タナカ症候群
ぼくのベッドは廊下側、入り口の左側だった。
ああ、よかった。正直そう思った。523号室、6人部屋。
以前から集団で泊まるような時、川の字に布団が敷いてあれば必ず入り口側の端をとった。
ぼくは自分をそんなに神経質とは思わないけれど、やはり間に挟まれるのは嫌だ。
でも窓側や奥側では偉そうなので気が引ける。だから入り口側がいい。タクシーに乗る時も真中は敬遠していたのだ。
既に3人の先客がいた。入り口の右、ぼくの向かい側には30代後半の顔色の悪い人。
そしてひとつ置いて窓側には点滴を3つもしているぼくと同年代の人。
そして3人目、ぼくの左隣が70過ぎくらいのタナカさんだった。
入院は初めてだったぼくに、すかさず言葉をかけて来たのもタナカさんだった。
「なに、病気は、なに?」
どことなく吃音。皺くちゃの顔から随分飛び出したようにみえる大きな目が、開いたカーテンの縁からこちらを見つめている。
「えー、キタムラくん。タナカです、よろしく」
答えもしないのにどうして知ったのか、ぼくの名を呼びタナカさんは名乗る。
「ねー、きみの病気だよ、なに?」
正直たまらないな、と思った。これから一体何日間かわからないが詮索好きなお隣さんに色々尋ね続けられるのはどうも・・・
「言いたくないの?ないよね。でもどうせ直ぐわかっちゃうよ?ねえ、教えて?」
カーテンの縁の目は好奇心に輝く。
「・・・まだわかりません。検査入院です」
「へー、そうなの?元気そうなのに、ざんねんだったね」
タナカさんはその後も色々と話しかけて来てぼくを困惑させ続けた。
タナカさんがぼくの隣にいないことは滅多になく、黙っていることも少なかった。
だからぼくがお向かいのエンドウさんに話しかけることが出来たのは、翌日のことだったと思う。
ところがエンドウさんはこちらがいくら話しかけても、ぼーっとテレビを見ているだけでこちらを見ようともしない。
土気色の顔をしかめてニュース番組を見続ける、エンドウさんのイヤホンから漏れる音だけが微かに聞こえてくる。
ぼくは諦めると起き上がってサンダルをはき、今度は窓側、点滴に埋まったようなイチカワさんの前へ行く。
この人はぼくと同じ年格好だったし、いつもコミック片手に忍び笑いを漏らしていたから愛想が良さそうだと思っていた。
電動ベッドを半分起こし、片手でコミック誌を支えている彼に話しかける。
けれど彼からは何の反応もなかった。
しばらくの間、ぼくは躍起になって話しかけたけれど、彼は最後まで視線を合わせることはなかった。
ぼくは完璧な無視に顔がほてるのを感じ、自分のベッドへ戻り、頭から掛け布団を被って包まった。
それ以来、病室の2人はぼくを無視し続け、1人はしつこく干渉して来た。
タナカさんは延々とぼくに話し続け、ぼくは次第におざなりに生返事をするようになった。
ぼくは子供の時分から存在の薄い目立たない子と言われて来たから、こうして無視されることは慣れっこになっていた。
けれど、あからさまな2人の無視とタナカさんのしつこさは度を越えているように思えた。
入院当初はそれをさり気なく看護師に伝え、病室を移れないかと尋ねたが、それは無理だとにべもなく断られてしまった。
やがて、看護師たちは病室に来てもぼくのベッドをおざなりに整えるだけで、何も言わずに去って行くようになった。
こうしてぼくの入院生活は、タナカさんと2人きりで過ごしているかのようになってしまった。
タナカさんの「ね、ね、おしえて?」や「どうして?」が呪文のように聞こえ、ぼくはうつらうつらしてしまう。
病院のベッドは生活の全てで、たまにふらふらと病院内を彷徨うように散歩しても、直ぐに疲れてしまって自分のベッドへ直行する。
するとタナカさんが「おかえり」と迎え、果てしのない質問が繰り返されるのだった。
検査入院ももう何週間になるのか。
ぼくは次第に曜日の感覚もなくして、遂に自ら担当医と話し合うことにした。
先生は診察室に入ったぼくをちらり見やると、後はパソコンの画面を睨んだままで、
「あなたの病気はとても珍しいものです」
「・・・難病なんですか?」
「難病といえるでしょう」
あっさりと肯定され、ぼくは唖然として声もない。
すると先生は顔を上げ、ぼくの方を見た。
「気の毒だが、この様子だと長く掛かるだろう。気をしっかり持って病気と戦ってゆこう。私たちも精一杯がんばるよ」
先生の顔はそう言いながらも、ご自身のほうが病気と戦っているように見えた。
顔色は青白く、その血走った目はぼくの方を見ていながらぼくを通り越して後ろの壁の模様を眺めているようにも見えた。
さっきのセリフも用意されたもので、何人もの患者に繰り返し伝えて来たものだったのだろう。
その時、ぼくはやっと気付いた。
ああ、そうか。
ぼくは立派なタナカさん病に掛かっているんだ、と。
「どうですか?ご気分は」
まだ若いのに引っ詰めた髪が薄い女の看護師が職業上の笑みを浮かべる。
患者は半身を起こし、右手を仰向けそれを熱心に見つめている。
返事はなかったが、それは看護師も期待していなかったので、記録簿に何か記入すると転がして来たキャスター付きの作業台を押して個室を出て行く。
彼女の背後から押し殺したようなクスクス笑いが聞こえて来た。
「523の様子はどう?」
ナースステーションで同僚が聞く。
「いつもの通りよ」
パソコンに患者のデータを打ち込みながら看護師が答える。
「右手を見つめて笑っていたから・・・」
看護師はクスリと笑い、
「今日は多分イチカワさんね」
「じゃあ、ラクだわ。キタムラさんやエンドウさんは苦手だから」
「私も」
2人して笑ったあと、同僚はひとつ溜息を吐く。
「また増えたんでしょう?」
「この前がキタムラさん。今度がタカギさん。」
「私、この症例初めてなのよ。でも、ただでさえ難病を抱えているのに・・・お気の毒」
この病棟に移って間もない同僚が呟く。
「タナカさんにとってはそうでもないんじゃないかな?」
この病棟勤務が長い看護師は顔を上げると同僚を見る。
「完治の望みがない病気の時、たとえ頭の中だけでもお友達が大勢いるってことは良いことじゃなくて?」