『隣の席が多かったね』卒業式に冷たい言葉を残した地味眼鏡男子。30年後に再会したら、超絶美形のイケボ研究者になって私を待ち続けていた。
神様というのは、時折、残酷なほど正確なサイコロを振る。
あるいは、そのサイコロには最初から重心が仕込まれているのかもしれない。
高校三年生の一年間。クラスの人数は三十五人。
席替えは二ヶ月に一度。方法は、箱の中から番号の書かれた紙片を引く、完全なる「くじ引き」。
一人の人間と、一度隣同士になる確率は約5.7パーセント。
それが二回続く確率は、約0.3パーセント。
三回続く確率は、0.01パーセントにも満たない。
だが、私と彼――久住 湊の間には、その天文学的な確率の奇跡が、一年間で五回も起きた。
偶然だと言うにはあまりにも作為的で、運命と呼ぶにはあまりにも静かすぎた。
私たちの席は、磁石のN極とS極のように、あるいは引力に捕らわれた連星のように、常に隣り合っていた。
けれど、その近すぎる距離こそが、最大の断絶だったのだ。
手が触れるほどの場所にいながら、私たちは言葉よりも重い「沈黙」を共有し続けた。
これは、三十年前の教室に置き忘れてきた、透明な愛の証明についての物語だ。
久住湊という男は、教室の風景の一部だった。
成績は常に学年トップ。だが、それを鼻にかけることもなく、休み時間になれば自席で分厚いハードカバーの単行本に没頭している。
髪は整髪料を知らないかのように無造作で、少し伸びた前髪が目にかかっている。そして何より、彼の顔の半分を覆うような、黒縁の分厚い眼鏡。
そのレンズの奥にある瞳がどんな色をしているのか、知る者は誰もいなかった。
地味で、根暗。それがクラスの大半が抱く彼への印象だった。
ただ一点を除いては。
「ねえ、聞いた? 今日の英語の音読」
「聞いた聞いた。久住くんの声、めちゃめちゃええ声ちゃう?」
女子たちの間で、時折そんな囁きが交わされる。
そう、彼の「声」だ。
普段は無口な彼が、授業で指名された時だけ発する声。
それは驚くほど低く、そして深い。
例えるなら、コンサートホールの最奥で鳴らされたチェロの最低音。あるいは、深夜のFMラジオから流れる、ノイズ混じりの色気あるナレーション。
その声が空気を震わせると、教室のざわめきが一瞬だけ凪なぐ。鼓膜ではなく、胸骨を直接振動させるような、物理的な響きを持っていた。
「声だけは、いいよね」
それが、女子たちの共通見解だった。「だけ」という言葉には、「見た目は冴えないけれど」という残酷な含みがある。
だが、隣の席の私は知っていた。
彼の魅力は、声だけではないことを。
ページを捲る白く長い指先。難解な数式を解く時の、微かに寄せられる眉間の皺。そして、私の方には決して向けられない、横顔の静謐な美しさ。
私は、その特等席で、彼という未解読の書物を一年間読み続けたのだ。
表紙すら開かれないままに。
三度目の席替えで、再び彼が隣に来た時、さすがにクラス中がざわついた。
「お前ら、またかよ!」
「もしかして、裏で操作してる?」
「付き合っちゃえよー」
冷やかしの声が飛ぶ。私は顔を真っ赤にして俯くしかなかった。
久住くんはといえば、相変わらず無表情で、分厚いレンズの奥から黒板を睨んでいるだけだった。
だが、その日の放課後。
掃除当番で二人きりになった教室で、彼が不意に口を開いた。
「……うるさくて、悪かったな」
ズン、と腹の底に響く低音。
私は驚いて、箒ほうきを持ったまま固まった。彼が私に話しかけるなんて、四月以来初めてのことだったからだ。
「え、あ、ううん。久住くんのせいじゃないし……」
「偶然にしては、出来すぎてるから」
彼はそれだけ言うと、また黙々と机を運び始めた。
会話はそれで終わった。
けれど、その一言で、私の世界は色を変えた。
彼は、気づいていたのだ。この異常な確率の連続を。
そして、それを「迷惑」だとは言わなかった。「悪かった」と、私を気遣ったのだ。
それからの日々は、奇妙な緊張感に満ちていた。
授業中、彼の吐息が聞こえる。
ノートにペンを走らせる、サリサリという音が聞こえる。
窓から差し込む陽光が、彼の眼鏡のレンズに反射し、机の上に小さな光の斑点を作る。
私たちは会話をしなかった。
けれど、お互いの存在を強烈に意識していた。
教科書を忘れた私が困っていると、無言で机の真ん中に自分の教科書をずらしてくれた時の、あの肘と肘が触れそうな距離。
