼は手を離した。


 乾いた音が響いた。


 ペンダントは床に落ち、翡翠は粉々に砕けた。


「すみません、航平先輩! 手が滑ってしまって……本当に、わざとじゃないんです!」


 怜央は大げさに声を上げた。俺はもう我慢できず、彼に殴りかかろうとした。


「お前、わざとやっただろ!」


 怜央は胸を押さえ、紗季に倒れかかった。


「紗季さん、胸が痛い……」


 紗季は彼を支えながら、俺の手首を強くつかんだ。


「見るだけだったのに、どうしてそんなに怒るの? あなたが怜央を怖がらせたから、手が震えて落としたんでしょう。もう返してもらったんだから、これ以上騒がないで」


 手首に鋭い痛みが走った。俺は彼女の手を振りほどき、床に散らばった翡翠の破片を指さした。


「これは、俺の両親が残してくれた唯一の形見なんだぞ!」


 紗季は破片に目もくれず、怜央の顔色をうかがった。


「古傷が痛むの? 船医に診てもらいましょう」


 怜央は困ったように眉を寄せた。


「もう遅いですし、部屋で休めば大丈夫です」


 俺は彼を睨んだ。


「こいつが乗船してから、危険な任務を一度でも担当したのか? 紗季、お前はいつから、こんな簡単な判断もできなくなったんだ?」


 紗季の表情が変わった。


「半年前、私が北極の観測ビーコンを回収しに行ったとき、氷が崩れて氷窟に閉じ込められたの。あのとき、怜央が命懸けで助けてくれた。あなたは基地で療養していたから、心配させたくなくて知らせなかったけど、私は怜央に命を救われたのよ。恩を返すのは当然でしょう?」


 言い終わるや否や、怜央が激しく咳き込み、胸を押さえた。紗季は彼を支え、会議室を出ていった。


 俺はその場に立ち尽くした。


 半年前の事故のことなら、今もはっきり覚えている。


 あのとき、紗季を救い出したのは、ほかでもない俺だった。



2



 俺は会議室を出ようとしていた紗季を呼び止めた。


「待ってくれ。お前、本当に白石怜央に助けられたと思ってるのか?」


 怜央を支えていた紗季は、扉の前で足を止めた。振り返った顔には、露骨な苛立ちが浮かんでいる。


「航平、いつまでそんなことを言ってるの? 氷窟から助け出されて目を覚ましたとき、私のそばにいたのは怜央だった。病室でも付き添ってくれたし、森下さんだって、怜央が命懸けで私を救い出したって証言してくれたのよ。疑う理由なんてある?」


 怜央は紗季の肩に寄りかかったまま、目を伏せていた。俺は彼を見つめたが、それ以上は何も言わなかった。


 半年前、俺は深海潜水の任務を終えたばかりだった。耳膜を損傷し、極地観測基地で療養していた俺は、一週間ものあいだ耳鳴りに悩まされていた。医師からは安静にするよう注意されていたが、頭の中は紗季のことでいっぱいだった。


 毎日、彼女から連絡が来るのを待っていた。ところが、紗季が向かった海域で氷層が崩落し、連絡が取れなくなったという知らせが届いた。


 俺は医師の制止を振り切り、物資補給船に乗り込んだ。事故現場に着くと、救助隊の隊員たちは、氷の状態が不安定で、むやみに踏み込めば命に関わると警告した。専門の救助隊が動き出すまで、安全な場所で待つようにとも言われた。


 けれど、紗季の生死もわからないまま、ただ待っているなんてできなかった。


 俺は一人で氷原へ向かった。広大な白い世界を探し回り、ようやく意識が朦朧とした紗季を見つけたとき、彼女の体温は危険なほど下がっていた。


 その直後、同行していた雪上車が故障し、動かなくなった。俺は自分の防寒着を紗季に巻きつけ、彼女を背負って歩き始めた。


 四時間ものあいだ、凍てつく風が容赦なく顔を打った。以前から傷めていた耳は、動くたびに鋭く痛み、周囲の音さえまともに聞こえなくなった。肩や背中も尖った氷に切られ、服の内側に血が滲んでいた。


