第30話 イバネマ国10
「うっわぁ…海だ。」抜けるような蒼い空に白く煌く波をコウヤは眩しそうに見詰めていた。
モントールに海はない。陸続きに列強国に囲まれる彼の国は内陸だった。
吹き付ける潮風を身体一杯に受け止めるとコウヤは大きく息を吸った。
「ここではオレを将軍の息子だって見る人間は少ない。すっげー開放感。」
くいくいと手を引くリョウの隣には屈強な男が一人。
「よう!俺はカイだ。この辺の自衛団の頭ってことで宜しくな!」
イシュタールを同じく背中をバンバンと叩かれる歓迎はここでも健在だった。「…ぅおっ!」
「イシュタールの名前は出ないがここら辺の自衛団は皆ジルさんの息がかかったものばかりだ。カルロスもリジアもよく手伝いに来るぞ。港町の治安は全てここいらで仕切ってる。大きく分けて陸側が〝銀"海側が〝青"って通称だ。」
自衛団が出来る前はこの辺りはとても治安が悪く物騒だった。怪しげな店が立ち並び、スリや犯罪者が多く潜む場所として有名なスラム街として名を馳せていた。そこへ小さな詰め所を構え自衛団を組織したのが30年ほど前。作ったのは当時のイシュタール当主、ジルの父だった。
貿易商人として頭角を現していたイシュタールだったが同業者の策略で西側の港の使用権を失っていたのだ。
イシュタールは此方側の港を占有する計画を立て、実行に移した。それにはこの場所の治安回復が必要不可欠だった。
イシュタールは金を払い、仕事にあぶれて路上で生活する若い男を雇った。噂はすぐに広まり金に困るものが大勢押し寄せてきた。
彼のやり方は変わっていた。貴賎を問わず全て雇い入れるが、働かない者や不誠実な者はどんどんクビにしていく。
1ヶ月もするうちに蟻のように群がってきた人々の中で残ったのはほんの一握りの人間だった。
その時最後まで残った14歳のカイは今でもこうして第一線で働いている。
その作戦は大当たりだった。
もともと潮の関係で船が着けやすいリズ港をイシュタールは独占したのだ。サス港よりも町に近く、安全ならとリズ港に入る船が多くなったのだ。当時、海賊の襲撃もあり船長達は荷を陸に降ろすまで戦々恐々としていたのだ。陸と海上の自衛団のお陰で海賊達も港近くまでは襲撃してこなくなりイバネマのイシュタールと交易を望む外国商人も多くなった。
現在イシュタールは魔道具以外の品物は扱っていないのだ。イシュタールの売り物はその信用と人脈、人間を扱うその能力なのだ。
港と海岸線を掌握し、国の産業である貿易に眼を光らせ、維持するのがイシュタール流の商売だった。
この辺りに憲兵や衛兵は近づかない。必要ないのだ。しかし、自衛団がいなくなれば一体どんな事になるだろうか。
銀も青もイシュタールの私設自衛団だった。そこであの国王との誓約書は生きてくる。イシュタールを無下に扱えば、自衛団は撤退し治安維持を放棄する。そしてイシュタールの国外撤退が決まればこの国の貿易は事実上壊滅状態に陥るだろう。それだけの影響力を持った上での契約だったのだ。いまや貴族よりも軍隊よりも発言力を持つイシュタールは国王や宰相にとって目障りな存在だった。
商人は必要だが独占させるのも気にいらぬ、と国王が言ったそうだ。
物陰から二人の男が現れた。黒く長いマントに深くフードを被っている。かちゃりと剣の立てる音にコウヤとカイはリョウを後に庇う。「女、顔を見せよ。」前に出た長身の男がいきなり命令する。「何者だアンタ達。普通は名乗ってからお願いするんじゃねぇのか?」
「無礼は許さん。前に出て顔を見せろと言ったのだ。」
リョウはすっと男の前に立った。側に立つもうひとりの男は顔を隠す仮面を着けていた。
仮面の男は手を伸ばしリョウの顎を捉えた。
「…子供ではないか。お前は口が利けないのか?人間なのかどうかも分からんか。」
「アンタ達何、失礼な事言ってんですかね。」「煩い。この女を連れて帰るぞ。お前私と来い。」
仮面の男はリョウの腕を掴んだ。
「おい!勝手に決めるなよ。彼女は行かねぇ。」
コウヤの声に長身の男がいきなり剣を抜いてきたのだ。
パーーン! 捕まれた腕を振りほどいてリョウは仮面の男の顔をなぎ払った。
からんと仮面は石畳に転がる。
「っ!この無礼者…許さんぞっ!!」掴みかかろうとした男にリョウは身体を深く沈ませる。
「なにっ?」
ふいをつかれた男の前に立ち上がり、リョウは落ち着いてその腹に至近距離の強烈な蹴りをお見舞いしたのだ。
「ぐぇっ!」
奇妙な声を上げて後ろに吹っ飛ばされた男を組敷き、リョウは後手に石畳に押さえつける。
「うわぁっ!」
そしていつ抜いたのか仮面の男の剣を首筋に押し付けた。ほんの数秒後の出来事だった。
「リヒャルト様っ!」うろたえ、思わず叫んだ長身の男の背中にはコウヤが短剣を突きつけていた。「貴様らっ!」
「さぁどうしますか旦那方。」カイは腕を組んで笑っている。「その方を離せ。」
押さえつけた男の耳元で何かを言ったリョウが手を離すと同時にコウヤもその身を引いた。
飛び込んでくるリョウを片手で抱きとめるコウヤは物騒な顔付きだ。
「招待状の替わりにこの剣は貰っておくからな。」
長身の男は痛みでまだ蹲る仮面の男を抱えるとフードを治す。「っつ!お・お前達は一体!」
「タオ・リョウと・ミカミ・コウヤ。私たちは・いつでも・相手に・なる。」
その瞑れたひしゃげた声で宣言するとリョウは艶やかに笑った。
美しいその風貌を裏切る低い声に黒ずくめの二人は更にぎくりとしている。
「覚えておけよ、イシュタールの小僧共!」
最後に捨てセリフを残して彼らは去っていった。