彼の読んでいた難解な哲学書が気になって、図書室でこっそり同じ本を探したけれど、難しすぎて一行も読めなかった時の、甘酸っぱい敗北感。
言葉はなかった。
でも、あの教室の左後ろ、窓際の二つの席の間には、私たちにしか見えない「皮膜」のような空間があった。
そこは、世界で一番静かで、世界で一番騒がしい場所だった。
季節は巡り、卒業の時が近づいていた。
五度目の席替えでも、私たちは隣同士だった。もう誰も冷やかさなくなっていた。「あの二人はセットだから」という、暗黙の了解すら生まれていた。
卒業式の三日前。
ホームルームで、色紙大のカードが配られた。
『卒業記念・クラス全員へのメッセージ交換』。
一人一言ずつ、クラスメイト全員に対してコメントを書くというイベントだ。
私は震える手でペンを握った。
他の生徒へのコメントは、社交辞令のような言葉ですらすらと書けた。
けれど、久住湊の欄だけは、空白のまま埋まらなかった。
書きたいことは山ほどあった。
『あなたの声が好きでした』
『あなたが読んでいる本を知りたかった』
『もっと話したかった』
でも、どれも重すぎる。
この一年間の、私の秘めた想いが漏れ出してしまいそうで怖かった。
悩みに悩み抜いて、私は結局、一番当たり障りのない、けれど一番確かな事実だけを書くことにした。
ほんの少しの、運命への期待を込めて。
『何度も隣の席になりましたね。何か縁があるのかもしれません』
書き終えた瞬間、心臓が早鐘を打った。
「縁」なんて言葉を使ってしまった。重いと思われないだろうか。気持ち悪いと思われないだろうか。
でも、これが精一杯だった。
カードは回収され、卒業アルバムと共に、式の後に返却されることになった。
三月一日。卒業式。
体育館での式典を終え、最後のホームルームも終わり、私たちは解放された。
誰もが別れを惜しみ、写真を撮ったり、アルバムに寄せ書きをし合ったりしている。
私は喧騒を抜け出し、自分の机――あの一年間、彼の隣にあり続けた場所――で、配られたばかりのメッセージカードを開いた。
久住くんの字を探す。
彼の字は、テストの答案で見たことがある通り、几帳面で、少し角張った、美しい文字だった。
私の名前の横に、その文字はあった。
『隣の席が多かったね』
それだけだった。
たった、それだけ。
「楽しかった」とも、「縁だね」とも、「ありがとう」とも書かれていない。
ただの事実確認。事務的な報告のような、温度のない一行。
視界が滲んだ。
勝手に期待して、勝手に舞い上がって、勝手に傷ついている自分が惨めだった。
彼にとって、この一年間の偶然は、単なる「確率の偏り」でしかなかったのだ。
あの静謐せいひつな共有空間も、教科書を貸してくれた優しさも、すべては私の妄想だったのだ。
私は涙をこらえるために、メッセージカードの下にあった卒業アルバムを開いた。
ページを捲る。
クラス写真のページ。出席番号順に並んだ、顔写真の列。
久住くんの場所を探す。
そして、私の時間は止まった。
そこに写っていたのは、私の知らない少年だった。
いや、知っている。骨格も、髪型も、唇の形も、間違いなく久住くんだ。
けれど、何かが決定的に違っていた。
眼鏡がない。
あの分厚い、表情を隠すための鎧のような黒縁眼鏡が外されている。
露わになったその瞳は、切れ長で、吸い込まれるほどに涼やかで、そしてどこか寂しげだった。
整いすぎた鼻筋。知性を宿した瞳孔。
それは、「声だけはいい」なんて評価を粉々に打ち砕くほどに、圧倒的に美しく、端正な顔立ちだった。
息をするのも忘れて見入ってしまった。
アイドルのような華やかさではない。文学的で、憂いを帯びた、破壊的な美しさ。
なぜ?
どうして、卒業写真だけ眼鏡を外したの?
普段の彼は、かたくなに眼鏡を外そうとしなかったのに。
その時、ふと気づいた。
写真の下に書かれた、彼の一言コメント。
印刷された文字ではなく、彼が手書きで書いた原稿がそのまま載っている欄。
『見つけてくれて、ありがとう』
誰に向けた言葉なのか、主語はない。
けれど、その視線は、カメラレンズを通して、真っ直ぐに私を射抜いているように見えた。
心臓が痛い。
『隣の席が多かったね』という冷たいコメントと、この写真の熱量のギャップに、私は混乱した。
彼は何を隠していたの?
何を伝えたかったの?