 一歩進むたびに、体力が削られていく。それでも足を止めるわけにはいかなかった。


 ようやく微弱な通信信号を拾える高台にたどり着き、俺は救助を要請した。


 救助隊が到着したとき、俺は力尽き、雪の上に膝をついたまま立ち上がれなかった。そのまま搬送され、基地へ戻ったあと、傷口が開き、耳の状態も悪化したため、再び病室で治療を受けることになった。


 紗季が目を覚ましたとき、俺が重傷を負ったと知れば、きっと自分を責めるだろうと思った。だから、事情を知っている隊員たちには、俺の容体が落ち着くまで彼女に知らせないでほしいと頼んでいた。


 傷が治ったら、元気な姿を見せて安心させてやりたかった。


 だが、俺が別の医療施設へ搬送されているあいだに、紗季の病室には怜央がいた。森下も怜央の話を裏づける証言をしているらしい。俺が知っているのは、そこまでだった。


 目の前の紗季は、疑う余地などないという顔をしていた。


「航平、何がおかしいの? 今度は何も言い返せないの?」


 俺は唇を引き結んだ。


 ここで真実を話したところで、紗季は信じるだろうか。証拠もないまま怜央を責めれば、嫉妬に駆られていると受け取られるだけかもしれない。


 紗季は俺の沈黙を、自分の正しさを認めた証拠だと受け取ったらしい。ほっと息をつくと、怜央を支えて再び歩き出した。


「もういいから。明日の任務に備えて、ちゃんと準備しておいて」


 怜央は扉をくぐる直前、ちらりと俺を振り返った。その目には、もう怯えも遠慮もなかった。


 耳の奥が鈍く痛んだ。あの氷原で感じた、凍りつくような痛みが蘇る。


 二人の姿が消えても、俺はその場を動かなかった。


 紗季は怜央をかばうために、俺の家伝のペンダントを壊し、両親の墓まで持ち出して脅した。もう、彼女の気持ちを確かめる必要もなかった。


 命の恩人を取り違えただけで、八年の付き合いをここまで踏みにじれるものなのか。怜央に恩返しをしたいのなら、別の方法だってあったはずだ。それなのに、二人は俺を命の危険がある深海潜水任務へと追いやった。


 俺は怒りを押し殺し、翌日の回収作業に備えた。任務が終わったら退職届を出し、北辰極域調査機関を去る。もう、それだけでよかった。


 翌朝、夜明け前の甲板には冷たい風が吹きつけていた。潜水の準備は整っている。見送りに来た隊員たちを見渡しても、紗季の姿はなかった。


 船長が俺のそばへ歩いてきた。


「航平、ちょっと待ってくれ」


「どうしました、船長。そろそろ潜水に最適な時間になります」


 船長は少し言いにくそうにしたあと、事情を話してくれた。


「怜央が昨夜、急に胸の痛みを訴えてな。冷や汗までかいていたらしい。桐谷リーダーが心配して、夜のうちに快艇で陸上基地へ連れていった。出発前に、お前にも伝えておいてほしいと頼まれたんだ」


