第38話 再会5
リョウの様子を見るとジルは即座にイシュタールの屋敷から港に近い小さな家にリョウを移す事を決断する。
その家からは海が見え、8年前にリョウが暫く滞在していた場所でもあった。
街中からは適当に離れている自警団の詰め所も近くにある静かな一軒家に次の日、彼らを秘密裏に移動した。
馬車の中でコウヤはアオイから8年前のリョウの様子を事細かく説明を受けていた。
どうやら昨日のリョウはあの実験場を出てからの記憶がすっかり抜け落ちている状態なのだ。
「ハオラとその側近しか知らなかったリョウは知らない全ての人間に頑固な拒否反応を示した。飯は食わねーし風呂は嫌がるしで何というか、手負いの獣みたいだったよ。」辛そうにアオイは邂逅する。「もちろん私にも同じ反応だった。」
しかし、このままにしておくわけにもいかない。成り行きとはいえ、皇太子の剣を取り上げてしまった事件も片付いてはいない。
ハオラも何時また襲ってくるかもしれないのだ。そちらの動きはルイスとスバルが監視体制を敷いている。
こんな無防備なリョウが今自分の身を護る為に戦える訳がない。
「指一本だって触れさせない。」コウヤは声に出してそう誓った。当面はリョウの世話と記憶の齟齬を無くす事が先決だった。
リョウは海辺が好きだった。怯えて暗がりから出てこないリョウも海に誘うとごそごそと這い出してくる。
外に出るときコウヤは必ず手を出し、リョウの手をしっかりと掴むと屋敷から5分ほどの小さな海岸に出る。
常に至近距離でコウヤは彼女を見ている。たださえも体の小さいリョウの幼児のような仕草にコウヤは胸を詰らせる。
なぜ、彼女がこんな目に遭わなければならないのか。いくらでも世の中の不条理を恨めそうだった。
潮風に髪を嬲られながら虚ろな瞳で波を見続けるリョウの側にいる。このまま記憶を失ったままだったら。
ミカミ・コウヤはもう彼女の中に存在しないのだろうか。ぐっと歯を噛み締めてコウヤはその後ろ向きな感情を振り払う。
それでもいい。また最初からやり直せばいいんだ。彼にはリョウの名前は自分がつけたという自負があった。
あの時でさえリョウは自分に応えてくれたのだ。
「大丈夫、リョウは戻ってくる。」さぁ帰ろうと手を差し出すコウヤにリョウは素直に従う。それはたった2日目の事だった。
ガチャーーン!!大きな音と供に窓が割れ、何かが投げ込まれたのだ。それはリョウの部屋だった。
暗闇に隠れ一人になりたがるリョウを部屋に残したコウヤはそれが敵の思う壺だったと臍を噛んだのだ。
血の臭いと大きな音に反応するリョウがパニックを起こす。当然の結果だった。
首のない大きな黒い鳥はピクピクと無様に動き漆黒の羽を広げていた。
がくがくと震えながらその光景から目を離せないリョウ。
心が凍るような悲鳴を上げた彼女が壊れていくのは必然だったのかもしれない。
あの生き生きとしていた瞳は宙を舞い、コウヤさえも映さない。
「貴方を守る」と妖艶に笑った少女はどこに行ってしまったのだろうか。そこに有るのはリョウという名の抜け殻だった。
声が瞑れている認識も危うかった。一定の時間になるとその喉を酷使し、歌おうとするのだ。
両手で首を押さえ、痛みに堪えながらその旋律を奏でる。
そしてお約束のように部屋の隅に猫のように蹲り血を吐くリョウを何度介抱すればいいのだろうか。
食べることを拒否し、夜中に徘徊する。コウヤは昏倒するまで歩き回ることを止めない彼女の後ろを付いて歩いた。
もう心が擦り切れそうだった。今度こそコウヤは自分の無力さを呪った。
生ける屍か、幽霊のようになっていくリョウをコウヤもアオイもどうすることもできなかったのだ。
最低限の気を送り込んではいるがこのままではリョウは栄養失調になってしまう。コウヤは焦り始めていた。
「生きる」という作業を放棄してしまった大切な人をコウヤは何度も抱きしめる。「リョウ…帰ってきてくれ。」
一日のほんの少しの間、リョウが大人しくなる時間をコウヤは逃がさなかった。
しかし、日を追う毎に憔悴し攻撃的になるリョウを見ているのは胸が潰れそうになってしまう。
「!!リョウ!何やってんだよっ!」窓から海を見ていると思い、少しの間目を離したコウヤの前には信じがたい光景が待っていた。
どこから持ち出したのか木の枝を繰り返し己の足に突き刺している。白い腿にそれは酷く不似合いな色だった。
薄く笑みを浮かべ無心に、まるで痛みなど感じていないかのように同じ部分を抉る動作はコウヤを震撼させ、止めるのを躊躇させた。
白くゆったりと作られた彼女の部屋着が滲むように赤く染まっていく。
昔、東の国にあったという紅い花。毒を持つ死人花と呼ばれた深紅の紅花がリョウの白磁の肌に咲き誇る。
命を司る紅い源が零れ落ちていく恐怖。ほんの数秒の事だったのかもしれない。
コウヤは呆けたようにその有様を凝視していた。体が動かない。狂気に歪むリョウの瞳に彼は完全に気圧されていた。
床に縫いとめられてしまったかのような足をコウヤは無理やりに動かした。「もうやめてくれ…リョウ…お願いだから!!」
リョウの元へようやくたどり着いたコウヤは傷ついた腿を庇うように手を翳す。
思い切り腕を振り下ろしたリョウの動きがその上でピタリと止まった。傷を覆うコウヤの手を刺す寸前でそれは躊躇していた。
リョウは無表情のまま木切れを捨てるとぎこちなくコウヤの頬に手を伸ばしていた。その時初めてコウヤは自分が涙を流していた事に気づいた。虚ろな瞳はコウヤを見てはいない。でもリョウは涙の流れる頬に触れるのを止めなかった。
その手を掴み、コウヤはリョウを強く抱き込んでいた。身体の中から突き上げる激情をコウヤは抑えることができなかった。
力任せに抱きしめ、彼女の唇に己のそれを重ねむさぼるように口づけを交わした。
罪悪感など微塵もなかった。ただリョウが欲しいと思った。いつか迎える死でさえも我慢ならなかった。
誰にも渡さない。リョウはオレの物だ。勝手に壊れるなんて絶対に許さない。
それはコウヤが男として初めて感じた欲だった。その複雑な環境によりコウヤは気軽に女性を扱える立場にいなかった。
モントール社交界の夜会などで知りあう貴族の令嬢にこんな感情を持つことは絶対になかった。
女性とは権力と金に群がる仇花であり媚を売る存在だったのだ。でもリョウは違う。初めて会った時からそう思った。
自分はこの女性以外、誰も欲しくない。
この小さな壊れかけた存在を心底愛しいと、自分の傍に居て欲しいと切望する。
その罅割れた色のない唇からかすかに紡がれる言霊は彼の名前だったのだ。「リョウ…リョウ…」
うわ言のように繰り返し呼ぶのはこの運命に弄ばれ翻弄されるただ一人の愛おしいひと。
コウヤは己の魂に誓う。この先何があろうとも未来永劫貴方の傍に有ると。
狂おしい想いは胸を突き抜ける。