教室を見渡す。
彼の席は、もう空だった。
彼はいつの間にか帰ってしまっていた。
私は、彼の写真の上を指でなぞる。
初めて見る彼の素顔。
それは、一生忘れることのできない、最初で最後の「恋の正体」だった。
それから、三十年の月日が流れた。
私も四十八歳になった。
結婚もし、子供も育て上げたが、夫を事故で亡くし今は小さな翻訳事務所で働いている。
平穏ではなかったが、それなりに幸せな人生だったと言えるだろう。
ある秋の日。
仕事の調べ物のために訪れた、都内の大きな図書館でのことだ。
専門書のコーナーで、高い棚にある本に手を伸ばしていた時、横からすっと伸びてきた手が、代わりにその本を取ってくれた。
「どうぞ」
その声を聞いた瞬間。
私の全身の細胞が、総毛立った。
鼓膜ではなく、骨を震わせるような、低く、深い、チェロの響き。
三十年という時間は、人の容姿を変える。
記憶も薄れさせる。
けれど、音の周波数だけは、魂に刻印されたまま決して消えないのだと知った。
恐る恐る顔を上げる。
そこには、白髪混じりだが、綺麗に整えられた髪の男性が立っていた。
顔には年相応の皺が刻まれ、落ち着いた知性を漂わせている。
そして、眼鏡はかけていなかった。
涼しげな切れ長の目。
あの卒業アルバムの写真が、そのまま大人になったような顔立ち。
「……久住、くん?」
私の唇から、三十年ぶりの名前がこぼれ落ちた。
彼は少し驚いたように目を見開き、それから、ゆっくりと、本当にゆっくりと、懐かしい微笑みを浮かべた。
「久しぶりだね。……隣の席の、佐々木さん」
私の旧姓。
彼は覚えていてくれたのだ。
私たちは図書館の近くの喫茶店に入った。
三十年分の空白を埋める会話は、驚くほどスムーズだった。
彼は大学で物理学を学び、今は研究職に就いていること。独身であること。
そして、あの頃と変わらず、本を愛していること。
コーヒーの湯気が揺れる中、私はずっと胸に秘めていた問いを投げかけた。
「ねえ、久住くん。あの卒業の時のコメント……覚えてる? 『隣の席が多かったね』って」
「ああ……覚えてるよ」
彼は苦笑して、カップの縁を指でなぞった。
「酷いこと書いたなって、ずっと後悔してたんだ」
「……どうして、あんなこと書いたの?」
「怖かったからだよ」
彼は静かに私を見つめた。あの、眼鏡のない、澄んだ瞳で。
「君が好きだった」
時が止まった。
三十年前の教室の空気が、今の喫茶店に蘇る。
「くじ引きのたびに、神様に祈ってた。君の隣になれますようにって。五回も続いた時は、一生分の運を使い果たしたと思ったよ」
「え……?」
「でも、僕は自分の容姿にも、性格にも自信がなかった。分厚い眼鏡で壁を作って、本の世界に逃げ込んでいた。君はいつも輝いて見えたから、釣り合うはずがないと思ってた」
彼は自嘲気味に笑う。
「あの『縁があるのかも』っていう君のコメントを見た時、嬉しくて、パニックになったんだ。僕も本当は、何か気の利いたことを書きたかったんだけど、結局、事実しか書けなかった。理系特有の悪癖だね」
涙が溢れた。
あの冷たい一行の裏に、そんな熱い想いが隠されていたなんて。
「でも、最後の悪あがきで、眼鏡を外したんだ」
「……卒業アルバム?」
「そう。一生残る写真の中でだけは、本当の自分を君に見せたかった。眼鏡を外した僕を見つけてほしかった。『見つけてくれてありがとう』っていうのは、君へのメッセージだったんだよ」
すべての伏線が回収される。
三十年前のすれ違いが、今、カチリと音を立てて噛み合った。
私たちは長い間、沈黙した。
けれど、それはあの頃のような「断絶の沈黙」ではなかった。
お互いの想いが通じ合い、過去の傷が癒えていく、温かくて優しい沈黙だった。
「……ねえ、久住くん」
「ん?」
「今度は、くじ引きじゃなくていいわ」
私は涙を拭いて、彼に微笑みかけた。
「ここ、隣の席、空いてる?」
彼は驚いた顔をした後、三十年前の少年のような、無防備でくしゃくしゃな笑顔を見せた。
そして、あの低く響く、私の大好きな声で言った。
「ああ。ずっと、空けて待ってたよ」
テーブルの上、私たちのコーヒーカップが、カツンと微かな音を立てて触れ合った。
それは、長い長い遠回りの果てに、ようやく重なり合った二つの人生の音だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
『何度も隣の席になりましたね。何か縁があるのかもしれません』
これは実際に私がもらったメッセージなのですが、作中に登場した「端正な顔立ち」という描写は、残念ながら事実ではありません。
この短編シリーズは、基本的に私の実体験の記憶をベースにした創作です。ですので、私が主人公だったりそうでなかったり、時には男になったり女になったりしながら書いています。
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