 俺は手を止めなかった。


「船長、紗季とはもう別れました。彼女の私生活について、これからは俺に知らせなくて大丈夫です」


 船長は驚いたように目を見開いたが、やがて俺の肩を叩いた。


「わかった。余計なことを聞いて悪かったな。気をつけてくれ。海上の状況は、こっちでずっと監視している」


 俺は潜水装備を整え、通信機器と供給装置を点検した。予備の酸素供給設備と緊急浮上の手順も確認し、牽引ロープをたどって冷たい深海へ降りていった。


 水深が増すにつれ、水圧が体を押しつけてくる。耳の古傷がずきずきと痛んだが、俺はそれをこらえ、ソナーを頼りに海底へ向かった。


 ようやく見つけたサンプルカプセルに、慎重に吊り上げ用の金具を固定する。接続部分を何度も確認し、確実に固定されたことを確かめてから、海上へ合図を送った。


 カプセルが上昇を始めた直後、酸素供給装置が警報を発した。予備の供給設備にも異常が起き、残りの酸素量が急速に減っていく。


 俺はカプセルに寄り添いながら、牽引装置の動きに合わせて上昇した。酸素不足による眩暈が強まり、視界が少しずつぼやけていく。


 海上の隊員たちも異常に気づき、緊急回収の手順を開始した。俺は計器の数字を見つめ、意識を失わないよう歯を食いしばりながら、必死に上昇を続けた。


 意識が途切れそうになった、その寸前。


 ようやく海面へ浮上した。


 甲板にいた隊員たちが一斉に手を伸ばし、俺を引き上げた。潜水マスクを外した途端、喉の奥から強烈な血の味が込み上げ、俺はこらえきれずに身を折った。口元から血が溢れた。


 船長が駆け寄り、俺の腕を支えた。


「サンプルカプセルの回収に成功したぞ! 航平、よくやった!」


 俺は膝に手をつき、激しく咳き込んだ。口元には血がつき、息をするだけでも胸が痛む。


「帰港したら、盛大に打ち上げをしよう。追加報奨金の件も財務担当には話を通してある。きちんとお前の口座に振り込まれるはずだ」


 隊員たちが担架を運んできて、俺を慎重に乗せた。医療区画へ搬送される途中、全身に鈍い痛みが走った。俺はそばにいた船長に顔を向けた。


「船長」


「どうした?」


 彼は身をかがめ、俺の口元に耳を寄せた。


「辞めます」


 周囲の隊員たちが、一斉に手を止めた。船長も喜びに満ちていた顔を凍りつかせ、信じられないという目で俺を見た。


「辞めるだと? 航平、自分がどれだけ大きな仕事をやり遂げたのかわかっているのか? ここを乗り切れば、先の道はいくらでも開ける。それなのに、どうして今なんだ?」


 俺は咳をしてから、かすれた声で答えた。


「すみません。もう、この調査隊には残りたくないんです」


 船長はなおも引き止めようとした。


「今回の任務で、何か嫌なことでもあったのか? 問題があるなら、隊で解決できる。待遇も役職も相談に乗る。今すぐ決めなくてもいいだろう」


 俺はゆっくりと首を横に振った。潮の匂いを含んだ風が頬を撫で、喉の奥は焼けるように痛かった。


 踏みにじられた八年の恋愛も、壊された家伝のペンダントも、両親の墓を盾に脅されたことも、昇進や報奨金で埋め合わせられるものではない。


「引き止めなくて大丈夫です。もう決めました」


 そう言うと、俺は目を閉じた。隊員たちが担架を押し、医療区画へ運んでいくのに身を任せた。



3



 紗季が怜央の嘘を知ったのは、陸上基地へ戻ってからだった。


 前日の会議室で、航平に呼び止められたときの言葉が、ずっと頭から離れなかった。


 ――本当に、怜央に助けられたと思っているのか。


 最初は、怜央に嫉妬した航平が、わざと救助の話を持ち出しているのだと思っていた。けれど、別れ際に見せた彼の表情が、どうしても気にかかった。


 怜央は胸の古傷が悪化したと言い、基地の病室で休養していた。紗季は彼の容体を確認するため、検査記録を取り寄せた。


 一枚ずつ報告書をめくっていくうちに、指先が冷たくなっていった。


 記録には、怜央の心肺機能に異常はなく、身体の状態も良好だと記されていた。本人が何度も口にしていた古傷についても、長期療養が必要な心臓疾患についても、裏づける所見はなかった。


