番外編 愛し君へ
「ーご馳走様でした」
中宮彰子は手を合わせると、懐紙で口を拭く。
この時代、食事は一日二食で、お粥と漬け物、それに干物があれば豪華だった。
「今日も美味しかったですわ」
膳を下げに来た女房に言うと、深く頭を下げてくる。
彰子は御簾の外に注目する。
すでに真っ暗で虫の鳴き声が、琴の音のように聞こえてくる。
その音を楽しみつつ、彰子は頬が緩むのが止まらない。
ー紫式部が持って来た物語、面白かったですわ。
源氏物語を手渡してもらい、珠と呼ばれたおつきの者と去った後、彰子はたまらず読んでしまったのだった。
物語を思い出し、ほうと息を吐く。
夕餉を済ました後といこともあり、身体がかあっと熱くなる。
扇子で熱を吐き出そうとくつろいでいると、急に声をかけられた。
「ー彰子、会いに来たよ」
この声は、と思い、彰子は立ち上がろうとすると、男性が御簾を上げ、入って来るほうが早かった。
すぐさま扇で顔を隠すと、男性は軽く首を傾げる。
「彰子、私だよ」
「わ、分かっておりますわ。…帝」
鏡で顔を整えてから会いたかったと思いつつ、彰子は一条天皇の居場所を確保する。
一条天皇はにこりと笑ったまま、彰子の側に来て、座るのではなく、抱きしめてくる。
「ああ、彰子だ。良い香りがする」
「み、帝…!! 皆、まだおりますのに」
「嫌かい? それなら下げさせよう。ー二人きりにせよ」
その言葉は柔らかいが強さがあり、従者や女房達が礼をして去っていく。
一条天皇は彰子から扇を取り上げると、ますます強く抱いてくる。
「み、帝…!! その、あの、強すぎるといいますか…」
「いいじゃないか。夫婦なんだし。彰子は恥ずかしがり屋だな」
髪をすくわれ、口づけられると、彰子はくらりとする。
ーそ、その、帝が何をなさってくるのか、予想がつかないですわ。
可愛いがられているのは分かるが、男女の駆け引きなど教わることがないので、どう接していいのか分からなかった。
とりあえず一条天皇の胸に手を当て、じっとしていると、一条天皇が聞いてくる。
「今日は何をしていたんだい?」
「今日…。そ、そうですわ!!」
彰子は急に元気になると、一条天皇の顔を見上げる。
優しく、慈しんでくれる存在。
瞳の中にいるのは彰子のみで、独占欲がわいてくる。
この輝かしい御方の側にいられるだけで、彰子は幸せだった。
一条天皇が頬に手を当ててきたので、彰子はされるままにしているが、大事な用件があると口を開く。
「あ、あの…!! 帝、今日は」
「今日は? 誰か来た?」
「は、はい。紫式部が参じまして。それでそのー」
「紫式部が? それは期待してもいいのかな?」
「もちろんですとも。少々、お待ちくださいませ」
彰子は離れようとしたのだが、一条天皇は放そうとしない。
「帝…? どうなされたんですの?」
「彰子に触れていたいんだ、今は。ああ、落ち着く」
「そ、そんな…。私で落ち着くなんて、ありがたい
御言葉ですわ」
彰子は顔を真っ赤にさせると、直衣を軽く掴む。
それから頬を触れるように、手を動かす。
一条天皇はくすくすと笑い、彰子の髪を耳にかけてくれる。
「で? 紫式部が来てどうしたって?」
「その、物語ー源氏物語を置いていきまして…。私はもう読んだのですが、帝は…どうしますか?」
「そうだな」
一条天皇は彰子との会話を楽しんでいるようで、彰子の髪を指に絡める。
彰子も嫌がらずに黙ったまま、二人の姿は重なったままとなる。
「…閨の中で、彰子の口から聞こうとしようか?」
「ね…!! あ、あの帝」
彰子の全身が沈んだ太陽を思わすほど、熱くなる。
閨といえば、男女の中でも深いものである。
ーど、どうしましょう…!! 物語は覚えているけれど、その、私が口頭で伝えることなんてできるのかしら…?