 紗季は報告書を握りしめた。怜央に直接問いただそうと病室へ向かったとき、扉の向こうから話し声が聞こえてきた。


 扉は少しだけ開いていた。中では怜央と看護師が雑談をしているようだった。


「怜央くんって、桐谷リーダーと本当に仲がいいよね。あれだけ面倒を見てもらえたら、これからの昇進も安泰じゃない?」


 看護師が冗談めかして言った。


 怜央の声には、普段の弱々しさなど微塵もなかった。


「そりゃそうですよ。森下とは同郷で、昔からの知り合いなんです。今回の件だって、あいつが間に入ってくれたからうまくいったんですよ」


 怜央は楽しそうに笑った。


「氷窟で助けたなんて手柄、本当は僕のものじゃないんですけどね。紗季さんって、びっくりするくらい人を疑わないんですよ。ちょっと弱ったふりをすれば、何でも信じてくれるんです」


 彼は一度言葉を切り、さらに声を弾ませた。


「このまま彼女を頼って調査の実績を積んでおけば、帰国したあとも安泰ですからね。これからは、苦労しなくても食べていけそうです」


 紗季は扉の前で立ち尽くした。怒りで全身が震えた。


 彼女は勢いよく扉を押し開けた。


 大きな音に怜央が飛び上がった。振り向いた彼の顔には、まだ得意げな笑みが残っていた。


「白石怜央!」


 紗季は彼に駆け寄り、頬を二度、平手で打った。怜央は顔を横に向け、慌てて言い訳を始めた。


「ちょっと、待ってください、紗季さん……!」


「言い訳なんて聞きたくない」


 紗季の目は怒りで冷え切っていた。


「検査記録は全部見たわ。あなたの話を裏づけるものは何もなかった。人の命の恩人を装って、嘘で周りを騙していたのね。上層部に報告する。正式に除名処分を申請するから、覚悟しておきなさい」


 彼女は怜央を残して病室を飛び出した。


 まず、航平に連絡しなければ。


 紗季は衛星電話を取り出し、彼の番号を押した。何度かけても応答はない。焦りを抑えながら、船長に電話をかけた。


「船長、航平はどうしていますか?」


「任務は無事に終わった。サンプルカプセルも回収できた。今は船の医療区画で療養している」


 船長の声は通信越しに少し歪んでいたが、それ以上の詳しい話はなかった。


 紗季はすぐに快艇で調査船へ戻ろうとした。航平に直接会って、説明したかった。謝りたかった。


 ところが、出発の準備を始めた直後、気象警報が届いた。寒波が予想より早く到来し、海上の風と波が急激に強まっていた。周辺海域の航行は厳しく制限され、快艇では安全に移動できない状態になっていた。


 紗季は陸上基地に足止めされ、砕氷船の手配を待つことになった。


 七日間、彼女は焦りと後悔の中で過ごした。


 ようやく砕氷船が手配され、厚い氷を割りながら「しらかば」のいる海域へ向かった。船体が揺れるたび、紗季は航平に何を話すべきか、頭の中で何度も考え直した。


 今度こそ、直接謝ろう。


 けれど、調査船の甲板に足を踏み入れ、医療区画も船員室も作業場所も探し回ったのに、航平の姿はどこにもなかった。


 通りかかった船員を呼び止め、彼の行き先を尋ねた。相手は困ったような顔をしたが、紗季が何度も問いかけると、ようやく口を開いた。


「相沢先輩なら、怪我が落ち着いたあと、最初に出た補給船に乗って帰られました。退職の手続きも済ませて、荷物も全部持っていかれましたよ」


「……退職?」


「はい。もう、この船にはいません」


 紗季は船長のもとへ駆け込んだ。だが、返ってきた答えも同じだった。


 航平は報奨金の手続きを済ませ、退職届を提出したあと、帰港する補給船に乗って去っていったという。


 行き先は、誰にも告げていなかった。


 船長は憔悴した紗季を見て、長いため息をついた。


「引き継ぎも全部終わらせてから出ていったよ。連絡先も教えてくれなかった。俺も引き止めたんだが、本人はもう決めていた。誰にも止められなかったよ」


 紗季はその場に立ち尽くした。胸の奥に、冷たい氷を押し込まれたようだった。


 会議室で航平を平手打ちしたこと。家伝のペンダントを壊されたこと。彼の両親の墓を持ち出して脅したこと。そして、自分の手で彼を命の危険がある深海潜水任務へ追いやったこと。


 すべてが、鮮明な映像のように頭の中を駆け巡った。


 あのとき、航平はもう自分に愛想を尽かしていたのかもしれない。


 紗季は怜央が功績を横取りし、虚偽の報告でチームを騙していた経緯を、上層部へ報告した。調査は速やかに進み、怜央は正式に除名された。調査員としての経歴も、そこで途絶えることになった。


 すべての処理を終えた紗季は、長期休暇を申請した。航平を探し出し、どうしても直接謝りたかった。


 けれど、広い世界で一人の人間を探し出すのは簡単なことではなかった。


 航平は長年使っていた電話番号を変え、かつての人間関係からも距離を置いていた。手にした報奨金でパスポートを用意し、世界を巡る旅に出ていた。


 信頼できる友人に頼み、両親の遺骨も別の墓地へ移して、改めて供養を済ませた。これから先、誰かに両親のことを持ち出され、行動を縛られる心配もなくなった。


 先の人生について、細かな計画を立てるつもりはなかった。手元の貯金で当面の生活には困らないし、旅先で短期の仕事を見つけながら、行きたい場所を訪ねていけばいい。


 南国の島を吹き抜ける温かな風も、異国の街で沈んでいく夕日も、極地の深海に残された痛みを少しずつ薄めてくれた。


 夜になると、古傷のある耳が鈍く痛むこともあった。あの冷たい海で起きた出来事を、体がまだ覚えているのだろう。


 それでも、あの頃はもう過ぎ去ったことだった。


 灼熱の砂漠を歩き、賑やかな海辺の町を訪ね、何度も日の出と夕暮れを見送った。これからどこに腰を落ち着けるのか、自分でもまだわからない。


 ただ、一つだけ決めていることがあった。


 あの凍てつく海へは、生涯、二度と戻らない。



4



 氷窟で意識を失ったあと、私が目を覚ましたとき、全身の骨が凍りついたように痛んだ。少し体を動かすだけでも、ひどい痛みが走った。


 ぼやけた視界が落ち着くまで、しばらく時間がかかった。ようやく目を開けたとき、最初に見えたのは白石怜央だった。


 その瞬間、心のどこかで落胆した。


 私は無意識に病室を見回した。けれど、相沢航平の姿はどこにもなかった。ずっと気にかけていたのは航平だった。そばにいてほしいと願っていたのも、彼だった。


 怜央はベッドの脇に座り、私が目を覚ましたのを見ると、すぐに身を乗り出してきた。そして、命懸けで私を氷窟から救い出したのは自分だと、真剣な顔で話し始めた。


 そのときの私は、まだ真実を知らなかった。


 私を救ったのは怜央なのだと、疑いもしなかった。


 周囲からは、航平は基地で療養していると聞かされていた。深海潜水で負った古傷が、まだ彼を苦しめているらしい。


 航平は昔からそういう人だった。仕事の腕は確かで、危険な任務でも落ち着いて対処する。私が心配しても、いつも大丈夫だと言って笑う。


 極地での調査には危険がつきものだ。それは私もよくわかっていた。


 それでも、航平に会いたかった。


 病室で過ごす日々、私の頭の中には彼の姿ばかり浮かんでいた。けれど、目の前には自分を救ってくれたという怜央がいる。恩を受けた相手に、冷たく接するわけにもいかなかった。


 吹雪が基地を閉ざし、病室の携帯電話は圏外になった。テレビも砂嵐ばかりで、何もすることがない。怜央はそんな私のそばで、退屈しないようにいろいろな話をしてくれた。笑わせようと気を配り、氷原での恐怖や孤独を紛らわせてくれた。