いつも閨の中で男女の事が終わると、眠るか、一条天皇が睦言を口にしてくれるのだった。彰子は一条天皇に翻弄されているのだった。
「あ、あの…!! 物語は覚えておりますが、その、正確なことは巻物を読んでいただければ」
「後でね。ーおい、閨の準備をして」
一条天皇が命じると、女房が素早く動き出す。
あれよ、あれよという間に準備が整い、後は二人が身軽になって寝るだけだった。
「ー彰子。私の心を占めるのは、君だけだ。ああ、彰子」
「帝…。ありがとうございます」
戯れるように、衣を剥がされ、ほうと彰子は息を吐く。
彰子も一条天皇の直衣に手を伸ばし、肩まで動かせる。
身長は当然、一条天皇のほうが高く、少し背伸びするような感じとなる。
すると額に口づけられ、彰子は何度受けても慣れず、少女のように顔を隠そうとする。
「駄目だよ、顔を隠しては。ちゃんと見せて」
「で、でも…。その失礼なお顔だったら困りますし」
「失礼なお顔? ふふ。彰子は面白いことを言う」
上機嫌な一条天皇に、彰子は安堵しつつ、緊張は続く。
「さて、閨に入ろうか。…しかし、それでは風流ではないな。少し外に出てみるかい?」
「あ…は、はい。そのほうがいいですわ」
自分でも何を言っているのか分からず、混乱状態だった。
そんな彰子の様子が可愛いらしく、一条天皇は上機嫌に笑っている。
「もう意地悪ですわ!!」
「それは私の特権なんだよ。ーさあ、行こう」
一条天皇は彰子を解放すると、白くて張りのある手を取ってくる。
急に身体が軽くなり、彰子は淋しさを感じたが、一条天皇のいたずらは続き、手の甲に口づけてくる。
ーきゃ!! 柔らかくて優しい感触!!
目眩がしそうで、彰子は一条天皇に伝える。
「帝、あまり私で遊ばないでくださいませ」
「ほう? 私としては、十分、愛でているつもりだよ。…ほら。月だって私達を眺めているよ」
「月…?」
一条天皇に手を引かれ、回廊に出ると、満月に近かった。
まるで彰子と一条天皇の密やかな出来事を、応援するように銀の光が降り注いでいる。
思わず彰子が「わあ」と声を上げると、一条天皇はほほと笑い、月を指差す。
「月は彰子だね。恥ずかしければ、暗い雲に隠れるし、上機嫌になれば、心を開いて近づいてくれる」
「私が月…。も、もったいない御言葉ですわ」
肩で顔を隠そうとするのだが、一条天皇はあくまでも意地悪に構ってくる。
「ほら、ちゃんと顔を見せて。私の可愛い紫の上」
「む、紫の上…!!」
源氏物語にかけて言われると、彰子は弱かった。
一条天皇が彰子のことを褒めて可愛いがっているのだと解釈し、彰子も失礼ながら言葉を返す。
「私にとって光源氏は…み、帝ですわ!! 眩しくて賢くて、立派で…。あの、私の側にずっといてくださいませ」
「ふふ、ありがとう。私が光源氏か」
一条天皇は月から彰子へ目を移すと、額に口づけてくる。
彰子は素直に受け取ると、一条天皇の直衣の裾を引っ張る。
「虫の音色も穏やかで、まるで帝のことを褒めているようですわ。月もそうですし、その、皆、帝がいれば安心だと伝えてくれているようですわ」
「そう? それは嬉しいな」
握る手に力が加わり、彰子はどきどきしていた。
風が吹き、熱気をおさめてくれるどころか、一気に一条天皇が気持ちをぶつけてくる。
「ああ、彰子。もう我慢の限界だ。閨へ行こう」
「は、はい…。帝のお好きなように」
そう言って、少し考えてから彰子は、一条天皇の顎の下に口づける。
愛情を伝えようとしたのだが、一条天皇は目を細めると、狩人の顔つきとなる。
「さて、どうなることやら。ほほ」
「帝? きゃ!!」
急に手を引かれ、また抱きしめられる。
判断を間違ったかと思ったのだが、そうでもないらしい。
「私の可愛い人。さあ、私を受け入れて」
「よ、喜んで」
二人は唇を合わせると、一条天皇に肩を抱かれながら、閨の中に入っていったのだった。