 毎日顔を合わせるうちに、私たちは少しずつ打ち解けていった。いつしか、単なる先輩と後輩という関係ではなくなっていた。


 それでも、私が愛しているのは航平だった。


 航平は口数が少なく、頼りになる人だった。仕事に関しては、ほとんど文句のつけようがない。けれど、二人で過ごしていると、どうしても会話が途切れがちになる。話題といえば、機材のことや海流、任務の数値ばかりだった。


 怜央はその反対だった。気さくで、明るくて、一緒にいると気持ちが軽くなる。場を和ませるのも上手で、いつも緊張しがちな私を笑わせてくれた。


 日が経つにつれ、私と怜央の仲を噂する声が、チーム内でも聞こえるようになった。


 噂を耳にしても、私は表面上、気にしていないふりをした。けれど、心の奥ではずっと航平の反応を待っていた。


 彼は何も言わなかった。


 私を問い詰めることも、嫉妬して不機嫌になることもなかった。まるで、周囲の噂など自分には関係がないと言わんばかりだった。


 私はそれが不満だった。


 本当に私を大切に思っているのなら、少しくらい嫉妬してくれてもいいのに。どうして何も言わないのだろう。どうして私を引き止めようとしないのだろう。


 そんな思いを抱えたまま、私はサンプルカプセルの事故を迎えた。


 抽選で危険な回収任務を引き当てた怜央は、ひどく怯えていた。氷窟で私を救ったと何度も話し、私に自分をかばってほしいと訴えた。


 そのとき、私は一つの愚かな考えを思いついた。


 この機会に航平の気持ちを試してみよう。


 彼がどこまで私に譲歩するのか、どこまで我慢するのか、確かめてみたくなった。私のために一度くらい、皆の前で嫌だと言ってくれてもいい。自分は危険な任務を引き受けたくないと、私に本音をぶつけてくれてもいい。


 そうすれば、彼がどれだけ私を大切に思っているのか、わかる気がした。


 私は勝手に紙をすり替え、命を落としかねない任務を航平に押しつけた。


 あのときの私は、自分の気持ちを確かめることばかり考えていた。その選択が彼をどれほど傷つけるのか、まるでわかっていなかった。


 航平が平手打ちを受けたことも、リスク確認書への署名を強いられたことも、家伝のペンダントが壊されたことも、私は目の前で見ていた。


 それだけではない。私は彼の両親の墓まで持ち出し、任務を引き受けるよう脅した。


 今になって思い返すと、どれも自分のしたこととは思えないほどひどい仕打ちだった。


 怜央の嘘を見破り、ようやく真相を知ったときには、航平はもう私のもとを去っていた。


 何とか彼に追いつきたいと思っても、寒波で海上の航路は閉ざされていた。陸上基地に足止めされた私は、謝罪の言葉を直接伝えることさえできなかった。


 あの事件のあと、私は極地の現場で仕事を続けることができなくなり、最終的には日本国内の部署へ異動を願い出た。


 それからの長い年月、私は一人で暮らした。


 航平と再会する場面を、何度も想像した。ようやく彼を見つけ出し、その手を取って、過去の過ちをすべて謝る自分の姿を思い描いた。


 あのとき、あなたにしたことは間違っていた。


 怜央への肩入れも、命の恩人だと信じ込んだことも、航平の気持ちを試そうとしたことも、すべて私の愚かな思い込みだった。


 あなたを本当に追い詰めるつもりなんてなかった。


 そう伝えたかった。


 けれど、世界は広すぎた。


 航平は報奨金を手に旅立ち、電話番号を変え、両親の遺骨も別の場所へ移していた。かつての暮らしにつながる痕跡を、すべて断ち切ってしまったのだ。


 私はあらゆる手段を使って彼の消息を探したが、何一つ手がかりは見つからなかった。


 年月が流れ、髪には少しずつ白いものが増えていった。


 そして、目を閉じるその日まで、私は相沢航平に再び会うことができなかった。


 遅すぎた謝罪は、誰にも届かないまま、私の胸の奥に残り続けた。


(完)





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